療養中の父が体調を崩したため、昨日は休暇を取って父の病室へ。
そのまま、病室で朝を迎えました。
幸い、父の血圧などは回復し、とりあえず一安心です。
しかし、父は既に87歳ですし、ずいぶん体力も落ちてきました…。
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冒頭の写真は、父が21歳の頃のものです。
若いですねえ。
当時、海軍経理学校の将校生徒として、勝鬨橋の見える築地校舎で学んでいました。
ちなみに、終戦後、海軍経理学校の跡地には築地市場が建てられました。
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旧制中学修了で受験する海軍経理学校の入試は、旧制一高と並ぶ難関だったそうで、父の出身地である愛知県からの合格者は県全体で僅か二名。
海軍経理学校の入試は、海軍兵学校と同様に、数学、理科、社会、英語などの試験が数日間に分けて行われ、その1日ごと、試験の翌朝に不合格者が発表され、そこで落ちると次の科目の受験資格を失うという仕組みでした。
つまり、一科目でも不出来な科目があると、その失敗を他の得意科目の得点でカバーすることができない仕組みなのですから、受験生は大変です。
父が言うには、数学のように、採点が機械的にできる理科系科目が入試日程の前半にあって、そこでバッサリと足切りされて受験者数が絞り込まれた後に、国語や英語の試験が行われました。
日に日に受験生が減少していくプレッシャーをはねのけながら、何とか最終日に辿り着くと、最後は口頭試問、すなわち面接試験です。
昔、「面接試験では、何を質問されるの?」と父に訊ねたことがあります。
やはり「なぜ海軍を目指すのか」という常識的な質問が定番で、「陸軍が嫌いだからであります」と答えて合格した猛者もいたそうです。
「軍人を目指すことを、両親は同意しているか」
「兄弟に軍人はいるか」
などといった質問の後、最後に試験官が父に訊ねたのが「君の得意なことは何か?」
父が「逆立ちです」と答えると、試験官が言いました。
「それならば、ここでやってみろ!」
父は、教室の中で、エイッと逆立ちに成功し、それで面接試験を終えました。
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戦前の海軍は、海軍省という官僚組織の一つであり、海軍の3学校(兵学校:呉・江田島、経理学校:東京・築地、機関学校:京都・舞鶴)は、巨大な官僚組織のキャリア組を養成する学校でした。
経理学校は、海軍に関する予算の組成と執行を担当する将校を育成するのが役割ですから、当時の授業科目には民法、財政学、会計学などがあり、東京帝大や東京商大から招かれた講師がそれらの科目を教えていました。
また、経理学校を卒業し、主計将校として任官した後に、東京帝大や東京商大の学部で官費派遣の学生となり、法律や会計学の専門教育も受ける機会もあったのだそうです。
「もし海軍が存続すれば、オレも主計大佐ぐらいまでは昇進したはずだ」と、父は話していました。
「もっとも、海軍が存続するということは、戦争も続くということだから、お前が生まれる前に、オレは確実に戦死していた。だから、お前も生まれていない」とも。
なお、経理学校での東京商大教授の授業に興味を抱いていた背景もあり、敗戦で海軍が消滅してしまった後、人生を仕切り直しするために東京商大(現・一橋大学)に入学したと、父は話していました。
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3学校の中で、最も文科系科目の教育に重点を置いた経理学校ですが、水泳、カッターボート、ラグビー、柔剣道、相撲などのスポーツ教育は、他校と同様に熱心だったそうです。
体力、チームワーク、そして負けじ魂を鍛えるには、いつの時代でもスポーツが一番だということです。
そして、そんな教育を受けた経験が、父を大のスポーツ好きにしたのだと思います。
その血を、私が受け継いでいます。
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父から昔話を聞く機会は、もう巡ってこないかも知れません。
今はただ、1日、1日を、安らかに過ごしてもらいたいと願うばかりです。
そのまま、病室で朝を迎えました。
幸い、父の血圧などは回復し、とりあえず一安心です。
しかし、父は既に87歳ですし、ずいぶん体力も落ちてきました…。
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冒頭の写真は、父が21歳の頃のものです。
若いですねえ。
当時、海軍経理学校の将校生徒として、勝鬨橋の見える築地校舎で学んでいました。
ちなみに、終戦後、海軍経理学校の跡地には築地市場が建てられました。
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旧制中学修了で受験する海軍経理学校の入試は、旧制一高と並ぶ難関だったそうで、父の出身地である愛知県からの合格者は県全体で僅か二名。
海軍経理学校の入試は、海軍兵学校と同様に、数学、理科、社会、英語などの試験が数日間に分けて行われ、その1日ごと、試験の翌朝に不合格者が発表され、そこで落ちると次の科目の受験資格を失うという仕組みでした。
つまり、一科目でも不出来な科目があると、その失敗を他の得意科目の得点でカバーすることができない仕組みなのですから、受験生は大変です。
父が言うには、数学のように、採点が機械的にできる理科系科目が入試日程の前半にあって、そこでバッサリと足切りされて受験者数が絞り込まれた後に、国語や英語の試験が行われました。
日に日に受験生が減少していくプレッシャーをはねのけながら、何とか最終日に辿り着くと、最後は口頭試問、すなわち面接試験です。
昔、「面接試験では、何を質問されるの?」と父に訊ねたことがあります。
やはり「なぜ海軍を目指すのか」という常識的な質問が定番で、「陸軍が嫌いだからであります」と答えて合格した猛者もいたそうです。
「軍人を目指すことを、両親は同意しているか」
「兄弟に軍人はいるか」
などといった質問の後、最後に試験官が父に訊ねたのが「君の得意なことは何か?」
父が「逆立ちです」と答えると、試験官が言いました。
「それならば、ここでやってみろ!」
父は、教室の中で、エイッと逆立ちに成功し、それで面接試験を終えました。
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戦前の海軍は、海軍省という官僚組織の一つであり、海軍の3学校(兵学校:呉・江田島、経理学校:東京・築地、機関学校:京都・舞鶴)は、巨大な官僚組織のキャリア組を養成する学校でした。
経理学校は、海軍に関する予算の組成と執行を担当する将校を育成するのが役割ですから、当時の授業科目には民法、財政学、会計学などがあり、東京帝大や東京商大から招かれた講師がそれらの科目を教えていました。
また、経理学校を卒業し、主計将校として任官した後に、東京帝大や東京商大の学部で官費派遣の学生となり、法律や会計学の専門教育も受ける機会もあったのだそうです。
「もし海軍が存続すれば、オレも主計大佐ぐらいまでは昇進したはずだ」と、父は話していました。
「もっとも、海軍が存続するということは、戦争も続くということだから、お前が生まれる前に、オレは確実に戦死していた。だから、お前も生まれていない」とも。
なお、経理学校での東京商大教授の授業に興味を抱いていた背景もあり、敗戦で海軍が消滅してしまった後、人生を仕切り直しするために東京商大(現・一橋大学)に入学したと、父は話していました。
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3学校の中で、最も文科系科目の教育に重点を置いた経理学校ですが、水泳、カッターボート、ラグビー、柔剣道、相撲などのスポーツ教育は、他校と同様に熱心だったそうです。
体力、チームワーク、そして負けじ魂を鍛えるには、いつの時代でもスポーツが一番だということです。
そして、そんな教育を受けた経験が、父を大のスポーツ好きにしたのだと思います。
その血を、私が受け継いでいます。
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父から昔話を聞く機会は、もう巡ってこないかも知れません。
今はただ、1日、1日を、安らかに過ごしてもらいたいと願うばかりです。