たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

欺す欺される <ある詐欺事件の事実関係を調べながら防御策を考えてみる>

2017-12-19 | 消費者問題

171219 欺す欺される <ある詐欺事件の事実関係を調べながら防御策を考えてみる>

 

以前少しこのブログか、fbで触れた記憶がありますが、私自身、四半世紀前くらいまで割と詐欺事件を取り扱っていました。なぜ欺すか、またなぜ欺されるかを被告人との面会(接見)を通じて聞き取りを行っていました。記憶も薄らいでいますが、欺す人間の中には強い自負とそれを事実と自分自身を洗脳する(みせかけかもしれませんが)ことに長けているように思いました。そうでないと簡単に欺せません。

 

さて、あるキャッシュカード詐欺事件で使われた騙しのテクニックというか、そういうものを踏まえて、どう防御するかを少し考えてみたいと思います。

 

この騙しの構造は、ある名簿を使って電話を片っ端からかけ、かけられた相手の中で信用した人からキャッシュカードやクレジットカードを受け取り、それを使ってATCで現金を引き出したり、クレジットカードで買い物をするものです。

 

その騙しの手口はいろいろあるでしょうが、たとえば電話をかける、かけ子役は、よく知られた公的団体や金融庁などの名前を使って、本人のカードが不正に使われたので、本人がもっているすべてカードが今後使われるおそれがあるため、それらを協会の職員に預けて新規発行手続きをする必要があるので、職員に預けて欲しいと連絡し、その際、すべてのカードの暗証番号も聞き出したうえ、本人の自宅付近に待機させている別の受け子に連絡して本人からカードを受け取らせ、そのカードを使ってすぐに現金化するといった方法です。

 

この場合、大抵の人は、上記の電話内容で、不正使用されたら、そのカードの使用を停止する連絡をすれば十分であり、なぜ預ける必要があるかと疑問に思うでしょうから、そうすればかけ子は引き下がるでしょう。そもそもそのような不正使用があったとカード発行の金融機関でさえ連絡することは考えにくいですし、まして公的団体や行政機関自ら電話してくることも疑問に感じるでしょうから、それでそれ以上会話がすすまないのが普通でしょう。

 

おそらく欺される人は、著名な団体や行政庁の名前を信頼するのかもしれません。それと不正に使用されたという不安状態が助けを求める思いに駆り立てられるのかもしれません。

 

しかし、こういったことも、その団体の連絡先を確認するだけで、かけ子はひるむでしょう。不正使用されたという被害感情が先に立つと、それが事実かどうかの確認すらできないある種精神のフリーズ状態になるのかもしれませんが、そういうときこそ、相手の言葉の確認をする余裕が必要でしょう。自分のカードが不正に使われたといっても、カードは自分の手元にあるわけですから、一体どんなカードとか、いつどこでといった確認作業を一つ一つ抑えていけば、相手は適当な嘘をつくばかりで、それ以上は進まないと思われます。

 

むろん、怪しいと思えば電話を切るのが一番です。なにかと突っ込むと、用意周到なマニュアルでそれなりの回答を用意している可能性もあり、引きずり込まれるおそれもありますね。

 

カードの暗証番号を求めることは取引先の金融機関でもないことを知っていれば、こういった重要情報を開示することはないでしょうけど、不安な状態を利用する救済型の詐欺の場合、不安状況を一刻でも早く逃れたい気持ちになり、そういった疑念も浮かばないのかもしれません。

 

さらに電話が終わった後、すぐに取引先の金融機関にこのことを連絡すれば、カードを引き渡すこともないのでしょうけど、それだけの気持ちの余裕もなくなっているのでしょうね。詐欺グループも間髪を入れず、カードを受け取りに来る受け子役を事前配置していますので、油断なりません。

 

それでも受け子は、著名団体の職員を名乗る分けですから、顔を隠したり、適当な服装ができませんし、身分も明らかにしないといけません。それらをしっかり確認できれば、すぐに身元がいい加減であることがわかるはずなのですが、見せかけの身分証でころりと欺されてしまうのでしょう。

 

カードを受け取れば、どこにでもATMがあるので、すぐに現金化されますね。カードを渡してすぐにおかしいと思って金融機関等に電話しても、最近は直ちに取引停止措置がとられるようですが、それでも詐欺グループも必死ですから時間の勝負となるでしょう。

 

こういった詐欺グループはあの手この手と、次々と詐欺手法を手を変え品を変えて繰り出しますから、相手にしない方法が最も有効でしょうね。

 

