外苑茶房

神宮外苑エリアの空気を共有し、早稲田スポーツを勝手に応援するブログです。

中村勝広さん

2010-05-20 18:23:50 | 大学野球
以前に、角帽の似合う選手として私のイチオシである林田真人さんの写真をご紹介しました。
記事へのリンク

角帽が似合うことについては、その林田さんと双璧と私が思っているのが、中村勝広さんです。

中村勝広さんは、千葉の九十九里のご出身で、成東高校から早稲田に進学し、四年生では主将。
そして四年生の秋にはベストナインに選ばれました。

1971年(昭和46年)に阪神タイガースに入団されて以降、堅実な守備を誇る二塁手として、そして指導者として、永らくプロ野球の世界で活躍されてきました。

以前、週べに中村さんのご自宅を紹介する記事が掲載され、応接間に置かれてガラス・ケースの中には、背番号10のWASEDAのユニフォームが大切に保管されていました。

プロ野球経験者が大学の指導者となることができる時代。
個人的には、中村勝広さんのWASEDAのユニフォーム姿を、いつの日か、再び見てみたい気持ちです。

ところで、中村さんの角帽姿、実に格好良いと思われませんか。

買ったばかりの角帽は、ピンと張りだした感じです。
現在の下級生部員の被る角帽は、まさに新品のまま。

しかし、かつての早大生たちは、ローソクの炎でケバケバを焼き落とした後に、油脂を塗って擦ったりして、しんなりした感じに加工するのが密かなお洒落でした。

林田さん、中村さんの写真を見ても、角帽がしんなりして、いかにも使い込んだ感じになっているのが判ります。

現在でも、応援部員たちは、あれこれと手を加えてペシャンコになった角帽を被ります。
それを被って旗手を務めることも彼らの美学の一部であります。

来たる早慶戦では、応援部員の被る角帽にも注目してみてください。


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北海道と早稲田野球部

2010-05-19 21:15:36 | 大学野球
選手のご家族とメールのやりとりをさせていただく中で、ある方から『私は北海道の出身なんです』とお話しをいただきました。

北海道と早稲田野球との縁に思いを巡らしたとき、久慈次郎さんの名前を挙げないわけにはいきません。

このような話題になるとオフ会仲間のdawase86さんの足元にも及ばない私ですが、今回は、少し我慢してお付き合いください。


久慈次郎さんは、岩手の旧制・盛岡中学(現・盛岡一高)から早稲田に進み、捕手として一世を風靡し、卒業後は函館オーシャン倶楽部の主力として永らく活躍されました。

そして、沢村栄治とバッテリーを組んで、ベイブ・ルースやルー・ゲイリックを主力とする大リーグ選抜軍と戦い、その当時、創設の準備が進められていたプロ野球・巨人軍の初代主将に内定していたことでも判るように、力量でも人格でも、周囲から一目置かれる、超越した存在でありました。

ところが、札幌円山球場で行われた試合で、捕手の二塁への送球をこめかみに受け、急逝されてしまったのです。

この時、当時のスポーツ・メディアが、久慈選手死亡の翌日に、次のように伝えています。
第二次大戦前の文章ですが、時代を超えて野球ファンの心情に訴えてくる名文です。
---------------

『痛恨!名捕手久慈次郎グラウンドに死す』

君ほどの名手にも油断というものがあるのだろうか。

早稲田時代・函館オーシャン時代を通じて名捕手の名をほしいままにした名手、久慈次郎が昨日、打者として攻撃中に捕手の送球をこめかみに受け、病院に運ばれたが死去した。

試合は8月19日に行われた、久慈君率いる函館オーシャンクラブ対札幌クラブ。7回表、函館の攻撃。得点は札幌が2-1と1点リード。遊ゴロ失で出塁した走者に代走が送られ、盗塁して無死走者2塁。

 この好機にプレーシングマネジャー久慈君は自ら代打として出場した。ところが札幌のバッテリーは敬遠の四球。

 久慈が1塁に歩きかけたとき、2塁走者がするするとリードした。当然捕手吉田は2塁に牽制球を投げる。ところが、マネジャーでもある久慈君は、急に作戦を思い出したのか、くるりと本塁方向に歩き始め、次打者に指示を与えようと前かがみになってしまったのである。

 なんという悪い偶然であろうか。吉田君の投げたボールは、久慈君のコメカミに当たってしまったのである。

 久慈君は、札幌市立病院に運ばれたが、脳内出血により42歳の生涯を閉じた。

 葬儀は23日に行われた。

故人の恩師 安部磯雄の葬儀の際に捕手吉田に与えた言葉は満場の会葬者をことごとく泣かしめた。それは以下の通りである。


彼ほど人望のあった人はいない。
彼を呼ぶのに久慈君という人はなく、一様に次郎さんと愛称を用いていたのでもわかりましょう。
また、彼ほど純真な人間もまれです。
私が特に深い愛情を有しているのも、この純真さのゆえでした。
今日突然、久慈君ほどの人物を失ったことは、皆様ご同様、まさに断腸の思いでありますが、同時にかかる事態を惹起すべき不幸な運命を与えられた札幌倶楽部の吉田君の胸中をお察しすれば、まことに同情にたえません。
誰が、故意にあんな事をしでかしましょう。
それは人間として考えられぬ事です。
すべては神のみが知る偶然によることですが、しかし吉田君は生涯忘れ得ぬ不幸な出来事として煩悶されているかも知れない。
だが、万事が過ぎ去りました。
吉田君は一日も早く暗い記憶を拭い去り、虚心坦懐、心機一転して再びグラウンドに立つべきです。
故久慈君もそれを望んでいると確信いたします。
どうか、今日ご参列の方々のうち吉田君にお会いする方がございましたら、安部がこう申していたと伝えてください。


記者も思わずもらい泣きしたことを告白する。

次郎さん、さようなら。天国から日本野球の行く末を見守ってください。

昭和14年8月24日
-------------

早稲田の野球部長であり、尊敬の念を込めて日本野球の父とも呼ばれる安部磯雄先生のお言葉を聞いて、涙を流さない野球ファンはいないと私は思います。

また、久慈さんの遺体を運ぶ列車が札幌から函館までを運行されると、途中の各駅に野球ファンが集まり、久慈さんとの別れを惜しんだと伝えられています。


この久慈さんの死を受け、都市対抗野球大会では、1947年の第18回大会から、敢闘精神あふれる選手に与える賞「久慈賞(くじしょう)」を設けました。

また、1959年に創設された野球殿堂では、正力松太郎や沢村栄治らと並び、第1回の殿堂入り選手となりました。

そして、函館オーシャンスタジアムには久慈さんがミットを持ち構えている銅像が建てられているのですが、その銅像は、全日本で一緒にプレーし、東京巨人軍入りを強く推薦したヴィクトル・スタルヒン投手の銅像が建つ旭川スタルヒン球場の方角を向いていると言われています。


北海道に縁のある早稲田の野球部員のことは、必ず早稲田の大先輩である久慈次郎さんが、雲の上からしっかり見守っていてくださると私は確信しています。

ですから、ご家族は安心して、ご子息の成長を見守っていただければと私は思います。
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上海からのビジター

2010-05-18 18:20:08 | ビジネス
先週はロンドンからの来客が金曜日までいて、その対応に数日間追われました。

そして今日は、上海から私のBoss、すなわち直属の上司が一日限りの予定でやってきました。
Bossといっても麗しい女性でして、米国の理科系大学院への留学経験もある、本当に聡明な中国人です。
ちなみに、米国留学中に知り合ったというエンジニアのご主人(現在は北京に単身赴任中)との間に、10歳の娘さんがいらっしゃいます。

彼女は、昨夜の遅い飛行機で、他のエグゼクティブと一緒に東京にやってきて、有楽町のペニンシュラ・ホテルに宿泊しました。

私は、今朝7:30にホテルのロビーで彼女と待ち合わせして、朝食をとりながら私の担当業務についてのビジネス・アップデートを一時間あまり。
美味しいはずのペニンシュラの朝食メニューですが、今日ばかりは、あまり楽しめませんでした。
(T_T)
(写真は待ち合わせした、ペニンシュラ・ホテルのロビーの朝7時過ぎの光景です)

その後、丸の内のオフィスに移動して、在日代表も加わって、今年の後半のビジネス・プランについて、本部と日本との考え方について摺り合わせを行ないました。

理科系の出身ということもあって、彼女は文字通り理詰めの思考回路です。

彼女は、人懐っこい笑顔を見せながらも実にシャープな質問をしてくるので回答するのも大変です。
でも、その代わりに判断も早いので、当方がきちんと問題点を整理して伝えることさえできれば、懸案事項がどんどん解決していきます。

まるで電子制御のブルドーザーのように案件を次々にこなして、夕方には上海に向かって、彼女は飛び立っていきました。

どこの国にも、優秀で働き者という人物はいるものです。

というわけで、今日も一日、本当に疲れました。

これから、湯島あたりに繰り出して、一杯ひっかけてから帰宅しようと思います。

P.S.
大好きなジャズ・ピアニストの一人であったハンク・ジョーンズが亡くなりました。
そして中学二年生の頃からの愛読書であった月刊『スイング・ジャーナル』も休刊になるとか。

ジャズ好きな私としては、二つの暗いニュースが重なり、かなり悲しい1日となりました。

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早慶戦が楽しみです

2010-05-17 18:03:16 | 大学野球
早慶戦で勝ち点を取ったチームが優勝という、早稲田ファンにとって最高の展開になった今季の東京六大学野球。

総合力では、慶応が上であろうという評判が神宮のネット裏ではもっぱらですが、そこは伝統の早慶戦、何が起きるか分かりません。
一昔前は『早慶戦は、前評判で弱いと言われた方が勝つ』と、よく言われたものです。

学生野球は、あっちが強い・こっちが弱いといっても、実力は紙一重の差。
むしろ、変な前評判がない方が、力むことなく、伸び伸びと普段の実力を発揮できるということでしょう。

選手達のご家族からも、早慶戦応援のために上京されるというメールを多数いただいております。

今回は、早慶両校に優勝のチャンスがありますから、当日の天候さえ問題なければ、きっと神宮は大観衆で一杯になることでしょう。

以前にも書いたことがありますが、私流の早慶戦観戦ガイドを改めてご紹介します。
初めて早慶戦を観戦されるという方は、ぜひご一読ください。
(1)試合開始は13時ですが、例年、10時ごろには開場となります。
こんな早く入場してどうするのかと思う方もおいででしょうけれど、試合開始までの時間、学生席では、早慶戦独特のイベントやアトラクションがあり、意外にどんどん時間が進んでいきます。
ちなみに、学生の皆さんは、朝8時ごろまでに最寄の駅などに集合することが多いようです。

(2)早慶戦では、曜日に関わらず、早稲田が一塁側、慶応が三塁側と決まっています。

(3)座席指定のない一般内野席は、満員となり次第、第二内野席(内野学生席と外野学生席の間。外野のライト・ポールの後方あたりの三角地帯)に誘導されます。
学生応援団に挟まれて観戦する第二内野席にも、独特の味わいがありますけれど、一般内野席での観戦を希望される場合は、早めに入場されることをお薦めします。

(4)その第二内野席も、早稲田側が先に満員となり、慶応側の第二内野席に誘導されてしまう可能性があります。
慶応側では落ち着かないという方は、やはり早めの入場をお薦めします。

(5)この季節は、天気が良い日にはかなり強烈な陽射しとなりますので、日除けの帽子が絶対に必要です。
麦わら帽子のような日除け部分の広い帽子がベターです。
陽射しの強い時の早慶戦では、試合の途中で体調を崩す方が何名かいらっしゃいます。
男性の場合には、野球帽の後ろにタオルをぶら下げで後頭部や首筋を守る、南方の兵隊さんのようなスタイルが、やはり一番有効です。

(6)なお、女性の方が日傘を持参されることがありますが、満員の観客席では周囲の方々の視界を遮って観戦の邪魔になってしまい、文句を言われてしまう場合があります。
せっかくの観戦での気まずい経験を避けるためには、帽子が一番です。

(7)一方、降雨の可能性がある場合には、コンビ二で売っているビニールのレインコートが必須アイテムです。
日傘と同様に、雨傘も周囲の視界を遮ってしまうので嫌がられます。

