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東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

永井荷風生家跡(1)

2011年02月21日 | 荷風

安藤坂上側から西への道 荷風生家跡近く 荷風生家跡近く 荷風生家跡近く 安藤坂上側の三中前の横断歩道を渡り、そのまま西へ進むと、突き当たるので、左折し、次に右折する。ここは、写真のように、すこし下り坂のみごとなクランク状の道筋である。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、安藤坂から西に延びる道が同様になっているが、突き当たり手前に右折する小路がある。近江屋板、明治地図、戦前の昭和地図も同様である。こういった特徴は色んな地図を見るときの目印になる。

クランク状の道筋を西へ進む。緩やかな下り坂が金剛寺坂中腹へと続いている。ちょっと進むと、右折する上り坂となった小路があるが、その角に「永井荷風生育地」の説明板が立っている。

荷風生家跡 荷風生家跡 荷風生育地説明板 永井荷風、本名壯吉は、ここ小石川区金富町45番地(文京区春日二丁目20番25号あたり)で明治12年(1879)12月3日に父久一郎、母恆(つね)の長男として生まれた(以前の記事参照)。久一郎はこのとき洋行帰りの少壮官吏であった。この生家のことは、荷風初期の作品「狐」(明治42年(1909)1月1日発表)に詳しい。以下、少々長いが、その冒頭である。

『小庭を走る落葉の響、障子をゆする風の音。
 私は冬の書斎の午過ぎ。幾年か昔に恋人とわかれた秋の野の夕暮を思出すやうな薄暗い光の窓に、ひとり淋しく火鉢にもたれてツルゲネーフの伝記を読んでゐた。
 ツルゲネーフはまだ物心もつかぬ子供の時分に、樹本のおそろしく生茂った父が屋敷の庭をさまよって、或る夏の夕方に、雑草の多い古池のほとりで、蛇と蛙の痛しく噛み合ってゐる有様を見て、善悪の判断さへつかない幼心に、早くも神の慈悲心を疑った……と読んで行く中に、私は何時となく理由なく、私の生れた小石川金富町の父が屋敷の、おそろしい古庭のさまを思ひ浮べた。もう三十年の昔、小日向水道町に水道の水が、露草の間を野川の如くに流れてゐた時分の事である。
 水戸の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売物となってゐたのをば、維新の革命があって程もなく、新しい時代に乗じた私の父は空屋敷三軒ほどの地所を一まとめに買ひ占め、古びた庭園や木立をそのまゝに広い邸宅を新築した。私の生れた時には其の新しい家の床柱にも、つやぶきんの色の稍(やや)さびて来た頃で。されば昔のまゝなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の陰はいよいよ暗く、その最も暗い木立の片隅の奥深いところには、昔の屋敷跡の名残だといふ古井戸が二つもあった。その中の一つは出入りの安吉といふ植木屋が毎年々々手入の松の枯葉、杉の折枝、桜の落葉、あらゆる庭の塵埃を投げ込み、私が生れぬ前から五六年もかゝつて漸くに埋め得たと云ふ事で。丁度四歳の初冬の或る夕方、私は松や蘇鉄や芭蕉なぞに其の年の霜よけを為し終へた植木屋の安が、一面に白く乾いた茸の黴(か)び着いてゐる井戸側を取破してゐるのを見た。これも恐ろしい数ある記念の一つである。蟻、やすで、むかで、げじげじ、みゝず、小蛇、地蟲、はさみ蟲、冬の住家に眠って居たさまざまな蟲けらは、朽ちた井戸側の間から、ぞろぞろ、ぬるぬる、うごめき出し、木枯の寒い風にのたうち廻って、その場に生白い腹を見せながら斃死(くたば)ってしまふのも多かった。安は連れて来た職人と二人して、鉈で割った井戸側へ、その日の落葉枯枝を集めて火をつけ高箒(たかぼうき)でのたうち廻って匍出す蛇、蟲けらを掻寄せて燃した。パチリバチリ音がする。焔はなくて、湿った白い烟ばかりが、何とも云へぬ悪臭を放ちながら、高い老樹の梢の間に立昇る。老樹の梢には物すごく鳴る木枯が、驚くばかり早く、庭一帯に暗い夜を吹下した。見えない屋敷の方で、遠く消魂(けたたま)しく私を呼ぶ乳母の声。私は急に泣出し、安に手を引かれて、やっと家へ帰った事がある。

荷風生家跡 荷風生家跡 荷風生家跡  安は埋めた古井戸の上をば奇麗に地ならしをしたが、五月雨、夕立、二百十日と、大雨の降る時々地面が一尺二尺も凹むので、其の後は縄を引いて人の近かぬやう。私は殊更父母から厳しく云付けられた事を覚えて居る。今一つ残って居る古井戸はこれこそ私が忘れやうとしても忘られぬ最も恐ろしい当時の記念である。井戸は非常に深いさうで、流石の安も埋めようとは試みなかった。現在は如何なる人の邸宅になって居るか知らぬけれど、あの井戸ばかりは依然として、古い古い柳の老木と共に、あの庭の片隅に残って居るであらうと思ふ。』

「狐」は荷風29才の時の作品であるが、その当時の描写が詳しく、ついこの間のごとくのように書いている。こういった圧倒的な表現は荷風のもっとも得意とするところで、読む者は当時の光景を生き生きと思い描くことができる。それにしても、三十年も前の少年時代をこのように表現できる文章力、感性とその持続力は、やはり、生来のものなのであろう。

