東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

山形ホテル

2010年08月16日 | 荷風

山形ホテルについては、川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)に詳しい。以下の記事は、これを参考にしたものである。

山形ホテルは、大正6年(1917)ロンドンから帰った山形巌によって建てられた小さな洋風ホテルであった。前回の記事の佐藤春夫の小説のとおりである。

山形巌は、大阪生まれで、子どものころにサーカスの芸人になり、ヨーロッパ興行に行った。軽業師だったという。大正時代ロンドンで暮らしていたが、大正3年(1914)の第一次大戦の勃発によって興行がたちゆかなくなり、大正6年、36歳のとき帰国し、麻布区市兵衛町二丁目四の五に二階建ての洋風ホテルを建てた。

川本の上記著書には、山形巌と従業員の写真と、ホテル外観の写真がのっている。

当時の東京には帝国ホテルと、東京ステーションホテルの他は大きなホテルはまだ少なく、山形ホテルは、小さなホテルでも来日する外国人でにぎわった。

山形ホテル跡(1)の記事に掲げた説明文(写真)のように、山形巌の子息が俳優の山形勲である。大正4年(1915)ロンドン生まれ。四男三女の二男。

山形勲は平成8年(1996)に亡くなっているが、川本三郎は生前に会って話を聞いている。それによると、小学生のころ、ホテルの食堂に来た荷風の姿をよく憶えているとのこと。

「荷風というと晩年の奇人ぶりがよく語られますが、そのころの荷風は、実におしゃれな紳士でしたよ。昼になると食事に来ましたが、夏など、白い麻の服を着て、子ども心にも、おしゃれなんだなと思いました」

荷風の「断腸亭日乗」に山形ホテルがよくでてくることは知られているが、始めてでてくるのは、大正9年11月19日である。

「十一月十九日。快晴。母上来訪。山形ホテル食堂に晩餐を倶にす。深更雨声頻なり。」

荷風は、この年の5月に偏奇館に移っており、この日、偏奇館に母が訪ねてきたので、ホテルの食堂で一緒に夕飯をとった。

客は圧倒的に外国人が多く、帝国ホテルで収容しきれなかった外国人がまわされてきたという。

山形ホテルは、昭和4年(1929)の世界恐慌で外国人客が減り、経営難となり、その後数年で営業をやめたらしい。

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山形ホテル跡(2) | トップ | 霊南坂 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

荷風」カテゴリの最新記事