昨日、野球部がオープン戦最終戦をきっちり勝ってくれたので、やれやれと思いながら源兵衛に寄って、ささやかに祝杯をあげました。
偶然、店内のテレビでは陸前高田高校野球部の活動ぶりを紹介する番組を放送していました。
同校の佐々木監督と早稲田で同期であった、応援部OBのUさんも源兵衛にやってきたので、カウンターに並んで番組を観ながら、ワイワイと楽しく飲むことができました。
土曜日は、開幕戦、そしてオフ会です。
(^^)/▽☆▽\(^^)
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ところで、一冊の本を読んでいます。
「原爆投下は予告されていた」(講談社。古川愛哲。1500円)です。
軍隊という組織の非人間的で理不尽な側面を伝える数々のエピソードが描かれているのですが、原爆投下に関することをはじめ、私の知らなかった事実ばかりです。
*原爆投下は米英の共同作戦で、チャーチル首相から3回予告することを条件づけられていた。
*米軍は、ラジオ放送やビラによって日本に向かって予告していた。
*ラジオ放送を聴いた軍部は、8月6日にウラニューム爆弾による爆撃が、広島、小倉、長崎のいずれかに行われることを知っていた。
しかし、市民には知らせなかった。
*広島の多くの陸軍高級将校たち、あるいは陸軍幼年学校生徒たちは、爆撃に備えて避難していて無事だった
*小倉には軍需工場が集積していたので、軍部は米軍の爆撃を避けるために、米兵捕虜収容所を軍事施設に隣接して設け、人の盾にしていた。
*長崎にも米軍捕虜施設があったが、米軍は原爆投下を断行した。
これ以外にも、
*インパール作戦の撤退途中で、よりによって日本陸軍の参謀の命令により、日本の傷病兵300名が生きながら埋められて、「処置」された
*部隊から伝染病患者が出ても「部隊の名誉を傷つける」と、本部への報告、適切な治療が禁じられた。日本兵に戦病死が多かったのは、こんな原因もあった…
もう、読み続けることが辛くなるようなショッキングな事実が、これでもかこれでもかと続きます。
もちろん戦争は残酷ですが、民間人や下級兵士の命を余りにも軽視する軍隊組織の理不尽な体質は、日本軍についても米軍についても、吐き気をもよおすほどです。
終戦直後に、陸・海軍省や各基地で大量の軍事書類が焼却されました。
この時に、戦争犯罪に問われそうな命令書や記録の殆どが焼かれてしまいました。
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このまま、このブログ記事を書き終えるのは、あまりにも気分が悪い。
そこで、小学生時代に遠足のバスの車中で歌ったりした、フォーククルセダースの歌をご紹介して、気持ちを少し鎮めたいと思います。
目黒区立五本木小学校の私の担任の先生は、師範学校(現在の東京学芸大学)を卒業すると同時に陸軍に召集され、満州に送られて苦労された方でした。
「厳冬の満州で立ち小便をすると、そのまま凍結してしまう。だから、兵舎の便所には、凍った小便を処理するためのペンチが置いてあった」とか、面白おかしく話してくださいました。
でも、それ以外の軍隊時代のことは、何も語ろうとされませんでした。
遠足のバスの中で、当時のヒット曲の一つとして無邪気に子供たちが歌う「戦争は知らない」を、どんな思いで先生は聴いていらっしゃったんだろうなあと、今になって思います。
その担任の先生も、5年前にお亡くなりになりました。
加藤和彦さんが歌うYouTubeの画像も、ぜひ御覧下さい。
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「戦争は知らない」
【作詞】寺山修司
【作曲】加藤ヒロシ
野に咲く花の名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
帽子にいっぱい摘みゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
戦争の日々を何も知らない
だけど私に父はいない
父を想えば あヽ荒野に
赤い夕陽が夕陽が沈む
いくさで死んだ悲しい父さん
私はあなたの娘です
二十年後のこの故郷で
明日お嫁にお嫁に行くの
見ていて下さい、はるかな父さん
いわし雲とぶ空の下
いくさ知らずに二十才になって
嫁いで母に、母になるの
