たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

わが国の原爆への立ち位置 <湯川秀樹 戦中の原爆研究に言及・・>などを読んで

2017-12-22 | 原子力・エネルギー・地球環境

171222 わが国の原爆への立ち位置 <湯川秀樹 戦中の原爆研究に言及・・>などを読んで

 

今朝の毎日記事では、<湯川秀樹戦中の原爆研究に言及 京大が日記公開>と一面に大きく掲載したほか、社会面でも<湯川秀樹平和希求、湯川の原点 感情抑え時局凝視 終戦日記公開>と日記の一部公開にかかわらず、大きく取り上げられています。

 

記事は<日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹(1907~81年)が、終戦期の45年に書いた日記を21日、京都大基礎物理学研究所・湯川記念館史料室が公開した。湯川が生涯を通じて公的な発言を控えていた原爆研究「F研究」に言及。広島原爆投下や時局に関する記述もあり、専門家は「第一級の歴史的史料」としている。>とその意義を報じています。

 

その日誌・日記は相当量あるようです。<湯川の没後、遺族が38~48年の「研究室日誌」「研究室日記」計15冊を史料室へ寄贈。史料室は分析を順次進め、45年1~12月に書かれたB5判のノート3冊の内容を今回発表した。>公開されたものの時期は重要ですが、それでも全体の5分の1ですね。しかも44年以前はまだ未公開です。

 

とはいえ湯川氏が原爆研究に関与していたことを裏付ける記載が見つかったようです。<最初に「F研究」の文字が見えるのは45年2月3日で、研究の責任者だった原子核物理学者・荒勝文策教授らと相談したと記述。6月23日には、荒勝教授ら研究者11人と学内で第1回打ち合わせをしている。>

 

この「F研究」については<ことば>の中で次のように解説されています。

<太平洋戦争中、旧日本軍は極秘に原爆開発の研究を物理学者らに託した。海軍が京都帝国大の荒勝文策教授に依頼したのが通称「F研究」で、「fission(核分裂)」の頭文字を取って命名された。同じ時期、陸軍は理化学研究所の仁科芳雄博士に通称「ニ号研究」を委託した。ただ、いずれも内実は原爆製造にはほど遠かったとされる。>

 

なお、この日記には次のように広島原爆投下についても記述がありますね。

<広島原爆投下の翌日の8月7日、新聞社から「原子爆弾」の解説を求められたが断ったと記述。一方、同9日には新聞を引いて「威力は熱線が全体で数粁(キロ)に及ぶといわれている。落下傘で吊(つる)し、地上数百米(メートル)にて爆発」と書いた。>

 

とはいえ、日記・日誌とはいえ、湯川氏個人の内心はほとんど吐露されていないようです。研究者としての客観性を保持するために記述においても抑制されていたのでしょうか。

 

そして、毎日見出しでは<反核へ>と日記から湯川博士の思索の跡を見いだそうとしています。

 

このことと直接関係ないといえなくもない、ある毎日新聞連載小説をすぐに思い出しました。池澤夏樹著『アトミックボックス』です。これは一体どんな筋立てなのか、なかなかわからないまま、いつの間にか引き込まれて、とても魅了された連載小説の一つです。

 

もう34年前のものですので、おぼろげな記憶ですが、そこに湯川博士が登場していたと思います。このF研究に関わっていた頃です。弟子に当たるか、少なくとも後輩に当たる人が主人公の父親で、実家が広島にあるということで帰郷する話しをしたところ、避けるような婉曲的な助言を湯川博士がしたように記憶しています。

 

戦時中の湯川博士の日記も含めて言動について記録があまりなかったからでしょうから、この話しは作家の創造力なのでしょう。それはともかく、まず湯川博士は戦時中、原爆研究を始めていたこと、すでにアメリカでは相当研究が進み、実験の進み具合とか、実際の投下についても狭い研究社会では一定の情報を得ていたこともおかしい話しとまではいえないように思うのです。

 

ここまでなら問題は大きくないように思うのですが、次の展開がすごいのです。日本は原爆被災を受け、国民全体が非核三原則を侵してはならないものとして理解するようになったと思うのです。それにもかかわらず、戦時中の原発研究の埋め火のようなものが、ある勢力の基、再び独自の原発研究が再開されたのです。そのとき参加したのが先の主人公の父親です。

 

ところが米国の知るところとなり、結局、研究は突如取りやめとなりました。そのとき仲間のアドバイスを受けた父は、自分の身の安全を守るため、その記録をハードディスクのデータに隠して、出奔するのです。

 

その後彼は死ぬまで、家族にも誰にもこのことを秘密にして、広島の小さな島で漁民として暮らすのです。平穏だった家族の暮らしも、父の死によって一変します。しょっちゅう訪れていたおとなしい郵便配達員が挨拶に現れたかと思うと、父親の遺品のありかを母子に追求するのです。そう、彼は公安機関の密偵・監視役だったのです。

 

一人娘は大学でたしか民俗学かなにかを研究している助手だったと思いますが、その追究の中で、日焼けして無口だが優しい父親がなにか大事な秘密を、国から守ろうとしたのではないかと思うのです。

 

そして隠していたハードディスクを見つけ出した娘は、日本中の警察から追われる身となりますが、娘は果敢にさまざまな形で知り合った協力者を得て追求を逃れるのです。それはスリリングで、映画「逃亡者」顔負けの知能と体力を駆使するのです。この奇想天外な逃亡劇だけでもおもしろいですね。そして、最後にとうとうこの研究の首謀者に会って、印籠?を突き出し責任を追及するのです。結末は小説を。

 

で、この小説では、原爆による自衛・防衛を戦時中の研究段階から引き続き抱き続けている政治勢力が強固に存在することを示しているのです。それが現実性のある話しかどうかは別にして、意識としては反核というのは建前で、アメリカの核に依存すること、そのアメリカからも独立して核防衛、あるいはそれに近い代替兵器をも考える勢力が相当強く残っているおそれを感じています。

 

小説の世界ですので、おもしろく読めばいいのですが、湯川博士の日記登場ということで、反核の思想を検討するのが筋ですが、つい原発稼働で増え続けるプルトニウムが核開発に使われる危険性が高まる中、注意を払い続けなければならない問題ではないかとちょっと書きました。

 

ちょうど一時間くらいです。本日はこれにておしまい。また明日。


江戸時代の裁判 <渡辺尚志書『武士に「もの言う」』百姓たち」を読みながら

2017-12-22 | 農林業のあり方

171222 江戸時代の裁判 <渡辺尚志書『武士に「もの言う」』百姓たち」を読みながら

 

今朝の旭日は久しぶりに冬の凍てつく青空にくっきりと朱に染まる高野の峰峰が鮮やかに浮かんでいました。関東に住んでいる頃、冬景色が好きでした。東京湾のコバルトブルーに沿岸の工場地帯から横浜MM21,さらにディズニーランド、そしてずっと奥には筑波の見事な山容が美しく映えるのです。この景観はいつみても素晴らしいものでした。

 

海上を走るタンカーに自衛艦や米軍艦船もおとなしく規律正しく走行しているので(航路規制が厳しい)こういった洋上の光景も動きがあっていいものです。ふっと江戸時代の帆船が当然ながらもっと数量的には多く行き交っていたのではないかと、その賑わいを彷彿させてくれます。

 

そんな江戸時代について、渡辺尚志一橋大学教授は、従来の近世農民史の定説的な農民像に疑問を投げかけ、数々の著作を一般向けにも発表してきた啓蒙家の有力な一人と言っていいのではないでしょうか。

 

見出しの著書、一般向けですから、とても平易で私のように古文書の読解に難渋する人間には重宝します。

 

ここでは、封建時代の農民像を描いた従来の見方、武士に見下され、差別的取り扱いを受け、数々の触れ書を含む公的文書からは虐げられ続けていた姿を示してきた近世、とくに農民史の専門家に、詳細な記録を基に、百姓の生き生きと自立する近代人的な姿をリアルに表現しています。

 

副題は、「裁判でよむ江戸時代」ですが、基本は長野県の小さな村で起こった裁判事件の展開を具体的に描写して解説しています。最初に江戸時代の裁判制度を紹介していますが、これは一般的な内容で、これまでも多くの人による解説がなされています。

 

百姓は裁判なんかしない、なんてことはありません。いや、江戸時代は百姓が武器を持って争うことを禁じられたわけですので、百姓にとって一揆などの違法手段は最後の手段であって、もっぱら裁判を行っていたようにも見えます。

 

だいたい、記紀の(私が記紀というとき日本書紀の記載だったと思うのですがそれをチェックしないままなので、適当に記紀と表現しています、古事記にも記載があるという前提ではありません、どちらかにあったかという記憶に基づいています)第17条憲法に、聖徳太子が朝廷の官吏に対して、業務の怠惰を戒める言葉を示していますね。早朝出勤して業務に励む必要を訴えていたかと思います。そうしないと百姓の裁判が滞っていつまでも解決しないことを問題にしています。

 

ですから、百姓の裁判はおそらくは古墳時代にはあったのではないかと思うのです。大王の権威は裁判による解決で正義を実行するという面も重視されていたと思われます。

 

それが戦国時代は武力で決着していたのですから、百姓も銃・刀・槍をもって自分の田畑山林を守り、あるいは侵奪していたのでしょう。

 

百姓の争いは、多彩でした。自分たちが所持する土地の境界争いは絶え間なかったと思います。その中には田畑もあれば、肥料・薪・建築材となる草山、芝山、薪山、篠山、針葉樹林などなどの境界争いが多かったと思います。むろん用水争いも深刻でした。その種の裁判は、fbとかこのブログで一部紹介したことがあったと記憶しています。

 