この作品は、その古庭に狐が出没し雞(にわとり)を喰い殺したことをめぐる父や住み込みの書生や出入りの人たち大人の振る舞いを少年の眼を通して描いたものである。この少年の眼を荷風は生涯持ち続けたように思う。なお、この作品は、確か文庫本にはなく、全集や作品集で読むしかないようであるが、文庫本に入れるべき作品と思う。

荷風生家跡 荷風生家跡 荷風生家跡 尾張屋板に、現在説明板の立っている角を曲がったところに「アカコバシ」とあるように、ここに、赤子橋という橋があった。近江屋板にも「アカコバシ」とあり、その先に、坂マーク(△)があり、現在も短いがちょっとした坂になっている。この坂下に橋があったようである。

この橋について『御府内備考』の金杉水道町の書上に次のようにある。

「一橋 右南の方同町続武家屋敷前に石を三枚並有之、字赤子橋唱申候、尤同所に往古御駕の衆拝領地面有之候に付御駕橋を赤子橋と言誤候哉、又は橋の上え赤子を捨有之儀も有之哉にて右より赤子橋と相唱来候得共、矢張町内付きの分も同様里俗に赤子橋と相唱候に付、町内より隔候得共申上候、」

この橋は、道幅からいって当然であろうが、石を三枚並べた小さなものであった。橋名のいわれは、このあたりにむかし御駕(おかご)の衆の拝領地があり、御駕橋を赤子橋と言い誤ったのか、橋の上に赤子が捨ててあったからか、などとしている。
(続く)

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「荷風全集 第六巻」(岩波書店)

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2・26事件と荷風(6)

2010年11月11日 | 荷風

永井荷風「断腸亭日乗」昭和11年(1936)7月3日の最後に「夕刊新聞に相沢中佐死刑の記事あり。」とある。

5月7日に第1師団軍法会議は相沢中佐に対し死刑判決を下し、相沢中佐は高等軍法会議に上告したが、6月20日に上告棄却で死刑が確定していた。2・26事件の将校らが収容されていた代々木の陸軍刑務所の刑場で執行された。3日の朝早く空包射撃の音が鳴り響き、しばらくすると止んだが、これは相沢中佐の処刑の銃声を打ち消すためのカムフラージュであったという。

一方、2・26事件の裁判も進んでいたが、これは、戦時や戒厳令下の地域に設けられる特設陸軍軍法会議で行われ、弁護人なし、非公開、上告なし(一審制)という暗黒裁判であった。当時の東京はまだ戒厳令下にあったが、治安は回復し弁護人の選任にも困らないので特設陸軍軍法会議で裁く必要はなかったにもかかわらず、そうした理由は、政府・陸軍は5・15事件や相沢事件の裁判闘争で懲りて、決起将校の裁判闘争を封じ、裁判を簡単に素早く片づけようとしたからであった。

「七月七日。くもりて雨無し。忽然新蝉の声を聞く。午後三笠書店店員来る。朝日新聞社日高君を介して連載小説執筆を申来る。両三日前の事なり。長篇小説をつくる気力なきを以て手紙にて辞す。夜尾張町不二家に飯す。
 〔欄外朱書〕二月二十六日叛乱軍将卒判決の報出ヅ」

荷風が「日乗」に記したのは新蝉の声を聞いた7月7日であるが、判決は5日に出ており、死刑17名、有罪76名であった。

「七月十二日日曜日陰。為永春水の人情本数種を読む。盖徃年一読せしものなり。晩食後雲重く風断ゑ溽暑甚しければ、漫歩銀座に徃き久辺留に一茶す。高橋邦氏来る。杉野教授萬本氏と新橋際なる駒子の酒場に立ち寄りて帰る。寝に就かんとする時俄に雨声をきく。
 〔欄外朱書〕叛軍士官代代木原ニテ死刑執行ノ報出ヅ」

この日、15名に対し午前7時から1時間おき位に三回に分けて処刑が行われた。刑場は代々木陸軍刑務所の北西に造られた。塀に沿って五つの壕が掘られ、そこに十字架(刑架)が設けられ、十字架の前に正座させられて銃殺されたという。このときもまた隣の代々木練兵場では朝から演習が行われ、軽機関銃の空砲の音が刑務所の房内まで聞こえてきたという。磯部、村中は北一輝、西田税の裁判の証人として刑の執行が延期された。

荷風は、7月になると事件について上述のように単に報道結果を記すだけであったが、欄外に朱書きにしていることから、特記すべき事項と考えていたのであろう。

この事件の年、荷風の心境に変化が見られたようで、例えば、1月30日(以前の記事参照)の「日乗」に過去関係のあった女性を列挙したり、2月24日には遺書めいたことを書いている。

また、雪が多く寒い冬が過ぎ暖かくなると、荒川放水路や玉の井などにしばしば出かけ、それが「放水路」「玉の井」の散策記となり、玉の井通いはやがて翌年発表の代表作「墨東奇譚」へとつながっていく。

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)
池田俊彦「生きている二・二六」(ちくま文庫)
秋庭太郎「新考 永井荷風」(春陽堂)

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2・26事件と荷風(5)

