朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
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サムエル記下 19章

2022年01月12日 | サムエル記

サムエル記下19・39 こうして民はみなヨルダンを渡った。王は渡った時、バルジライに口づけして、祝福したので、彼は自分の家に帰っていった。

戦いが終わり都に凱旋するダビデ王のまわりには、人々の思惑や対応の悲喜交々(ひきこもごも)が現れています。

ダビデ王が窮地(きゅうち)に立たされたとき身を挺して仕えた者。あからさまに王を非難した者。ことの成り行きをみて、有利な方になびいた者。それぞれの思惑が交錯しています。

鳥と獣の戦いがあったときのコウモリの話しをご存知でしょうか。鳥が優勢だと「私は鳥ですから」と鳥の味方をし、獣が優勢だと「私は獣ですから」と獣の味方をしたコウモリのように、ご都合主義に生きるなら、後に恥ずかしい思いをするのです。

人の本性は、自分が有利なときや調子良く行っているときは隠れていても、窮地に立たされたとき、その本性が現れるものです。

サウル家の一族であるゲラの子シメイ(シムイ)は、王が落ち延びるときは散々悪口を浴びせ呪いました。先の16章の記事です。ところが、王が帰還して形勢不利と見るや、その舌の根もか渇かぬうちに平謝りに終始しました(19・16~20)

また、王の食卓を共にしていたメピボセテは、ダビデが都落ちするとき着いて行かず、エルサレムにとどまりましたが、今になって出迎えました。一方で、メピボセテの従者ヂバ(ツィバ)は王の都落ちに馳(は)せ参じたのです。このふたりの奇妙でちぐはぐな対応は何を意味するのでしょうか。

私見ですが、ヂバとメピボセテはどっちに転んでもうまく行くように考えたのかも知れません。アブサロムが勝てば、都にとどまったメピボセテに有利。ダビデが勝てば、ダビデに従ったヂバが有利。そんな両面作戦を画策したのではないだろうか。 ※天下分け目の関ヶ原の戦いで、兄の真田信之は東軍の徳川側へ着き、弟の真田幸村は西軍の豊臣側へ着くことで、どちらが勝っても真田家が存続するようにしたことを想起させる。

しかし、そのような中でも、たとえ不利であってもダビデに加勢し、ダビデを助けた人々もいました。異邦人のアンモン人バルジライはそのひとりです。彼は、ダビデたちが都から落ち延びてきたとき、食糧や衣料品をたずさえてやって来て、この戦いが終わるまで援助し続けました(17・27~29)

ダビデはバルジライの献身と厚意を忘れませんでした。ダビデは、年老いたバルジライを祝福し、彼の残りの生涯を引き受けることで、彼に報いたいと申し出ました(19・33)

主イエスも世の終わりに報いてくださいます。

あなた方は、私が空腹のときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれた。(マタイ25・31~40)

イエス様を信じるとは、イエスに伴う良いことも受け取りますが、困難も受け取ります。イエスを信じるがゆえに迫害や試練や困難があってもイエスに仕え続けます。不利な時にも従順します。

「良(い)いところ取り」をしようと思わないことです。不利になれば背信しますか。そんな卑怯な者になりたくありません。むしろ、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜ぶ者でありたいではありませんか(使徒5・41)

イエスと苦難を共にしているなら、イエスと栄光をも共にするようになります。時が良くても悪くても、イエスを信じ、イエスに従い続ける者になろう。

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