それは物理的な対策です。電話機を発信番号が表示されるものにして、知らない電話番号からかかってきたら、受話器を取らないのが一番でしょう。あるいは留守電にしていて、相手の対応を見て、この種の詐欺では伝言を残しませんから、その電話番号の場合は出ないことでしょう。

 

また、最近は捜査が及ばないように、外国にかけ子を住まわせ、そこから電話をかけさせるようですから、海外からの発信とわかれば(それがわからない人が欺されやすいかもしれません)受話器を取らないのが一番でしょう。いや、家族には外国暮らしをしているのがいると言われると、困りますが、そうであれば、とりわけその番号は特定され、それ以外は受話器を取る必要がないわけですね。

 

電話を取って、話を聞くことが一番、危険一杯の誘惑でしょうね。そういうと、一人暮らしで心細い生活をしているとか、家族がいても日中はいなくて淋しいと思っている人には、折角かかってきた電話を無視できないと言われそうですが、それはクールに考えて欲しいと思うのです。

 

彼らの言葉はきっと耳にやさしく、心にも響く、信頼できる話しだと思います。一度電話で話すと、詐欺師たちは簡単には獲物を逃しません。彼ら自身が洗脳されているのです。

 

でもお金がなければ安心です。ある事件では銀行残高を聞き、わずかな金額だったので、カードをだまし取ることは断念したという話しもありました。それはそうでしょうね。

 

彼らも欺される人の何倍何千倍?の人に電話して、やっと一人の獲物をみつけるのでしょうから、ま、ジャングルのハンターのように獲物も逃げ足が速いわけで失敗がほとんどでしょう。コストのかかる犯罪ですし、競争も激しいようですから、獲物がそれ相当のお金を残していないのなら、危ない橋は渡りません。

 

普段あまり考えていないことをつい今日の話題にしました。それなりの話題もあったのですが、頭の整理がつかず、簡潔に終わるテーマで今日はおしまいとします。また明日。


「出て行け」と佐藤首相 <BS1スペシャル「沖縄と核」>見て

2017-12-19 | 安全保障

171219 「出て行け」と佐藤首相 <BS1スペシャル「沖縄と核」>見て

 

録画していた上記のNHKスペシャルを昨夜見ました。私にとってこの50年代~60年代の沖縄はほとんど記憶にありませんでした。おそらく遠い存在だったと思います。いや、多くの日本人もそうだったかもしれません。マスコミも大戦末期の沖縄の悲劇などを取り上げることもなく、世の中は全体として経済成長に向かっていたのかもしれません。

 

私が最初に沖縄を意識したのは70年代初頭でした。安保反対運動という大衆活動にも距離を置き、大学の授業になにか物足りなさを感じ、一時的にマルクス・エンゲルスの書籍を読みふけりながら、それも遠のき、バイト生活をしていたころです。そのバイト仲間にNくんという一つ下の沖縄からやってきた同世代の青年がいました。

 

とてもおとなしくて誠実で、少し引っ込み思案で、本土復帰前の沖縄を、沖縄人を体全体で感じさせてくれました。明らかににそれまであった東京人はもちろん、各地からやってきたさまざまな日本人とは違っていました。彼の性格・態度の純粋さみたいなものになんとなく気があったのでしょうか。ただ、あまりに従順な態度に若かったせいか偉そうな態度も取ったかもしれません。

 

その彼が別人に変わるときがありました。歌舞伎町に誘われ、当時はやっていた(といっても私は無関心だったのですが)ゴーゴーダンスの場を訪れたときです。彼は別人のように自由奔放に踊るのです。驚きました。全身のエネルギーを、普段無口の彼が発散させるのです。そこに生命の輝きを感じました。

 

彼は給与のほとんどを沖縄の実家に送って、自らはかつかつの生活をしていて、そのダンスくらいが唯一の楽しみだったようです。当時の沖縄人には彼のような生け方をしている人は少なくなかったのではないかと思うのです。

 

本土人のほとんどがそういう沖縄人へ、暗黙裏に差別的な対応をしていたように思えます。東京では、朝鮮人差別もかなり深刻だったと思います。そういう社会主義国との対立が、そして米軍占領下の沖縄の位置付けが、繁栄の中で静かに人の心に沈静していたかもしれません。

 

そして上記の録画した<核と沖縄>はその背景事情というか消滅の危機さえはらんでいた沖縄の状況について、米国で開示された資料や当時の海兵隊員からの聞き取りで、見事にえぐり出してくれています。

 