2010年11月10日 | 荷風

事件後にも荷風は「断腸亭日乗」に時々事件のことを記している。

「三月四日。晴れて風寒し。晩食後銀座に徃き総菜を購い久辺留に休む。高橋邦氏より騒擾の詳報をきく。車を与にしてかへる。此日午後千香女史来訪。余が旧著礫川逍遙記を再刻したしといふ。草稿をわたす。
 〔朱書〕大森区久ケ原五七九  相田光代」

高橋邦氏から事件の詳報を聞いている。高橋邦とはちょっと調べたが誰かわからない。荷風は食堂やレストランなど同じ店に毎日のように行く傾向があり、この時期は銀座の茶店久辺留であったようである。

「三月十一日。晴。初めて春らしき暖さなり。午後食料品を購はむとて銀座に行くに何といふこともなきに人出おび〔夥〕ただし。田舎より出で来りし人も多し。過日軍人騒乱の事ありし為め其跡を見むとするものも多き様子なり。塵まみれの古洋服にゴムの長靴を穿ち、薄髯を生し陰険なる眼付したるもの日比谷のあたりには殊に多し。其容貌と其風采とは明治年間の政党の壮士とも異り一種特別のものなり。燈刻前家にかへる。」

この日、この冬で初めて春らしくなり、暖かった。銀座に行くと何事もないのに人出が多く、田舎から出てきた人も多いようで、2・26事件の跡を見物する人も多いようである。異な風体のものが日比谷のあたりに多いとあるが、事件の共鳴者なのであろうか。巷の色んなところで事件の影響がでているようである。

「三月十四日。くもりて風暖なり。午後日高君来談。晡下鼎亭に徃きて浴す。帰途竹葉亭に飯し久辺留に憩ふ。一客あり。二月廿六日兵乱の写真十数葉を携来りて示す。叛軍の旗には尊皇討姦と大書したり。深夜杉野教授と車を共にしてかへる。」

いつもの茶店久辺留に行くと、2・26事件の写真をもっている客がいて、尊皇討姦と大書した旗が写っていた。決起部隊は山王ホテルの屋上にそれと同じ文言の旗を掲げたらしいが、その写真はホテル屋上を撮ったものであろうか。

「三月十八日。・・・むかし一橋の中学にてたびたび喧嘩したる寺内寿一は軍人叛乱後陸軍大臣となり自由主義を制圧せんとす〔以上補〕。・・・」

寺内寿一(てらうちひさいち)は、当時、陸軍大将で、2・26事件で岡田啓介内閣が総辞職した後に成立した広田弘毅内閣の陸軍大臣であった。荷風とは高等師範附属中学の同級生で、総理大臣にもなった陸軍大将寺内正毅の長男である。その喧嘩とは、秋庭太郎によると、軟派の代表であった荷風(壯吉)が髪を長くのばしていたのを寺内寿一はじめ硬派の連中が苦々しく思い、あるとき荷風を校庭でみんなで押さえ付け、むりやりバリカンで頭を刈ってしまい、なぐったりもした。これに対し、壯吉少年は、なぐった連中の家を一軒一軒まわって、その親たちに「君の家の息子がおれをこんなにした、いつかひとり、ひとりの時にやっつけてやるから、その時になって親が苦情をいうな」といったら、親たちはみんなあやまる。帰ってきた連中は親からうんとしかられた、といったことらしい。

自由主義の制圧とは、当時、寺内が広田内閣の閣僚名簿をみて、自由主義的・現状維持的であり、全軍一致の要望に合わないなどと干渉したらしいが、そのようなことを指しているのだろうか。

「三月廿七日。晴。瑞香の花馥郁たり。午後平山生出版物の事につき来談。夜銀座に徃き久辺留に憩ふ。〔此間三行強末梢。以下行間補〕人の話に近刊の週刊朝日とやらに余と寺内大将とは一橋尋常中学校にて同級の生徒なりしが仲悪く屡喧嘩をなしたる事など記載せられし由、可恐可恐、〔以上補〕また両三日前の朝日及び日々の紙上に丸ノ内美術倶楽部の広告に事よせ陰謀の暗号をなせしものあり。昨日に至り此事露見し検閲局係りの者免職せられしとの風説あり。帰途芝口にて八重子女給なりに逢ひ車を与にし門前にて別る。」

上記の寺内との中学時代のことが週刊誌に載ったようで、その権勢から何かの反作用をおそれてか、恐るべし恐るべしと書いている。

「四月六日。籾山梓月、山本実彦、拙著を贈呈せし返書を寄せらる。山本君の手紙封筒には戒厳令に依り開緘の朱印を捺したり。何の故にや恐しき世の中なり。終日読書。夜銀座に行き食料品をあがなひ茶店久辺留に少憩すること例の如し。空くもりて雨を催す。」

荷風宛の手紙の封筒に戒厳令に依り開緘(かいかん)の朱印があった。東京はまだ戒厳令下にあり、それを理由に手紙が勝手に開封されたようである。荷風は、おそろしき世なり、と嘆いている。

