民数記 21章
モーセは青銅で一つの蛇を造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべて蛇にかまれた者はその青銅の蛇を仰いで見て生きた。(21・9)
先の20章ではチン(ツィン)の荒野のカデシュにおける出来事が記されていました。カデシュを北上すればすぐにカナンの地です。しかし、エドムの王は軍を派兵してイスラエルの通過を拒絶しました。
そこで、イスラエルは進路を変更してホル山に到着したのですが、そこで大祭司アロンが死去し、その息子エレアザルが職を受け継ぎます。ここまでが20章の記録です。
そして21章。ホル山を出立した民は、エドムの地を迂回してカナンに向かうことになりました(21・4)。
迂回路はかなりの遠回りです。「わたしが道です」といわれたイエス様の「道」も、天国に行き着くには遠回りに見えます。この道で大丈夫だろうかと不安にもなります。しかし、たとえ細かろうと、またデコボコ道であろうと、「イエス」という標識のついた道を行きます。「いのちに至る道は細い」と言われた主の御言を信頼して従います。
さて、イスラエルの人々はこの旅路に堪えられなくなって、またもやモーセたちに対して不平不満が噴出します。何度もくり返される台詞です。
「あなた方はなぜ私たちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。私たちはこの粗悪な食物はいやになりました。」(21・5)
しかし、この時ばかりはいつもと違いました。モーセが民のために執り成す前に、神は御怒りをあらわにされました。「そこで主は、火の蛇を民のうちに送られた。蛇は民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ」のです(21・6)。
「火の蛇」とは毒蛇の一種で、火が出るような激しい痛みや苦しみが伴ったのでしょう。これに耐えられなくなった民は、モーセに執り成しの祈りを要請しました。この祈りに対する主の答えが冒頭の聖句です。
そこで、青銅の蛇を鋳造しそれを竿にかけました。蛇にかまれて苦しみ横たえている人々は、その竿にかけられた青銅の蛇を仰ぎ見ることによっていやされ、生きることができました。
イエス様はこの民数記の出来事をとりあげ、ご自分も青銅の蛇のようにして木に掛けられることになるのだと言われました。次のように記されています。
「ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・14~15)
確かにイエス様は「十字架」という木(竿)に掛けられました。しかし、民数記の場合は蛇が掛けられたのです。聖書では一般的に蛇はサタン(悪魔)の象徴なので、この両者がどのように符合するのか理解に苦しみます。
イエス・キリストは私たちの罪を引き受けて十字架で死なれました。しかし、その死によってもうひとつの事が起きました。それはサタンに対するさばきです。これは表裏一体です。
人間の側から見れば、イエスは人の罪を引き受けて死んでくださったのですが、罪の張本人であるサタンからすれば、自分がさばかれ滅ぼされたことになります。それがイエス様の十字架の死の意味するところです。
イエス様はご自分の死によって「この世がさばかれる」と言われ、「今こそこの世の君は追い出される」と言われました(ヨハネ12・31)。そして、「さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである」とも言われました(同16・11)。
私たちは、十字架に掛けられたイエス様を見あげて、自分の罪はイエスがすべて引き受けてくださったと信じるのですが、同時に、罪を根拠に私を支配し苦しめてきた悪魔(サタン)はあの十字架でさばかれたのだと信じるのです。
そのように信じて、あの十字架にかけられたイエスを見上げる者は、死から命へと移されるのです。
モーセは青銅で一つの蛇を造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべて蛇にかまれた者はその青銅の蛇を仰いで見て生きた。(21・9)
先の20章ではチン(ツィン)の荒野のカデシュにおける出来事が記されていました。カデシュを北上すればすぐにカナンの地です。しかし、エドムの王は軍を派兵してイスラエルの通過を拒絶しました。
そこで、イスラエルは進路を変更してホル山に到着したのですが、そこで大祭司アロンが死去し、その息子エレアザルが職を受け継ぎます。ここまでが20章の記録です。
そして21章。ホル山を出立した民は、エドムの地を迂回してカナンに向かうことになりました(21・4)。
迂回路はかなりの遠回りです。「わたしが道です」といわれたイエス様の「道」も、天国に行き着くには遠回りに見えます。この道で大丈夫だろうかと不安にもなります。しかし、たとえ細かろうと、またデコボコ道であろうと、「イエス」という標識のついた道を行きます。「いのちに至る道は細い」と言われた主の御言を信頼して従います。
さて、イスラエルの人々はこの旅路に堪えられなくなって、またもやモーセたちに対して不平不満が噴出します。何度もくり返される台詞です。
「あなた方はなぜ私たちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。私たちはこの粗悪な食物はいやになりました。」(21・5)
しかし、この時ばかりはいつもと違いました。モーセが民のために執り成す前に、神は御怒りをあらわにされました。「そこで主は、火の蛇を民のうちに送られた。蛇は民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ」のです(21・6)。
「火の蛇」とは毒蛇の一種で、火が出るような激しい痛みや苦しみが伴ったのでしょう。これに耐えられなくなった民は、モーセに執り成しの祈りを要請しました。この祈りに対する主の答えが冒頭の聖句です。
そこで、青銅の蛇を鋳造しそれを竿にかけました。蛇にかまれて苦しみ横たえている人々は、その竿にかけられた青銅の蛇を仰ぎ見ることによっていやされ、生きることができました。
イエス様はこの民数記の出来事をとりあげ、ご自分も青銅の蛇のようにして木に掛けられることになるのだと言われました。次のように記されています。
「ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・14~15)
確かにイエス様は「十字架」という木(竿)に掛けられました。しかし、民数記の場合は蛇が掛けられたのです。聖書では一般的に蛇はサタン(悪魔)の象徴なので、この両者がどのように符合するのか理解に苦しみます。
イエス・キリストは私たちの罪を引き受けて十字架で死なれました。しかし、その死によってもうひとつの事が起きました。それはサタンに対するさばきです。これは表裏一体です。
人間の側から見れば、イエスは人の罪を引き受けて死んでくださったのですが、罪の張本人であるサタンからすれば、自分がさばかれ滅ぼされたことになります。それがイエス様の十字架の死の意味するところです。
イエス様はご自分の死によって「この世がさばかれる」と言われ、「今こそこの世の君は追い出される」と言われました(ヨハネ12・31)。そして、「さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである」とも言われました(同16・11)。
私たちは、十字架に掛けられたイエス様を見あげて、自分の罪はイエスがすべて引き受けてくださったと信じるのですが、同時に、罪を根拠に私を支配し苦しめてきた悪魔(サタン)はあの十字架でさばかれたのだと信じるのです。
そのように信じて、あの十字架にかけられたイエスを見上げる者は、死から命へと移されるのです。
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<You Tube>【一日一章】 朝マナ 民数記 21章【聖書通読】 (youtube.com)
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