(8)早稲田が二勝して優勝を決めた場合には、球場内で表彰式が行なわれた後に、絵画館前の広場から大学まで優勝パレードが行なわれます。
明治通りの車道部分を、ブラスバンドを先頭に行進します。
なお、選手達は、地下鉄『西早稲田』の前、理工学部キャンパスあたりから合流します。

(9)大学に到着した後は、正門付近で、祝勝会が行なわれます。
試合終了時間にもよりますが、式の終了はかなり夜遅くなりますけれど、選手たちと喜びを分かち合う、最高のひとときです。
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賜杯争いの行方は早慶決戦に

2010-05-16 20:50:48 | 大学野球
法政の失策で得た虎の子の1点を、先発の福井くんと抑えの大石くんの好投で守り抜き、法政に連勝。
これで早慶両校が勝ち点3で並び、賜杯争いの行方は早慶決戦に持ち込まれました。

これまでのところ、早稲田のタイムリー欠乏症は重症ですが、あとは泣いても笑っても早慶戦あるのみ。
四年生投手三人衆に頑張ってもらって、石に噛りついてでも天下分け目の決戦に勝利して、みんなで歓喜の優勝パレードをやりましょう。
それしかありませんよね!
(^^)v

さて、今日は第二試合も最後まで観戦しました。
やはり今季の慶応は投打に充実していて、改めて強敵だと感じました。
誰がクリーンアップを打ってもおかしくないという力量の打者が1番から7番あたりまで並んでいるので、下位の打順であっても甘い球は外野スタンドに運ばれてしまいます。

また、竹内・福谷を軸とする投手陣も、派手さはないものの、かなりの実力派揃いです。
そして、内外野の守備も鍛えられています。

慶応を倒すためには、堅い守りで三点以内の試合展開に持ち込み、必ず巡ってくる勝機を決して逃さぬシツコイ野球を期待したいと思います。

ところで、早法戦から、早稲田ナインが試合前と試合後に整列して、学生席に向かって挨拶をするようになりました。
これまでは、私の知る限り、観客席に向かって挨拶するのは開幕戦と早慶戦の時だけでした。

先日、応援部の幹部と話した際に、『学生応援団と一体感を更に高めるために、何か良い考えはないかと、斎藤主将から頻繁に電話が架かってくるんです』という話を聞きました。
例えば、控えの野球部員たちが学生席に座る場合の位置などについても、あれこれと意見交換をしているのだとか。

このところ、東大が試合ごとに挨拶するようになり、早稲田の応援部関係者の間でも『あの東大の整列は良いね』と話題になっていましたので、その話が応援部から斎藤くんに伝わったのだと思います。

些細なことと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、六大学野球の昔からの慣例を変えるということは、現役学生たちにとって勇気のいることです。
でも、大学スポーツは、本来こうでなければいけません。

斎藤主将、そして選手たちの思いは、必ず学生席に届いているものと確信します。
来たる早慶戦では、斎藤主将の思い、そしてその提案を実践する野球部員たちの心意気に応えて、大応援団が早稲田サイドの観客席を埋め尽くし、必ずや慶応を圧倒してくれることでしょう。


ところで今日は、慶明二回戦の終了後、国立競技場に移動して、関東インカレの1万メートルも応援いたしました。
早稲田からは、箱根駅伝で二年連続で一区を快走した、矢澤(3年)に加えて、昨年末の高校駅伝で大暴れした大迫(1年、佐久長聖)、志方(1年、西脇工業)が出場。

レース中盤まで、早大の三人は十名ほどのトップ集団の中にいて、最終的には、何と新人の大迫くんが四位に入る大健闘を見せました。
(写真は、トップを走るベンジャミン選手を激しく追走する大迫くん)

ちなみに日大のベンジャミンが一位で、二位に明治の鎧坂、三位に東洋の柏原。
大迫くんは、最後の五十メートルまで二位で踏張っていたのですが、最後の最後に抜かれて、僅差で表彰台を逃しました。

国立競技場の観客席から日本青年館に向かう帰り道で、偶然、レースを終えたばかりの大迫くんと遭遇しました。
『もうちょっとで表彰台。惜しかったね』と彼に声をかけたら、『次は頑張ります』との力強い返答。
同じくトップ集団で頑張った志方くんと共に、何とも頼もしい新人が入ってきてくれたものです。