ところで、荷風は2・26事件のことをどのように感じていたのであろうか。事件の直前であるから直接の感想ではないが、次のような記述がある。

「二月十四日。晴れて風静なり。この頃新聞の紙上に折々相沢中佐軍法会議審判の記事あり。〔此間一行強末梢。以下行間補〕相沢は去年陸軍省内にて其上官某中将を斬りし者なり、新聞の記事は其の〔以上補〕最も必要なる処を取り去り読んでもよまずともよきやうな事のみを書きたるなり。されど記事によりて見るに、相沢の思想行動は現代の人とは思はれず、全然幕末の浪士なり東禅寺英国公使館を襲ひ或は赤羽河岸にヒユウスケンを暗殺せし浪士と異なるものなし。西洋にも政治に関し憤怒して大統領を殺せしもの少からず、然れども日本の浪士とは根本に於て異る所あり。余は昭和六七年来の世情を見て基督教の文明と儒教の文明との相違を知ることを得たり。浪士は神道を口にすれども其の行動は儒教の誤解より起り来れる所多し。そは兎もあれ日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行も之を要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒ぜさるがために起ることなり。然り而して個人の覚醒は将来に於てもこれは到底望むべからざる事なるべし。〔以下六行抹消〕」

相沢三郎中佐は、昭和10年(1935)8月12日午前陸軍省内で執務中の軍務局長永田鉄山少将を斬り殺した。その前におきた真崎教育総監更迭劇に絡んで永田少将がその中心人物とされたらしい。それに怒った相沢中佐が「永田天誅だ!」と叫びながら軍刀で襲いかかったという。

相沢事件は2・26事件の決起将校に大きな影響を与えたという。前月28日にはその事件の軍法会議の初公判があった。

荷風は、その軍法会議の新聞報道について、最も必要なる事を取り去り、読んでも読まなくてもよいような事だけを書いていると批評しているが、これは昨今の報道を見ているといまでも当てはまりそうである。新聞もむかしから余り変わっていないようである。

荷風は、この事件につき、幕末の浪士と同じだと酷評しているが、その例としてあげているのが、長州藩などのいわゆる尊王攘夷派が起こした事件であるところがおかしい。明治以来陸軍の主流は山県有朋をはじめとする長州閥であったから皮肉の意味もあったかもと想像してしまう。

日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三つとしているが、荷風がこのような政治のことを書くのはめずらしい。客観的な見方で、当時としては思い切った考え方であったと思われる。要するに一般国民の自覚に乏しいことが根本原因だが、この個人の覚醒は将来においても望むことができないとしている。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
大内力「日本の歴史24 ファシズムへの道」(中公文庫)
林茂「日本の歴史25 太平洋戦争」(中公文庫)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)
秋庭太郎「新考 永井荷風」(春陽堂)

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2・26事件と荷風(4)

2010年11月09日 | 荷風

事件四日目の「断腸亭日乗」は次のとおりである。これは偏奇館近くの柳のだんだんの記事で引用した。

「二月廿九日。陰。朝小山書店主人電話にて問安せらる。午後門を出るに市兵衛町表通徃来留なり。裏道崖づたひに箪笥町に出で柳のだんだんとよぶ石段を上り仲の町を過ぎ飯倉片町に出づ。電車自働車なければ歩みて神谷町より宇田川町を過ぎ銀座に至り茶店久辺留に憩ふ。四時過より市中一帯通行自由となる。杉野教授と金兵衛酒店に飯す。叛軍帰順の報あり。また岡田死せずとの報あり。電報通信社々員宮崎氏より騒乱の詳報を聞く。夜十二時家に帰る。」

この日の朝に小山書店主人が電話にて安否を問い合わせてきた。武力鎮圧の可能性もあったため心配になったのであろうか。午後家を出たが、市兵衛町の表通りが通行止めである。

前日夕方、戒厳参謀長の安井藤治少将は明29日早朝の武力行使を決め、周辺住民の立ち退きなどの準備を指令した。朝から重武装の鎮圧軍が霞ヶ関一帯に進出し、反乱軍を包囲した。このため、市兵衛町の表通りも通行止めとなり、電車も自動車もなかったのであろう。

荷風は、徒歩で、裏道崖づたい(道源寺坂)→箪笥町→柳のだんだん→仲の町→飯倉片町→神谷町→宇田川町→銀座のコースで茶店久辺留に至る。かなりの距離であるが、街歩きの好きな荷風にとって大したことではなかった。

武力鎮圧の前に決起部隊に脱走兵がでたりして、決起将校も次々と下士官兵を兵営に帰した。結局、決起将校の中で最先任であった野中四郎大尉が自決し、最後に山王ホテルを占拠していた安藤輝三大尉率いる歩兵第三連隊第六中隊159名だけが残ったが、安藤大尉の自決(未遂)で終わった。午後3時、戒厳司令部は事件の終結宣言を出した。

4時過ぎから市中一帯の通行が自由となったとあるが、終結宣言から1時間ほど後のことのようである。荷風は杉野教授と金兵衛酒店で夕飯をとり、そこで、叛乱軍の帰順や岡田首相死せずの報を聞いた。さらに電報通信社々員宮崎氏から詳しい話を聞いたためか、遅くなり、夜十二時家に帰った。

以上が昭和史の一大事件である2・26事件の激動の4日間における荷風「断腸亭日乗」の記述である。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)

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2・26事件と荷風(3)

