たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

農産物の新たな道 <梅酢ポリフェノール 鼻水、のどに梅が効く>などを読みながら

2017-12-08 | 農林業のあり方

171208 農産物の新たな道 <梅酢ポリフェノール 鼻水、のどに梅が効く>などを読みながら

 

私はしばらく柿畑の世話というか、ま、草刈ばかりをやっていました。柿も食べれないほど多いので、カラスやヒヨドリなど野鳥の餌になっていました。それであるときもったいないので柿酢づくりをしたことがあります。臭いが一時きつくて家族には不評で、やり方が適当だったせいか、結局、カビ生えたりして、途中で断念した記憶があります。竹酢も挑戦しようかと思ったのですが、柿酢でも不成功におわったこともあり、やらないままです。

 

JAの直売所などでは柿酢を売っているのを後で見て、結構人気があるのかしらと思いました。たしかにたとえばこのウェブ情報<柿酢の作り方 | 高血圧に効果・効能有り>では、なかなか魅力的な効能があるようですね。実際、柿の実は健康にいいと言われていますし、冬は柿がよいとおもってよく食べています。

 

そんなとき、今朝の毎日和歌山版では<梅酢ポリフェノール鼻水、のどに梅が効く 風邪、インフルの症状軽減 紀州田辺振興協が臨床試験で確認>と報じられています。

 

少し中身を紹介しますと、<田辺市とJA紀南でつくる「紀州田辺うめ振興協議会」は6日、梅酢から抽出した「梅酢ポリフェノール」が風邪やインフルエンザの予防に効くかどうかを調べる臨床試験の結果、鼻水やのどの痛みなどの症状を和らげる効果が確認できたと発表した。>ということで、19年度中に商品化を目指しているそうです。

 

そもそも日本一でしたか、梅干しづくりでやっかいなのは梅酢の処理ですね。昔は海洋投棄していましたが、海洋汚染防止法だったか、水濁法だったか失念しましたが、投棄禁止となり、排水処理施設により排出基準に適合するよう処理しないといけないことから、梅農家ではそのコスト負担等で長い間悩みの種だったと思われます。

 

<梅の実にはポリフェノールが0・1%ほど含まれており、梅干しを漬けると梅酢に一部が溶け出す。梅干しづくりで大量に出る梅酢の活用は長年の課題となっている。>と記事では処理負担の問題を活用という課題に転じて掲載していますが、活用できないと、その処理が大変な事態は変わらないでしょう。

 

とはいえ、わが国の企業の智慧は、ゴミ山からリサイクルというか有価物を生み出すところにあったとも言える要素があると思います。その意味では、排出水としては環境に悪影響を与えかねない梅酢ですが、活用できれば有用となるし、利益もでることになり、一石二鳥ですね。

 

<梅酢ポリフェノールには、インフルエンザウイルスの増殖を抑え、不活性化する作用があることが分かっており、市とJAは2016年12月、医薬品や食品添加物の開発に必要な特許を取得した。機能性をうたった商品づくりには、健康に役立つ証明が必要なため、和歌山大食農総合研究所の三谷隆彦客員教授らのグループに委託して臨床試験を行った。>

 

その結果、疫学的に有意な成果を得たことが記事で詳細に書かれています。<軽減されたのは、鼻水、のどの痛みや違和感、たんなど、鼻やのどに関わる症状で、発熱や頭痛にはあまり効果がみられなかった。>

 

そして<三谷客員教授は「感染は防げなくても、症状が減り、軽い程度ですむことが分かった。うがいの回数が多くなれば、抗ウイルス効果がより明確に表れる。薬品よりも機能性表示食品などへの利用に可能性を感じる」と話した。今後、海外医学誌への論文発表も予定している。>と期待される状況のようです。

 

梅酢が期待できるのであれば、柿酢も挑戦してもらいたいですね。

 

ただ、注意を要するのはまだ機能性表示食品の科学的な根拠としては十分ではない段階だと思われるので、さらなる検証を期待したいと思うのです。

 

毎日記事<機能性表示食品「根拠低い」3割>は、現在市販されているその種の食品には科学的な根拠を欠くものが相当数に述べることを取り上げています。

 

これは<機能性表示食品の科学的根拠を評価している消費者団体「消費者市民社会をつくる会」(理事長=阿南久・元消費者庁長官)の科学者委員会(小泉直子委員長)が、製品の評価結果を公表した。>ものですが、そこに一つの基準が示されていますので、参考になりますね。

 

他方で、消費者庁自身、この問題を真摯に受け止め、163月には<「機能性表示食品」制度における機能性に関する科学的根拠の検証>と題する報告が発表されており、この内容は、既存の商品について科学的根拠を検証するものですが、素人には少しわかりにくいですね。それと単に届出だけを検証するもので、実際の食品そのものを検証しているわけではないようですので、なにか物足りなさを感じます。いずれにしても短時間で理解するにはちょっときついので、コメントはスルーします(といいながら勝手な意見を述べてしまいました、軽率の誹りとの批判は甘受します)。

 

 

なお、15年作成の<機能性表示食品の届出等に関するガイドライン構成>の方はわかりやすい印象ですので、参考に取り上げました。

 

今日は大阪まで車で出かけて、少々疲労感が残っていますので、このあたりで終わりにします。

 

業務時間も過ぎましたし、きりのよいところで(何を言わんとしたかまたまた判然としませんが)、おしまいとします。また明日。


花と禅その10 <「無心」と「空の心」と多様で変化に富む感情、実態>

2017-12-08 | 心のやすらぎ・豊かさ

171208 花と禅その10 <「無心」と「空の心」と多様で変化に富む感情、実態>

 