ただ、何の事前知識もなく大迫くんに出会ったら、本当に華奢な体つきを見て、彼が日本の長距離界の将来を担う逸材だとは誰も思わないと思います。
(;^_^A


最後に、今朝の日経新聞に掲載された写真をご紹介します。

1961年(昭和36年)に早稲田に入学した時の、松本幸四郎さん、北大路欣也さんの、大隈講堂を背景にした初々しい角帽姿です。
さすがに抜群の格好良さで、一流の俳優さんの持つオーラに脱帽するしかありません。
(写真中央は、演劇研究家で当時は早大文学部演劇科の講師でいらした河竹登志夫さん)
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法政に先勝

2010-05-15 20:35:53 | 大学野球
投げては斎藤-大石の鉄壁の投手リレーで法政打線を一点に抑え、打っては土生くんの値千金の勝ち越し2点適時打により早稲田が法政に先勝しました。

先発の斎藤投手は、球速・制球ともに良い出来でした。
球種は正確には判りませんが、130キロ台の沈む変化球と140キロ半ばの低めに決まる速球のコンビネーションが非常に有効でした。
また、これまでよりも打者の内角を厳しく突く配球も良かったと思います。

今日の試合では、好投を続けて法政・加賀美投手とガップリ四つの状態にあった斎藤投手に代打を出した、八回表の応武監督の思い切った決断が勝利の女神を引き寄せました。
代打・川西くんが四球を選び、次打者の渡辺くんがしぶとく粘って出塁したことで、一気に試合の流れが早稲田に傾いてきました。

その場面で飛び出した土生くんの勝ち越し2点二塁打には、本当にシビレました。
\(^O^)/

八回裏から登板した、二番手の大石くんの投球も素晴らしかったです。
150キロ台の速球が低めと左右両サイドにコントロールされていて、点を奪われるような気が全くしませんでした。

かたや、敗れたとはいえども、法政の加賀美投手も、さすがの投球を見せてくれました。

ただ、今季から主戦投手となったため、完投することを彼は強く意識していました。
クリーンアップを打席に迎えた時、あるいは走者を塁に置いた時には、豪速球を軸にして、隙のない投球で早稲田打線を完璧に抑えていましたが、その一方、下位打線で走者のいない場面では、意識して省エネ投球に徹していました。

そのスキを見逃さずに先制本塁打を放ったのが斎藤投手。
思い切りの良い打撃が見事でした。

斎藤くんは元々バットコントロールが上手くて手首を柔らかく使うことのできるバッターでもあります。
今日はドンピシャのタイミングで加賀美くんの球を捉えて、左翼席前列に弾丸ライナーをぶち込みました。

この勢いを大切にして、明日は一気に連勝を実現してもらいたいと思います。

もう1つの対戦カードでは、見事な逆転で慶応が明治に先勝しました。
試合の終盤にリードされても闘志が途切れない今季の慶応は大したものです。

かくなる上は、早慶が三つ目の勝ち点を獲得して、早慶戦で四つ目の勝ち点を得た方が優勝という状況になってもらいたいと思います。


ところで、今夜は、二年前に卒業した川本くん(瀬戸内高校-早大-東京海上日動)の結婚式です。
野球部の同期が二十名ばかり参加するようで、その中から山口くん(熊本・済々黌-早大-朝日新聞)、あるいは情野くん(米沢興譲館-早大-山形銀行)らが久し振りに神宮に姿を見せて、披露宴までの時間を使って、現役たちの奮闘に声援を送っていました。

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明日は早法戦

2010-05-14 22:34:10 | 大学野球
『○○の件なんですけどぉー』
『だからぁー』
『○○なのでぇー』

若い世代を中心にすっかり定着している語尾上げの話し方ですが、正直なところ、私は苦手です。
とても押しつけがましい印象を受けてしまうからです。

昔、高島屋の社員の方から、店内アナウンスで大切なことは、語尾を下げることだと教えていただきました。
文字にすると同じ内容でも、語尾を下げて話すと端正な印象となるのですが、語尾を上げると途端に、相手を論破しようとしているような、あるいは文句をつけているような口調になってしまうので、お客様商売では決して許されない話し方なのだと。