2010年11月08日 | 荷風

事件三日目の「断腸亭日乗」は次のとおりである。

「二月廿八日。朝来雪また降り来る。午後銀座に徃く。霞関日比谷虎の門あたり一帯に通行留なり。叛軍は工事中の議事堂を本営となせる由。雪は四時頃に至りて歇む。茶店久辺留に少憩し薄暮宇田川乗替の電車にて帰る。燈下マルクオルランの小説女騎士エルザを読む。春寒尚料峭たり。」

事件三日目も朝から雪が降ったが、午後銀座に行った。この日は、霞ヶ関、日比谷、虎の門のあたりが通行留になったためと思われるが、宇田川(浜松町のあたり)乗替の電車で帰った。まだ寒かったようだ。

事件についての報道はまだ少なかったようで、日乗の記述も少ないが、叛軍となっているのが、眼にとまる。この日、午前5時8分、決起部隊の原隊復帰を命ずる奉勅命令が厳戒司令官によって公布され、このときから決起部隊は一転して叛乱軍となったが、そのことが報道されたのであろうか。

戒厳参謀の石原莞爾大佐は奉勅命令が下ったのだから従わなければ武力鎮圧をするとしたようで、そういった動きのためか霞ヶ関や虎の門などが交通留となって緊迫感が出てきたようである。


工事中の議事堂を本営とするようだとあるが、誤報のようである。上の首相官邸周辺地図(昭和11年頃)は、大内力「日本の歴史24 ファシズムへの道」(中公文庫)426頁からの引用であるが、決起部隊は、首相官邸、山王ホテル、警視庁、陸軍大臣官邸などを占拠し、陸軍中枢の陸軍省、参謀本部、陸相官邸を包囲・遮断し、陸相官邸を作戦本部とした。

陸軍省、参謀本部が三宅坂にあったので、上記の奉勅命令にも「三宅坂附近ヲ占拠シアル将校」とある。いまの憲政記念館のあたりであろう。

陸軍省、参謀本部、陸相官邸と首相官邸、山王ホテルとの間に議事堂があり、地理的にはここが中心となっている。

上の地図で首相官邸と外務大臣官邸との間から南へ延びる道が霊南坂、荷風の偏奇館近くの市兵衛町の表通りと思われる。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)

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2・26事件と荷風(2)

2010年11月06日 | 荷風

事件の次の日の「断腸亭日乗」は次のとおりである。

「二月廿七日。曇りて風甚だ寒し。午後市中の光景を見むと門を出づ。東久邇宮門前に憲兵三四名立つ。道源寺阪を下り谷町通りにて車に乗る。溜池より虎の門のあたり弥次馬続々として歩行す。海軍省及裁判所警視庁等皆門を閉ぢ兵卒之を守れり。桜田其他内曲輪へは人を入れず。堀端は見物人堵をなす。銀座尾張町四辻にも兵士立ちたり。朝日新聞社は昨朝九時頃襲撃せられたる由なれど人死は無之。印刷機械を壊されしのみなりと云ふ。銀座通の人出平日より多し。電車自働車通行自由なり。三越にて惣菜を購ひ茶店久辺留に至る。居合す人々のはなしにて岡田斎藤等の虐殺せられし光景の大畧及暴動軍人の動静を知り得たり。〔此間約一行抹消〕歌川竹下織田の三子と三十間堀河岸の牛肉店末広に至り晩餐をなす。杉野教授千香女史おくれて来り会す。談笑大に興を添ふ。八時過外に出るに銀座通の夜店遊歩の人出いよいよ賑なり。顔なじみの街娼一両人に逢ふ。山下橋より内幸町を歩む。勧業銀行仁寿公堂大坂ビル皆鎮撫軍の駐屯所となる。田村町四辻に兵士機関銃を据えたり。甲府より来りし兵士なりと云ふ。議会の周囲を一まはりせしが〔此間約六字抹消、以下行間補〕さして面白き事なく〔以上補〕弥次馬のぞろぞろと歩めるのみ。虎の門あたりの商店平日は夜十時前に戸を閉すに今宵は人出賑なるため皆燈火を点じたれば金毘羅の縁日の如し。同行の諸氏とわかれ歩みて霊南阪を上るに米国大使館外に数名の兵あり。人を誰何す。富豪三上の門内に兵士また数名休息するを見たり。無事家に帰れば十一時なり。此日新聞には暴動の記事なし。」

市中の光景を見たためこの日の「日乗」は記載量が増えている。巷の観察者荷風の本領発揮のときである。

曇りで風が強く寒かったが、午後、家を出た。道源寺坂を下って谷町通りから車に乗ったが、溜池、虎の門のあたりは弥次馬がたくさんいた。堀端では賭けまでやる見物人もいた。銀座通の人出は平日よりも多く、電車も車も通行が自由である。茶店久辺留から歌川竹下織田の三子と三十間堀河岸の牛肉店末広に行き夕食をとった。杉野教授と千香女史がおくれてきたが、話が盛り上がった。八時過外に出ると、銀座通の夜店、人出がいっそう賑やかであった。

この日、三時五十分東京全市に戒厳令が公布され、戒厳司令部が九段の軍人会館に置かれたが、戒厳令下の時とは思えない様子が描かれている。このとき、陸軍上層部は方針が定まらず、右往左往していたから当然といえば当然であった。