今日で、このシリーズを一旦打ち止めにします。平井住職の言葉はわかりやすいものの、まだまだ理解する領域に達しない私の話はこのあたりで終えるのが頃合いではないかと思います。

 

平井住職は、花を禅の真髄を理解する具象として、多面的に語っています。その中で二つの言葉が本質に迫るものかと思いつつ、さてどうしたらと思うのです。

 

その一つは、「禅において、花は『無心』の象徴です」というもの。この無心について、平井住職は、次のように語っています。

 

「スポットライトが当たる仕事は精いっぱいにやるが、裏方仕事は適当に片づけてしまう、というところがみなさんにもありませんか? そうさせているのは『はからい心(自分の勝手な都合で判断すること)』でしょう。」

 

そして無心について、この「はからい心を取っ払う」ことと述べています。人間が普段の生活でいつとはなしにみについた評価や判断基準を取ってしまえといっているのでしょうか。それはそれでそのとおりと思いつつも、これまたややこしいことですね。難解な問題ですね。

 

私自身、公平さということを大切にしたいと思い、差別することについて、他人はもちろん自らの心にそういう意識が生まれることを嫌な気持ちになります。しかし、その気持ちの持ちようすら、無心は否定するように思うのです。そういう反抗意識的なものすらなくなった状態でしょうか。おそらく私には今後もそういう無心にはなれそうもないかなと思ってしまいます。

 

ただ、無我夢中になっているとき、その一瞬は、それ以外の事柄は空に近いかもしれません。でも集中している事柄は、無心ではない意識作用、どちらかというと強い価値判断が働いているように思うのです。すると、無心はいつも存在しないし、ありえないかな・・・とつい思ってしまいます。

 

もう一つの平井住職の言葉、「空にしておかないと、器の音は響きません。心も空にしましょう」というその著作の最後に書かれた部分です。

 

私たち人間は常に煩悩をかかえていますね、むろん喜怒哀楽を感じるのが人間ですから喜びあれば楽しみもありますが、同時に深い悩みも苦しみもありますね。

 

平井住職は、「心が悩みや不安、怒りや嫉妬などの感情でいっぱいになっていたら、誰がどんなアドバイスをしてくれでも、それを受け入れることができません。心に響かないのです。打てど響かず、いわゆる、聞く耳を持たない状態になってしまう。」と述べています。

 

聞く耳、という人間にとって、社会に生きることで成り立つと思われる人間にとって、それがない状態は悲しいというか、唯我独尊というのか、孤立の中でしか生きられないことになるのでしょうか。これは私が理解できていない証拠の筋書きです。

 

平井住職は、「『無一物中 無尽蔵』という禅語があります。何ひとつ持たない、何ものにも執着しないから、そこにかぎりない世界や可能性が広がっている、といった意味ですが、空っぽというのは何もないことではなく、何でも受け入れられるということでしょう。」と述べています。

 

執着しないというところに本質があるのでしょうか。悩み、不安、怒り、嫉妬は、そうかもしれません。花はもちろん、そんな執着がないでしょう。いや山川草木すべてそうではないでしょうか。それを習えと言うことでしょうか。人間というものの本質をどう切り盛りするか、いやそれ自体が空から遠ざかる発想なんでしょう。

 

こうなると、無心も空も、そうあれればと思いつつも、無理難題と思ってしまうのがいまの私でしょうね。

 

とはいえ、平井住職は次のようにお釈迦様の言葉を引用しつつ、苦しみの中にもやすらぎを見いだす極意?を語っています。

 

「汝らよ、この世は苦に満ちている。されどなお、この世はまことに美しく、人生は甘味なり」と、その生涯の最後に説いたという『遺教経』(ゆいきょうぎょう)のなかにこの一説があるそうです。

 

人の世が苦しみに満ちあふれていると同時に、美しく、甘味だと遺言されているわけですから、苦しむことは呼吸をするのと同じくらいに思ってもいいのでしょうね。

 

さらに続けてお釈迦様は次のように述べているそうです。

 

「されば諸人、まことの法を灯火とし依りどころとし、己を灯火とし依りどころとして、怠らずいまをつとめよ。一日一事を大切に生きよ」

 

苦しみを受け入れ(無心の心でしょうか)、一日一事を大切に生きることで、美も、甘味も味わうことができ、やすらぎを得られるのでしょうか。たしかに苦しみも悲しみの一日中、一年中、あるいは何十年にわたって続くものではないように思います。苦しみに、悲しみに、痛みに、慣れることも、順応することもあるでしょう。そういうとき、もしかしたら空になり、無心になり、ちょっとしたことにやすらぎを感じることができるかもしれません。

 

脳脊髄液減少症(公的には現在は脳脊髄液漏出症でしょうか)と診断された柳澤桂子氏の著作には、長い闘病生活の中で一瞬のやすらぎを感じる部分が描かれていて、とても感動的でしたが、そういう人だからこそ、心訳般若心経を内容とする『生きて死ぬ智慧』を著すことができたのではないかと思うのです。

 

そろそろ時間となりました。やはり文脈のはっきりしない内容となりましたが、平井住職の『花のように、生きる』に心打たれるものがあり、私の勝手な解釈を書いてきました。

 

できれば直接同書を読んでいただければと思うのです。

 

このシリーズはこれにておしまい