で、この著書では、名主の地位を争う裁判です。と同時に背任・横領という関連する裁判で、この種の地位を争うケースではよくあるパターンでしょうか。そこに江戸時代特有の高持百姓といった年貢を支払う百姓でも、かなりの農地をもつ百姓群と、数反程度しか持っていない、江戸時代にも多かった兼業農家との対立が関係しています。百姓という言葉は、姓に職業性を認め、それがたくさんある、つまりは庶民を示しているとも解説されることがあります。実際、農民の多くは農業だけをやっていたわけではなく、村で自給自足する地域では、道具を作る鍛冶職人、桶職人、豆腐職人などなど、多くの仕事を農業の副業あるいは本業でやっていたようです。

 

もう一つ、名主は、村の代表でもあるし、年貢を取り立てる側の役人的立場にもありました。とはいえ、村単位で年貢を納めるので、村ぴとの中に不作とか、病気で年貢を納められないときは、代わって自腹か工面して納めることが期待されていました。その名主役は世襲制もありましたが、入札制もあり、後者は資格のある百姓による選挙制でしたが、現代と違うのは立候補制でなく、当然、その政治的行政的意見なりを評価して札が入れられるわけでなかったのです。

 

で、細かいことは省きますが、そろそろ事件にはいります。

 

舞台は松代藩、藩主は大阪城冬・夏の陣で家康を震撼させた幸村の兄、真田信之です。その後明治維新まで続いたのですから治世がしかりしていたのでしょう。そこに記録がたくさん残っていて、その中に裁判記録も詳細に残されていたというのです。

 

名主は入札制で、長年選ばれていたのは所持地の多い百姓が順番で交代しているような実態でした。ところが、所持地の少ない百姓が寄り合ってそれに抗議して、自分たちの代表を名主にするようにと申し入れ、3年後に名主にすると一旦決着したのですが、交代を拒否したのです。それで問題が発生しついには裁判沙汰になったわけです。

 

時代は19世紀初頭、幕末の飢饉の影響や百姓の交易活動などで合理的な思想が普及するなど、時代の様相が変わりつつある時期に起こっています。

 

当時は民事も刑事の一部も同様に扱われていたようです。EUの中でもそうですね。イタリアが全面的にそうなっていたと思います。この手続きの便利な点は、刑事事件で迅速に裁判がでれば、同時に民事でも賠償額が決まるといった、共通事件処理のメリットでしょうか。弊害もあるのですが、今後わが国でも部分的な導入を検討されて良いかもしれません。

 

また元に戻って、旧来の名主層に対して抗議をしたグループは、いくつかの理由を挙げました。一つは、他村のお寺に借金があるとのことで、村人が負担して返済してきたが、そのような借金がないと、住職などの証言を根拠に主張したのです。

次に、元村民が多額の借金をして村外に逃散し、その借金も村民で返済しているが、その借金はすでに返済済みだということです。

これに加えて、これまでの名主は、他村の行事に出席するのでも余分の出費をしたことにして村費を不正に使用しているといったことです。(これはいずれも一週間くらい前にざっと読んだ記憶ですので曖昧です、正確なところは是非上記の著作を見てください)

 

この争点は、代官だったと思いますが、吟味調査をしていくのですが、その中で抗議側の何人かは偽証をリーダーにそそのかされたとして、リーダーが捕縛されます。

 

これで一気に解決かと思いきや、江戸時代、いや戦後もある時期まで刑事裁判は自白中心主義ですので、リーダーの自白がとれないと裁判ができません。ところがリーダーは頑として自白を受け付けません。

 

そしてさらに上層部の勘定奉行かが裁判に当たることになり、結局、よく吟味すると、お寺の借金も村外に逃散した百姓の借金も、すでに返済してない、それにもかかわらず返済を続けるという名目で村費として出費していたことがわかりました。その他の村費の出費も同じでした。

 

これいまよく問題になっている公金不正使用なり、横領ないしは背任になりかねませんね。

 

この結果に至るまで長い、長い裁判が続いています。百姓側は(抗議側)当然、明確な裁判を求めてきたのですから、白黒つける結果を期待しますね。

 

でも江戸時代の裁判は、内済(和解でしょうか)ないしはそれに近い解決がほとんどでした。で、このケースでも、会計不正や偽証、あるいは原告になった側、いすれも藩を騒がせたと行って不埒な行為と非難しつつ、叱責程度で、それが判決書のようです。名主は後日抗議側のリーダーに変わっていたと思います。

 

結局なんだっただろうと思いますが、それでもいわば一審、二審、三審的な様相で、百姓の訴えを無視できず、徹底的に審理せざるを得ない、そして一刀両断的に判断できない、当時の権威の形骸化や判決といった解決が村社会では収まりがつかなくなることへの配慮がうかがえます。

 

ほんとは再度読み直して書こうかと思っていたのですが、未消化のまま書いてしまいました。数時間で読み通せる内容に書かれていますので、興味のある方はぜひ。

 

ちょっと別の裁判例を今度紹介できればと思います。