朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

民数記 13章

2024年05月09日 | 民数記
民数記 13章
私たちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。私たちは必ず勝つことができます。
(13・30)


イスラエルの民は、神が導き入れると約束されたカナンの地のすぐそばにまで進んできました。いよいよ目の前はカナンです。その段階で、現地を調査するために12人を派遣しました。

イスラエルの12部族から各々ひとりが選出され、エフライム族からはホセア(後の名をヨシュア)、ユダ族からはカレブが派遣されました。

信仰は神を信頼して歩むことですが、神を信頼しているので、何もしなくても良いという意味ではありません。今回のように、現地の状況をしっかり調査します。十分な準備をします。神が導かれるのだからといって、何の準備や計画もせず、行き当たりばったりに進むことが信仰だと勘違いしてはなりません。準備の中にも神の知恵をいただき、計画する中にも神の導きを求めます。

さて、12人はカナンの地を探ってきました。そこは肥沃な土地でした。作物もたわわに実っていました。しかし、そこに住む住民は体も大きく堅固な町に住んでいました。

この状況をどのように見るか。信仰というめがねをかけて見るのか。それとも、疑いとか恐れというめがねをかけてみるのか。先発隊の12人の見方は真二つに分かれてしまいました。

カレブとヨシュアはこう見ました。私たちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。私たちは必ず勝つことができます(13・30)

しかし他の10人は違いました。私たちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らは私たちよりも強いからです」。そして、彼らは否定的な情報を流布して民衆を惑わしました(13・31)

「私たちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所で私たちが見た民はみな背の高い人々です。私たちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。私たちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」(13・32~33)

近年、情報リテラシーという語句を聞くようになりました。情報を読み解く能力という意味です。同じ情報でも、メディアによって報道の仕方が違います。何らかのバイアスがかかっています。政府が流す情報とフリージャーナリストが流す情報も違います。発信者の「こうなってほしい」「こっちに導こう」という意図が刷り込まれた報道をするので、それを読み解く能力が必要です。

まさに、残りの10人たちが流した情報はそれであって、バイアスがかかっていました。そんな情報を読み解く基準は神の御言であり、信仰という「めがね」をかけて見抜かなければなりません。

しかし、信仰とは、〝現実を甘く見る〟ことではありません。ヨシュアとカレブの目にも、カナンは難攻不落に見えました。しかし、彼らは信仰というめがねをとおして見ていました。

カナン人と比較して、自分たちはいなごのように小さい存在であることは事実ですが、その小さい者たちと共に、主なる神が進み行かれる情景が見えたに違いありません。

5つのパンと2匹の魚であることは事実です。しかし、それがイエス様の御手の中にあることが重要です。イエスの御手の中にあるなら、主はそれを幾倍にもして民を養われるからです。

信仰のめがねをかけるとき、私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐのです。