どうやら、国のレベルでは、日本の総人口が6千万人に減少することを前提とした検討が進められているようです。
その時の日本が、どのような社会になっているのか、簡単には想像ができません。
一つ参考になるのは、すでに高齢化と人口減少が始まっている地方都市。
その多くの地方都市の活力低下に歯止めがかかりません。
高齢化と人口減少にとどまらず、地方財政の悪化も進み、これからの都市計画や行政サービスのあり方を根本から考え直さざるを得なくなりつつあります。
かつて農林業が盛んであった時代に、市街地から遠く離れた深い山里でも、多くの人々が生活を営んでいました。
しかし、今や農林業の衰退により、そのようなエリアから若手労働者が去り、高齢者だけの世帯が点在する地域が目立つようになりました。
このような状態で、道路や橋、電気・水道設備などの維持、医療介護、あるいは風水害や大雪の際に必要な行政サービスを行うだけの財政力が、多くの市町村から失われつつあります。
地域金融の視点からみても、状況は深刻です。
地方在住の高齢者が保有している金融資産は、相続の発生する都度、その全部または一部が都市に暮らす世代へと移動していきます。
すなわち、地方公共団体の金庫番の役割を果たしている地方銀行や信用金庫などから、大都市に店舗網を持つメガバンク等に預金がシフトしていくと考えてよいでしょう。
これからの30年間、否応なしに我が国の地域金融は大変革の時代に突入します。
つまり、地方公共団体と地方の民間経済の台所事情が、揃って疲弊していくのです。
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そこで、コンパクト・シティ構想が以前から提唱されています。
すなわち点在する住居を集約して、インフラ維持や行政サービスの対象エリアをコンパクトにしていこうというものです。
例えば、道路や橋のうち、住民が立ち去ったエリアについては、今後の維持対象から外し、必要に応じて利用しないようにする。
そして、そのエリアへの郵便、電気・水道、あるいは除雪なども、今後は行わないということになります。
個人の家庭で考えてみても、年金生活に入り子供たちが独立してしまった時、こじんまりした家に住み替えたり、不動産の一部を手放したりすることは珍しくありません。
それと同じことを市町村が行ない、個々の財政力に見合ったサイズの行政サービスをしようというのです。
恐らく、大半の地方公共団体で、遅かれ早かれ、コンパクト・シティを選択せざるを得なくなると私は考えています。
=====
もちろん、複雑な感情も湧いてきます。
多くの日本人にとって、例えば、おとぎ話や童謡の舞台となっているような里山は、心の中の原風景となっています。
都会の盛り場が大好きな私でさえ、幼少期を過ごした富山県の田園風景を思い浮かべると、穏やかで優しい気持ちになってしまいます。
雑草を刈り、田畑や林地を維持する人による営みがあってこそ、里山が存在することができ、そこでの多様な生態系も保たれます。
コンパクト・シティ構想は、そんな里山風景の多くを失う結果を招きます。
「無い袖は振れない」
そう言ってしまえばそれまでですし、それが厳しい現実でもあります。
限りある財政と民間活力の範囲で、日本人にできることは何なのでしょうか。
次のような映像を見ると、コンパクト・シティ論者である私も、心が揺さぶられるのであります。
新日本紀行のテーマ(ロング・バージョン)
その時の日本が、どのような社会になっているのか、簡単には想像ができません。
一つ参考になるのは、すでに高齢化と人口減少が始まっている地方都市。
その多くの地方都市の活力低下に歯止めがかかりません。
高齢化と人口減少にとどまらず、地方財政の悪化も進み、これからの都市計画や行政サービスのあり方を根本から考え直さざるを得なくなりつつあります。
かつて農林業が盛んであった時代に、市街地から遠く離れた深い山里でも、多くの人々が生活を営んでいました。
しかし、今や農林業の衰退により、そのようなエリアから若手労働者が去り、高齢者だけの世帯が点在する地域が目立つようになりました。
このような状態で、道路や橋、電気・水道設備などの維持、医療介護、あるいは風水害や大雪の際に必要な行政サービスを行うだけの財政力が、多くの市町村から失われつつあります。
地域金融の視点からみても、状況は深刻です。
地方在住の高齢者が保有している金融資産は、相続の発生する都度、その全部または一部が都市に暮らす世代へと移動していきます。
すなわち、地方公共団体の金庫番の役割を果たしている地方銀行や信用金庫などから、大都市に店舗網を持つメガバンク等に預金がシフトしていくと考えてよいでしょう。
これからの30年間、否応なしに我が国の地域金融は大変革の時代に突入します。
つまり、地方公共団体と地方の民間経済の台所事情が、揃って疲弊していくのです。
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そこで、コンパクト・シティ構想が以前から提唱されています。
すなわち点在する住居を集約して、インフラ維持や行政サービスの対象エリアをコンパクトにしていこうというものです。
例えば、道路や橋のうち、住民が立ち去ったエリアについては、今後の維持対象から外し、必要に応じて利用しないようにする。
そして、そのエリアへの郵便、電気・水道、あるいは除雪なども、今後は行わないということになります。
個人の家庭で考えてみても、年金生活に入り子供たちが独立してしまった時、こじんまりした家に住み替えたり、不動産の一部を手放したりすることは珍しくありません。
それと同じことを市町村が行ない、個々の財政力に見合ったサイズの行政サービスをしようというのです。
恐らく、大半の地方公共団体で、遅かれ早かれ、コンパクト・シティを選択せざるを得なくなると私は考えています。
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もちろん、複雑な感情も湧いてきます。
多くの日本人にとって、例えば、おとぎ話や童謡の舞台となっているような里山は、心の中の原風景となっています。
都会の盛り場が大好きな私でさえ、幼少期を過ごした富山県の田園風景を思い浮かべると、穏やかで優しい気持ちになってしまいます。
雑草を刈り、田畑や林地を維持する人による営みがあってこそ、里山が存在することができ、そこでの多様な生態系も保たれます。
コンパクト・シティ構想は、そんな里山風景の多くを失う結果を招きます。
「無い袖は振れない」
そう言ってしまえばそれまでですし、それが厳しい現実でもあります。
限りある財政と民間活力の範囲で、日本人にできることは何なのでしょうか。
次のような映像を見ると、コンパクト・シティ論者である私も、心が揺さぶられるのであります。
新日本紀行のテーマ(ロング・バージョン)