前日(事件当日)の午後に陸軍大臣告示が出たが、それは決起将校に目的達成の期待感を抱かせるものであった。この日は、午後に決起部隊に宿営命令が出されたので、将校も兵士も安心しきっていた。そして、決起部隊は戒厳令公布と同時に戒厳部隊に組み入れられ、第一師団隷下に属して南部麹町地区の警備に任じていたという。

一方、天皇は、決起将校を弁護する本庄繁侍従武官長に決起部隊の鎮定を督促し、本庄があまりにも言い訳をするのにたまりかねて、自分が近衛師団を率いて鎮定に当たるとまで言い切ったらしい。

荷風らは、そんな上層部の動きを知らず、銀座から山下橋を通って内幸町、勧業銀行などを過ぎて田村町四辻に至り、そこで機関銃を据えた兵士と話をしたらしく、甲府からきた兵士であった。さらに、議会の周囲を一回りしたが面白いことはなく、弥次馬だけがぞろぞろと歩いていた。虎の門あたりの商店は平日は夜十時前に閉じるのに人出が多いためまだ開いて灯りを点じているので金毘羅の縁日のようだった。同行の諸氏とわかれて霊南坂を上って帰宅した。途中米国大使館の外で兵に誰何された。

上記のように、事件翌日は、多くの野次馬が自由に霞ヶ関や虎の門あたりに繰り出しており、まだのんびりした感じであったようである。

(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)

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2・26事件と荷風(1)

2010年11月05日 | 荷風

最近、赤坂渋谷新宿の記事で何回か2・26事件の現場などがでてきたので、永井荷風の日記「断腸亭日乗」でそのときの市中の様子をみてみたい。

事件の年の昭和11年(1936)は雪が異常に多い冬であったらしく、その様子は、例えば2月23日の「日乗」に記してあるが、これは市三坂の記事に掲載した。

前日の「日乗」は次のとおり。

「二月廿五日。晴。午後三菱銀行に用事あり。それより銀座を歩む。蓄音機屋の店頭に人多く立たずみ三味線くづれとやら云ふ流行唄を聞けり。日未だ暮れやらぬ時、銀座通の人のゆききと蓄音機の俗謡と貧し気なる建築物とはいかにも浅薄なる現代的空気をつくりなしたり。夜となりて燈火かがやき汚らしき商店の建物目に立たぬ頃に至れば銀座通は浅草公園仲店の賑ひを呈するなり。いづれにしてもこれが東京一の繁華なる町とは思はれぬなり。新橋停車場に去年の暮より仏蘭西料理屋開店せし由聞き居たれば立ち寄りて晩餐を命ず一人前弐円ぶどう酒五十銭肉汁あしからず葡萄酒又良し。烏森芳中に立寄りてかへる。風甚寒し。」

夕暮れ時の銀座通の人のゆききと蓄音機の俗謡と貧し気なる建築物とが浅薄なる現代的空気をつくっている。これが東京一の繁華街とは思われないほどみすぼらしい。寒さもありいっそうそういう感じになったのかもしれないが、やはり、当時の市中の様子はそんなものであったのであろう。

次が事件当日の「日乗」である。

「二月廿六日。朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、〔此間約四字抹消。以下行間補〕軍人〔以上補〕警視庁襲ひ同時に朝日新聞社日々新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラツパの声のみ物哀れに聞るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。
 〔朱書〕森於菟 台北東門前町一五八文化村四条通
九時頃新聞号外出づ。岡田斎藤殺され高橋重傷鈴木侍従長又重傷せし由。十時過雪やむ。」

当日も灰のようにこまかい雪が降りどんどん積もった。午後二時ごろに歌川氏が電話で知らせてくるまで事件のことは知らなかった。降りしきる雪で普段よりも物音がせず、豆腐屋のラツパが物哀れに聞こえるだけ。物見高い荷風は、市中の様子を見に行きたかったが、雪と寒さで諦め、風呂に入った。

号外がでて、岡田斎藤殺され高橋鈴木侍従長重傷とあるが、高橋是清はほとんど即死だったらしい。岡田首相は人違いであった。

事件当日は外に出ないで終日自宅で過ごした。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「新考永井荷風」(春陽堂)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)

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偏奇館近くの柳のだんだん

2010年09月11日 | 荷風

昭和11年(1936)2月26日前後の永井荷風「断腸亭日乗」を見ていたら、その日起きたいわゆる2・26事件に直接関係しないことであるが、2月29日におもしろい記述があった。山形ホテル跡の記事でふれた柳の段々についてである。

「二月廿九日。陰。朝小山書店主人電話にて問安せらる。午後門を出るに市兵衛町表通徃来留なり。裏道崖づたひに箪笥町に出で柳のだんだんとよぶ石段を上り仲の町を過ぎ飯倉片町に出づ。電車自働車なければ歩みて神谷町より宇田川町を過ぎ銀座に至り茶店久辺留に憩ふ。四時過より市中一帯通行自由となる。杉野教授と金兵衛酒店に飯す。叛軍帰順の報あり。また岡田死せずとの報あり。電報通信社々員宮崎氏より騒乱の詳報を聞く。夜十二時家に帰る。」

荷風は、この日、外出しようとして偏奇館から御組坂上の表通りに出たら、人も通行止めだったらしい。それで、裏道崖づたひに箪笥町に出た、とあるが、この裏道崖づたい、というのがどこなのかが疑問である。単に箪笥町に出るのであれば、御組坂を下ればよく、崖づたいにはならないからである。