携帯用リンク
パソコン用リンク
偶然、店内のテレビでは陸前高田高校野球部の活動ぶりを紹介する番組を放送していました。
同校の佐々木監督と早稲田で同期であった、応援部OBのUさんも源兵衛にやってきたので、カウンターに並んで番組を観ながら、ワイワイと楽しく飲むことができました。
土曜日は、開幕戦、そしてオフ会です。
(^^)/▽☆▽\(^^)
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ところで、一冊の本を読んでいます。
「原爆投下は予告されていた」(講談社。古川愛哲。1500円)です。
軍隊という組織の非人間的で理不尽な側面を伝える数々のエピソードが描かれているのですが、原爆投下に関することをはじめ、私の知らなかった事実ばかりです。
*原爆投下は米英の共同作戦で、チャーチル首相から3回予告することを条件づけられていた。
*米軍は、ラジオ放送やビラによって日本に向かって予告していた。
*ラジオ放送を聴いた軍部は、8月6日にウラニューム爆弾による爆撃が、広島、小倉、長崎のいずれかに行われることを知っていた。
しかし、市民には知らせなかった。
*広島の多くの陸軍高級将校たち、あるいは陸軍幼年学校生徒たちは、爆撃に備えて避難していて無事だった
*小倉には軍需工場が集積していたので、軍部は米軍の爆撃を避けるために、米兵捕虜収容所を軍事施設に隣接して設け、人の盾にしていた。
*長崎にも米軍捕虜施設があったが、米軍は原爆投下を断行した。
これ以外にも、
*インパール作戦の撤退途中で、よりによって日本陸軍の参謀の命令により、日本の傷病兵300名が生きながら埋められて、「処置」された
*部隊から伝染病患者が出ても「部隊の名誉を傷つける」と、本部への報告、適切な治療が禁じられた。日本兵に戦病死が多かったのは、こんな原因もあった…
もう、読み続けることが辛くなるようなショッキングな事実が、これでもかこれでもかと続きます。
もちろん戦争は残酷ですが、民間人や下級兵士の命を余りにも軽視する軍隊組織の理不尽な体質は、日本軍についても米軍についても、吐き気をもよおすほどです。
終戦直後に、陸・海軍省や各基地で大量の軍事書類が焼却されました。
この時に、戦争犯罪に問われそうな命令書や記録の殆どが焼かれてしまいました。
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このまま、このブログ記事を書き終えるのは、あまりにも気分が悪い。
そこで、小学生時代に遠足のバスの車中で歌ったりした、フォーククルセダースの歌をご紹介して、気持ちを少し鎮めたいと思います。
目黒区立五本木小学校の私の担任の先生は、師範学校(現在の東京学芸大学)を卒業すると同時に陸軍に召集され、満州に送られて苦労された方でした。
「厳冬の満州で立ち小便をすると、そのまま凍結してしまう。だから、兵舎の便所には、凍った小便を処理するためのペンチが置いてあった」とか、面白おかしく話してくださいました。
でも、それ以外の軍隊時代のことは、何も語ろうとされませんでした。
遠足のバスの中で、当時のヒット曲の一つとして無邪気に子供たちが歌う「戦争は知らない」を、どんな思いで先生は聴いていらっしゃったんだろうなあと、今になって思います。
その担任の先生も、5年前にお亡くなりになりました。
加藤和彦さんが歌うYouTubeの画像も、ぜひ御覧下さい。
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「戦争は知らない」
【作詞】寺山修司
【作曲】加藤ヒロシ
野に咲く花の名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
帽子にいっぱい摘みゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
戦争の日々を何も知らない
だけど私に父はいない
父を想えば あヽ荒野に
赤い夕陽が夕陽が沈む
いくさで死んだ悲しい父さん
私はあなたの娘です
二十年後のこの故郷で
明日お嫁にお嫁に行くの
見ていて下さい、はるかな父さん
いわし雲とぶ空の下
いくさ知らずに二十才になって
嫁いで母に、母になるの
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