就職活動中の学生さんたちは、接客のプロフェッショナルたちから語尾上げ言葉が歓迎されないことを、心に留めておいていただいて損はないと思います。

さて、このような語尾上げの話し方は、1960年代の後半の学生運動の華やかなりし頃、全共闘世代のアジテーションが起源だという説が有力だというから、面白いです。

『本日のぉー、決起集会にぃー、結集されたぁー、全ての労働者ぁー、学生、そしてぇー、市民の皆さん』
『我々のぉー、本日の戦いはぁー、勝利だったぁー』
『我々はぁー、反革命主義者たちをー、根底的にぃー、粉砕しぃー』

騒然とした雰囲気の中で、ハンド・スピーカーで絶叫する学生運動家たちのアジ演説は、威勢の良さは伝わってくるものの、何を言っているのか、良く聞き取れませんでした。
(;^_^A

このような話し方が、現代の若者たちに広まったということは、例えばザワザワしている教室で会話していたということが原因なのかも知れません。

いずれにしても、きちんと語尾を下げる話し方の方が、周囲に理知的に響くことは間違いありません。

さて、明日から早法戦。
柄にもなく仕事が多忙を極めているのですが、なんとか応援に行くことはできそうです。
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アマ最強と呼ばれた時代

2010-05-13 21:11:56 | 大学野球
週べ今週号で、大内さんが四連覇が始まった2002年の写真を紹介されています。

野村監督を囲む笑顔の選手たち一人一人を、本当に懐かしく感じます。
プロ入りした選手8人以外にも、社会人野球を続けている者、高校野球の監督になった者、スポーツ報道に携わる者…
とにかく明るく元気で、練習の虫が集まったチームで、そして野村監督と今でも固い絆で結ばれています。

鳥谷たち主力打者は、室内練習場に深夜まで打球音を響かせるのが当たり前。
彼らは『プロ入りしたい』というレベルは早々に通過して、プロ入り後に如何に活躍できるようになるかを見据えて、学生時代から練習していました。
そして夜中まで付き合った学生コーチやトレーナーたちの献身的なサポートも立派でした。


また、和田毅投手の走り込みは今や伝説となっています。
彼は、学生コーチらの協力を得ながら、体づくり、投球フォームの研究に没頭するばかりでなく、投手リーダーとして、例えばブルペンの土の状態にも常に完璧を求めて、目を光らせていました。
ブルペンの整備を担当する下級生部員たちには、和田くんがブルペンに視線を向けるだけで震え上がるほどの緊張感が走ったものです。

今や、プロ球界を支えるような存在になった選手もいます。
しかし、髪形や服装が少しでも緩んだ彼らの様子がテレビで映ると、野村さんは、現在も直ちに電話して、『そんなことでは、全国で見ている野球少年たちのお手本になれないぞ』とお説教されます。

一方、控え部員や学生コーチたちの中から、高校野球の指導者が何名も生まれ、今や彼らのチーム同士で練習試合をやるようになっています。
彼らは恩師・野村さんを練習試合に招き、野村さんも大喜びで上京されています。
野村さんは、プロ入りした過去の教え子を自慢したりする前に、学生コーチや学生トレーナーらの懸命の努力を、機会を捉えては誇らしく、そして実に嬉しそうに紹介される方です。

四連覇当時の早稲田は、社会人の強豪チームを二桁得点で圧倒することもたびたびありました。
滅法強くて、マスコミがアマチュア最強と呼ぶような力を誇っていたのですが、プロに何名入ったかどうかというような薄っぺらな基準では語ることのできない、実に学生野球らしい、本当に立派なチームだったと思います。

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住宅専門金融会社

2010-05-12 18:12:24 | ビジネス
今日の日経朝刊に、旧・住専損失の最終処理を巡り、最大3600億円の追加負担を政府が金融機関に要請するという記事がありました。

久しぶりに『住専』という単語を目にしました。

住宅金融専門会社、いわゆる住専には、日本住宅金融、住総、地銀生保住宅ローン、日本ハウジングローンなど7社があって、出資銀行の別動隊として、あるいは住専自身の意思によって、大規模な不動産融資を都市部やリゾート地域で行なっていて、それらの経営悪化は、バブル崩壊による金融危機の象徴でした。

