たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

花と禅その10 <「無心」と「空の心」と多様で変化に富む感情、実態>

2017-12-08 | 心のやすらぎ・豊かさ

171208 花と禅その10 <「無心」と「空の心」と多様で変化に富む感情、実態>

 

今日で、このシリーズを一旦打ち止めにします。平井住職の言葉はわかりやすいものの、まだまだ理解する領域に達しない私の話はこのあたりで終えるのが頃合いではないかと思います。

 

平井住職は、花を禅の真髄を理解する具象として、多面的に語っています。その中で二つの言葉が本質に迫るものかと思いつつ、さてどうしたらと思うのです。

 

その一つは、「禅において、花は『無心』の象徴です」というもの。この無心について、平井住職は、次のように語っています。

 

「スポットライトが当たる仕事は精いっぱいにやるが、裏方仕事は適当に片づけてしまう、というところがみなさんにもありませんか? そうさせているのは『はからい心(自分の勝手な都合で判断すること)』でしょう。」

 

そして無心について、この「はからい心を取っ払う」ことと述べています。人間が普段の生活でいつとはなしにみについた評価や判断基準を取ってしまえといっているのでしょうか。それはそれでそのとおりと思いつつも、これまたややこしいことですね。難解な問題ですね。

 

私自身、公平さということを大切にしたいと思い、差別することについて、他人はもちろん自らの心にそういう意識が生まれることを嫌な気持ちになります。しかし、その気持ちの持ちようすら、無心は否定するように思うのです。そういう反抗意識的なものすらなくなった状態でしょうか。おそらく私には今後もそういう無心にはなれそうもないかなと思ってしまいます。

 

ただ、無我夢中になっているとき、その一瞬は、それ以外の事柄は空に近いかもしれません。でも集中している事柄は、無心ではない意識作用、どちらかというと強い価値判断が働いているように思うのです。すると、無心はいつも存在しないし、ありえないかな・・・とつい思ってしまいます。

 

もう一つの平井住職の言葉、「空にしておかないと、器の音は響きません。心も空にしましょう」というその著作の最後に書かれた部分です。

 

私たち人間は常に煩悩をかかえていますね、むろん喜怒哀楽を感じるのが人間ですから喜びあれば楽しみもありますが、同時に深い悩みも苦しみもありますね。

 

平井住職は、「心が悩みや不安、怒りや嫉妬などの感情でいっぱいになっていたら、誰がどんなアドバイスをしてくれでも、それを受け入れることができません。心に響かないのです。打てど響かず、いわゆる、聞く耳を持たない状態になってしまう。」と述べています。

 

聞く耳、という人間にとって、社会に生きることで成り立つと思われる人間にとって、それがない状態は悲しいというか、唯我独尊というのか、孤立の中でしか生きられないことになるのでしょうか。これは私が理解できていない証拠の筋書きです。

 

平井住職は、「『無一物中 無尽蔵』という禅語があります。何ひとつ持たない、何ものにも執着しないから、そこにかぎりない世界や可能性が広がっている、といった意味ですが、空っぽというのは何もないことではなく、何でも受け入れられるということでしょう。」と述べています。

 

執着しないというところに本質があるのでしょうか。悩み、不安、怒り、嫉妬は、そうかもしれません。花はもちろん、そんな執着がないでしょう。いや山川草木すべてそうではないでしょうか。それを習えと言うことでしょうか。人間というものの本質をどう切り盛りするか、いやそれ自体が空から遠ざかる発想なんでしょう。

 

こうなると、無心も空も、そうあれればと思いつつも、無理難題と思ってしまうのがいまの私でしょうね。

 

とはいえ、平井住職は次のようにお釈迦様の言葉を引用しつつ、苦しみの中にもやすらぎを見いだす極意?を語っています。

 

「汝らよ、この世は苦に満ちている。されどなお、この世はまことに美しく、人生は甘味なり」と、その生涯の最後に説いたという『遺教経』(ゆいきょうぎょう)のなかにこの一説があるそうです。

 

人の世が苦しみに満ちあふれていると同時に、美しく、甘味だと遺言されているわけですから、苦しむことは呼吸をするのと同じくらいに思ってもいいのでしょうね。

 

さらに続けてお釈迦様は次のように述べているそうです。

 

「されば諸人、まことの法を灯火とし依りどころとし、己を灯火とし依りどころとして、怠らずいまをつとめよ。一日一事を大切に生きよ」

 

苦しみを受け入れ(無心の心でしょうか)、一日一事を大切に生きることで、美も、甘味も味わうことができ、やすらぎを得られるのでしょうか。たしかに苦しみも悲しみの一日中、一年中、あるいは何十年にわたって続くものではないように思います。苦しみに、悲しみに、痛みに、慣れることも、順応することもあるでしょう。そういうとき、もしかしたら空になり、無心になり、ちょっとしたことにやすらぎを感じることができるかもしれません。

 

脳脊髄液減少症(公的には現在は脳脊髄液漏出症でしょうか)と診断された柳澤桂子氏の著作には、長い闘病生活の中で一瞬のやすらぎを感じる部分が描かれていて、とても感動的でしたが、そういう人だからこそ、心訳般若心経を内容とする『生きて死ぬ智慧』を著すことができたのではないかと思うのです。

 

そろそろ時間となりました。やはり文脈のはっきりしない内容となりましたが、平井住職の『花のように、生きる』に心打たれるものがあり、私の勝手な解釈を書いてきました。

 

できれば直接同書を読んでいただければと思うのです。

 

このシリーズはこれにておしまい



最新の画像もっと見る

コメントを投稿