中ソとアメリカの対立は核競争を激化させ、占領終了後も日米間では安保協定の対象から沖縄を外しつつ、核の傘を実効あるものにするため、沖縄に核配備を認めさせていました。日本の非核原則の高尚な声明は本土だけに適用され、沖縄を切り捨てた結果なしえたものでした。

 

大戦中本土防衛のためとの名目で玉砕を強いられた沖縄、今度は核戦争への対応のため、沖縄全土にその基地を配備させられるという非条理が、行われたわけです。琉球国を併合した薩摩藩による統治以来、その自治が認めれなかった歴史は戦後も続いたわけですね。これを見ると、台湾、朝鮮半島統治など、日本の行ってきたことは欧米列強を排するという建前だけでは、地元民の理解を得られないことが示されているように思うのです。

 

そして私を含む日本人の多くはそれを「日本国」「日本人」のためという「大義」のために黙認し続けて、いまなお容認しているように思うのです。

 

さて元に戻って、この番組では、本土での核配備や訓練のための発射実験が反対運動のため、米施政権下にあり、憲法上の保障がなかった沖縄に移すことになった経緯とその実態を映像で示しています。

 

その中に、那覇に配備されたハーキュリーという核弾道ミサイルの操作ミスによる爆発が起こった事例も取り上げられていました。まかり間違えば那覇が全滅するところでした。

 

NHKはあえて指摘していませんでしたが、当時、海兵隊で核弾道訓練を担っていた海兵隊は、いずれも20歳前後がほとんどで、10代の若者も相当いい多様です。60年近く経ってもいまも80歳前後ですから、彼らが当時訓練を受けたと言え、初年生に等しいわけですね。

 

核爆弾自体、広島・長崎で初めて成功し、小型化は実験過程にあったと思います。そんな中、経験の乏しい若い世代をこの危険な作業を担わせる米軍の人事にも脆弱性を感じます。

 

そして誰もが60年代初頭のキューバ危機を世界最終戦と恐れた時のことが取り上げられています。キューバというカリブ海の出来事、対岸の火事程度にしか、それでも私なんかは思っていなかったですし、多くの日本人そうではなかったのでしょうか。

 

しかし、沖縄で核爆弾の司令室に勤務していた当時の海兵隊員の一人は、現在も不覚にも涙をこぼしながら、ほんとうに核爆弾の発射スイッチが押されると思ったようでした。そして沖縄は「消滅」すると。核抑止ではなく、相互の核兵器による相手方領土の殲滅が想定されていたのです。

 

この緊迫した状況は、現在の北朝鮮と日米韓との関係とは異なるわけですが、スイッチを押せば同様の惨事、いやその何倍にも及ぶ危険性のある大惨事になるおそれがあるわけですね。これがほんとに有効な核抑止力なのか、私には理解できていません。

 

抑止力という戦略は、軍拡競争を止めると言うより、止めどもなく拡大して、民需予算を振り替えて軍備費を拡大する傾向を一向に抑えられないでいるように思えます。

 

佐藤首相自ら何度も確約した「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則の下で、わが国は沖縄返還協議で、密約を結んだ上、沖縄の核配備を解きました。しかし、本土の米軍基地を沖縄に集中させ、かつ、沖縄に核配備しないとの約束はなされませんでした。

 

米軍は、いまなお自国の領土以上に、米軍兵器を自由に動かしています。航空制限区域や港湾制限区域など、見えない立体的な米軍のバリアーが張り巡らせていて、沖縄人の自由は極めて制限されています。

 

沖縄返還交渉を成功させ、ノーベル平和賞を受賞した佐藤元首相は、ご満悦だったと思います。しかし、米軍による人権無視・米具基地の集中配置や核兵器の導入の危険性に対して、返還校長中の佐藤首相に、当時の琉球政府代表がその問題を陳情したら、鬼の形相に変わり、「出て行け」と繰り返したというのです。それが長年犠牲を強いて苦難のどん底にあった沖縄人に述べる言葉でしょうか。

 

たしかに沖縄返還を遂げた佐藤首相の苦労は大変だったと思います。しかし、明治時代はおいておいても、大戦での沖縄全土を犠牲にさせた本土の人間として、また、51年の独立時に沖縄を切り捨て占領を維持させたという、沖縄を犠牲にして独立を勝ち取った日本人として、彼らの痛みをしっかり受け止めることこそ、日本の宰相としてとるべき態度であったのではないでしょうか。

 

なにやら佐藤首相の一言に注目しましたが、そうではなく沖縄が長く抱えてきた問題、現在も抱えている問題に、少しでも注視していく必要を感じています。