巨額の不動産融資の焦げ付き、金融機関同士の損失の押し付け合い、様々な金融スキャンダルの発生・・・
日経によれば、1991年10月から92年8月にかけて、母体行(=住専の株主である金融機関)を中心に第一次再建計画がまとまる、と書いてあります。

この再建計画を作成するための原資料を準備するために、1991年の4月から数ヶ月間、私は、ある住専の貸出債権洗い直し作業に銀行から派遣されて従事しました。
今朝の記事をみて、当時の記憶が鮮明に蘇ってきました。

まだ住専問題が社会問題となる前でした。
複数の銀行の融資審査担当者数名が極秘裏に召集されて、土日も、ゴールデンウィークも全て返上して、予約してあった家族旅行もキャンセルして、貸出債権一本ごとに、債務者の経営状況、返済履歴、担保の再評価などを行ないました。

私達の作業結果は、とてつもない金額の不良債権の存在を示しており、所属銀行の融資担当役員、あるいは銀行協会を通じて、逐次 大蔵省に報告されていました。

『これは世の中を揺るがす、未曾有の事件になる』
作業している私達の共通認識でした。

作業内容は、家族と言えども何も話せません。
また、心配して様子をうかがいにくる住専の社員にも話せません。

ですから、期間中、家族からも、住専の社員の人たちからも、かなり冷たい視線を浴びせられました。

今から考えると、なにか特別な手当が出るわけでもなく、唯一、タクシーチケットが使いたい放題であったことぐらいが役得であったような記憶しかありません。

あれから20年近くの年月が経過し、ありとあらゆる債権回収策を講じた結果、それでも処理すべき損失が数千億円規模で残っているというのですから、住専の破たんが、とてつもない規模の出来事だったのだなあと、改めて感じました。

------
さて今夜は、ロンドンから来ているリスク管理担当のオフィサーと一緒に、飲みに行きます。

堅苦しいレストランでなく、いかにも日本っぽい雰囲気の居酒屋に行きたいとの本人の希望ですから、こういう来客は大歓迎です。
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小掛照二さん

2010-05-11 18:18:23 | スポーツ全般
陸上競技界の重鎮であった小掛照二(こがけ・てるじ)さんがお亡くなりになりました。
享年77歳でした。

関連記事へのリンク

小掛さんは広島県立上下高校から、早稲田に進学。
学生時代から跳躍競技に天賦の才能を発揮し、実業団に入ってから三段跳びで世界記録を樹立し、1956年のメルボルン五輪にも出場されたという名選手でした。
現役引退後も、五輪の日本陸上チームの監督や強化責任者として、我が国の陸上競技を牽引してこられました。

もっとも、小掛さんの現役時代は昭和30年前後のことなので、私たちにとって最も印象に残る小掛さんといえば、五輪のマラソンへの出場選手を決定する過程での記者会見の場面でしょう。

単に選考レースでの成績によるだけでなく、過去の実績も重視するという小掛さんの選考方針は、時には批判や混乱を招きました。

92年のバルセロナ五輪において、松野明美選手を外して有森裕子選手を選んだ際には、松野選手がテレビカメラの前に立って、自身の出場を懇願するなどの騒動に発展しました。

その騒動を報じるニュースを最初に見た時には、陸連の決定が不透明だなあという第一印象を私も持ちました。

しかし、小掛さん自身が現役時代、世代交代を掲げる陸連が実績の乏しい若手を五輪選手に選んで、実績を残していた小掛さんが落選したという痛恨の経験をお持ちだということを後に知りました。

そういったことを知ってしまうと、選手選考については、素人が安易に是非を論じることが許されない領域というか、それぞれの選手の人生を懸けた誇りと熱情のぶつかり合いの中で、最高責任者が腹を据えて決断する以外はないと思えるようになってきました。
例えば、サッカーの岡田監督も、ワールドカップの選手選考では発表当日の朝まで考え抜いたということですから、さぞかしご苦労されたことでしょう。

ともあれ、小掛さんは、半世紀以上にわたって、辛い人選も含めて、日本の陸上競技のためにお骨折りされてきました。

早稲田の生んだ偉大な先輩のご苦労に深く感謝するとともに、ご冥福を心からお祈り申し上げます。
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