裏道崖づたいとは、道源寺の方にでる崖そばの裏道で、道源寺坂を下ってから、箪笥町にまわったのではないだろうか(以前の記事の松本氏による俯瞰地図を参照)。たぶん道が雪で悪かったためとかの理由で。

柳のだんだんは、箪笥町の谷の通りから台地に上る石段であったと思われる。その石段は、偏奇館からちょっと離れており、山形ホテル裏の道ではなさそうである。なんとなく、荷風はこの日、柳のだんだんをはじめてか、または、滅多に通らない所のように描いているような気がするからである。

柳のだんだんから台地に上り、そこから南側に歩き、たぶん仲の町の行合坂を通って飯倉片町にでたと思われる。そこから銀座に出るのにも苦労したらしい。神谷町から東側に向かい、現在の浜松町にでて、そこから北側に歩いたようである。

ところで、段々(だんだん)とは階段のことであるが、階段よりもなんとなく軽やかな響きがある。これが名についた階段があることを思い出した。日暮里駅北口から西に向かい、御殿坂を通って谷中銀座の商店街に下る階段である。夕やけだんだんという。人通りの多いにぎやかな段々である。

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

コメント (2)
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偏奇館跡そばの古びた階段(続き)

2010年08月28日 | 荷風

以前、偏奇館跡そばの古びた階段の記事で、松本泰生「東京の階段」(日本文芸社)に写真とともに紹介されている偏奇館跡そばの古びた階段の位置を検討したが、この階段について面白い記載(正確には図)を見つけた。なお、この階段の写真は、1994~95年に撮影され、同氏による「Site Y.M.建築・都市徘徊」でも閲覧できる。

松本哉「永井荷風の東京空間」(河出書房新社)という本の中の図である。

「偏奇館跡」変貌記、という章に、「今昔混合・土地の高低強調 麻布・荷風寓居周辺図」と題した図がある(57頁)。

なかなか興味ある図で、麻布市兵衛町にあった偏奇館の周囲を台地と谷とに分けて描いている。その図の一部を拡大したのが下の図である。



谷町の谷から延びた御組坂の左手の崖上に偏奇館がある。道源寺坂が西光寺、道源寺と崖との間に崖に沿って谷から上っている。

道源寺坂から崖づたいに偏奇館跡に行く道があるが、その途中の崖に階段らしきものが小さく描かれている。谷町の文字のちょうど上である。かなり小さく注意して見ないと見過ごしてしまうほどである。

これが、偏奇館跡そばの古びた階段であると思われる。 著者の松本哉が偏奇館跡を訪れたのは、本文の記載から平成4年(1992)春のようであり、このときに階段はまだ存在していたから、この図を描くときにいれたものであろう。

上の図から、谷町の谷の様子がよくわかり、その右に落合坂が下る谷がみえるが、ここが我善坊谷である。

中沢新一「アースダイバー」の「湯と水 麻布~赤坂」にある、洪積層と沖積層とを描き分けた地図を見ると、御組坂のところが沖積層になっており、我善坊谷も同じく沖積層である。縄文海進期にはここまで海が入り込んでいたという。

ところで、松本哉は上の図をどのようにして描いたのであろうか。実際にこの界隈を歩き、地図で調べたのであろうが、そうだとしても、俯瞰図となっており、平面的な情報に基づき上から眺める図にするには、それなりの感覚や想像力が必要と思ったところ、巻末を見たら、現在・絵本作家、イラストレーターとあったので、納得した次第である。

松本哉の著書は自ら描いた絵や図がたくさんのっていて楽しい。惜しいことに数年前に亡くなられている。

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山形ホテル

2010年08月16日 | 荷風

山形ホテルについては、川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)に詳しい。以下の記事は、これを参考にしたものである。

山形ホテルは、大正6年(1917)ロンドンから帰った山形巌によって建てられた小さな洋風ホテルであった。前回の記事の佐藤春夫の小説のとおりである。

山形巌は、大阪生まれで、子どものころにサーカスの芸人になり、ヨーロッパ興行に行った。軽業師だったという。大正時代ロンドンで暮らしていたが、大正3年(1914)の第一次大戦の勃発によって興行がたちゆかなくなり、大正6年、36歳のとき帰国し、麻布区市兵衛町二丁目四の五に二階建ての洋風ホテルを建てた。

川本の上記著書には、山形巌と従業員の写真と、ホテル外観の写真がのっている。

当時の東京には帝国ホテルと、東京ステーションホテルの他は大きなホテルはまだ少なく、山形ホテルは、小さなホテルでも来日する外国人でにぎわった。

山形ホテル跡(1)の記事に掲げた説明文(写真)のように、山形巌の子息が俳優の山形勲である。大正4年(1915)ロンドン生まれ。四男三女の二男。

山形勲は平成8年(1996)に亡くなっているが、川本三郎は生前に会って話を聞いている。それによると、小学生のころ、ホテルの食堂に来た荷風の姿をよく憶えているとのこと。

「荷風というと晩年の奇人ぶりがよく語られますが、そのころの荷風は、実におしゃれな紳士でしたよ。昼になると食事に来ましたが、夏など、白い麻の服を着て、子ども心にも、おしゃれなんだなと思いました」

