東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

江戸見坂

2010年08月20日 | 坂道

汐見坂の坂下の信号を右折すると、江戸見坂の坂下である。

汐見坂と江戸見坂はこのときが初めてであったが、江戸見坂にきて驚いた。かなりの急勾配の坂であったからである。

右の写真は坂下から撮ったものである。坂上側で右に曲がっている。汐見坂と霊南坂の二つの坂の高低差と同じ高さをこの坂は短い距離で一挙に上るため、かなりの傾斜となっている。

『江戸名所図会』の霊南坂の項に次の説明がある。「江戸見坂は、霊南坂の上より、土岐・牧野両家の北の脇を曲がりて西窪の方へ下る坂なり。」

『紫の一本』に「この坂より江戸よく見ゆるゆゑ名とすとぞ。」とあるように、江戸の街がよく見えたということからこの名がついた。

永井荷風は、「日和下駄」で江戸見坂から愛宕山を前にして日本橋京橋から丸の内を一目に望む事が出来たとしている。横関も、この坂の上からは江戸市中が残らず見渡せたとしている。

左の写真は坂上から撮ったものである。坂上からの風景は望むべくもない。

坂下を見ると、急勾配の坂を原付バイクが大きなエンジン音をあげながら上ってくる。

横関の「続 江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)に、坂上の写真がのっているが、大きなビルがなく、その当時はまだ眺望がよかったことがわかる。

坂上を進むと、霊南坂からの通りの信号にでる。これで、ちょうど、霊南坂→汐見坂→江戸見坂を巡って一周したことになる。

関東大震災が起きた大正12年(1923)9月1日、荷風の「断腸亭日乗」に次の記述がある。「ホテルにて夕餉をなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。」(関東大震災と荷風(1)の記事参照)

荷風は、この日の夜、愛宕山から偏奇館に帰るとき江戸見坂を上ったようである。

また、「断腸亭日乗」大正15年(1926)1月16日に次の記述がある。

「正月十六日。終日旧稾葷斎漫筆を校訂す。晡時微雨ふり来りし故、暮れなば雪となるべしと思ひしに、雨は歇み風なき夜は思ひの外に暖なり。お富の家桜川町より江戸見阪下明舟町に移転せし由。初更の頃行きて訪ふ。」

荷風のこのころの愛人のお富が江戸見阪下の明舟町に住むことになった。このお富に荷風はかなり入れ込んだようで、同年1月12日の「日乗」を見るとよくわかる。もっとも、荷風は、気にいると、つきあいの始めのころによくこういういったことを書いている(たとえば、丹波谷坂と荷風の記事参照)。
(続く)

参考文献
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
永井荷風「断腸亭日乗」(岩波書店)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

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