荷風の「断腸亭日乗」に山形ホテルがよくでてくることは知られているが、始めてでてくるのは、大正9年11月19日である。

「十一月十九日。快晴。母上来訪。山形ホテル食堂に晩餐を倶にす。深更雨声頻なり。」

荷風は、この年の5月に偏奇館に移っており、この日、偏奇館に母が訪ねてきたので、ホテルの食堂で一緒に夕飯をとった。

客は圧倒的に外国人が多く、帝国ホテルで収容しきれなかった外国人がまわされてきたという。

山形ホテルは、昭和4年(1929)の世界恐慌で外国人客が減り、経営難となり、その後数年で営業をやめたらしい。

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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山形ホテル跡(2)

2010年08月14日 | 荷風

佐藤春夫は「小説永井荷風伝」(岩波文庫)で山形ホテルについて次のように書いている。(小説では山形屋ホテルとなっているが。)

「この山形屋ホテルというのは堂々とホテルを名告るほどのものではなく、聞けば外国人などが気らくに永逗留するような家らしかったが、静かに落ちついた場所がらは執筆などにも適当らしく思われた。」

「山形屋ホテルの食堂はグリルも兼ねていたためか、その外部からの出入口が直ぐにホテルの玄関になっている構えであった。」

佐藤春夫は、当時の住まいが落ち着いて執筆するところでなかったため編輯者から短編執筆のため山形ホテルの一室を与えられた。このとき、ホテルの食堂で荷風を見かけるが、これからこの小説が始まる。

その二、三日後、食堂ボーイに偏奇館への道筋を尋ねたときのボーイとの会話がある。偏奇館と山形ホテルとの間の道筋がよくわかるので、以下、引用する。

「荷風先生のお宅は近くだそうだね」

「はい、ほんの一っぱしり、目と鼻というほどの近さでございます。うちのロビーから先生のお邸が真北にはっきりとよく見えます」

「ではちょっと道筋を教えてくれたまえ」

「うちの裏口からでますと、北へ一直線の道ですがちょっとした坂を上ったり下りたりしますから、やっぱり表通の方がよいでしょうね」

「ここを表通へ出て、しばらくまっすぐに行きますと左側にポストがございます。そこを折れるとだらだら坂の小路ですがずんずん行って突き当ったところです。小路は途中から二叉になって一つは先生のお邸のわきをずっと下へおりて行っちゃいますから、途中の道にはかまわずに、ぐんぐん真直ぐにおいでになれば、木の門柱にくぐり戸のついた大きな木の大扉がございます。門柱にはたしか表札もございましたから、すぐおわかりになりましょうが、念のため、これもお持ちになすって。―ごく質素なお邸でございますよ」

ボーイが話す、ホテルの裏口からでてちょっとした坂を上ったり下りたりする北へ一直線の道、というのに興味を覚える。このような近道があったようで、裏口から御組坂の下側まで下りて、そこから坂を上る道と思われる。

ボーイは、しかし、この道はわかりにくいと思ったのか、表通り(霊南坂から続く道)からの道順を教える。だらだら坂が御組坂のことで、その坂の小路をまっすぐに下った突き当たりが偏奇館であると説明している。小路は途中から二叉になって一つは偏奇館のわきをずっと下へおりて行く坂が、御組坂の下側の坂で、箪笥町の崖下に続く道であろう。

御組坂(3)の記事にも書いたが、この下側の坂は埋め立てられて、もはや見ることはできない。

川本三郎は、「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版) で、昭和16年ころ丹波谷坂の中途に住んでいた奥野信太郎による随筆「市兵衛町界隈」を引用している。以下、その引用部分である。

「(市兵衛町)一丁目六番地に荷風の偏奇館があった。通称"柳の段々"と称する石段を降りて谷町の谷を通り、さらにその対岸にあたる崖の上に出れば、その小さな平地に偏奇館が建っていたのである。山形ホテルというのがちょうどこの柳の段々の上にあって、そのホテルのロビーから眺めると、偏奇館はほとんど真向かいにあたっていた」

その柳の段々という石段が、上記のボーイのいう北へ一直線の道の下り坂なのであろうか。偏奇館あたりの風景(1)の記事にのせた荷風のスケッチを見ると、山形ホテルの裏側に石垣が見えるが、ここにその石段があったのだろうか。興味がつきないが、いずれにしても表通りを回って行くよりも近道であったと想われる。
(続く)

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山形ホテル跡(1)

2010年08月13日 | 荷風

 

上の写真は、今年の1月に六本木一丁目駅近くの「麻布市兵衛町ホームズ」の角に立っている山形ホテル跡の説明パネルを撮ったものである。石板に金属パネルが貼りつけられている。

この説明パネルは、以前の消えた地名・その記憶御組坂(3)の記事で紹介した。


 
この辺りの再開発で新たにできた泉ガーデンの通りを南側に進み、御組坂の坂下を左に見て歩き、突き当たりの右角に立っている。

上記の後者の記事にのせた写真を左に再度掲げる。

この写真は南側から撮ったものである。

上の説明文にあるように、昭和47年(1972)に竣工した麻布パインクレストというマンションが建て替えられて麻布市兵衛町ホームズが完成したが、その記念碑の意味もあるようである。

右の写真は上左の写真の通り寄りを撮ったもので、説明パネルはこの写真から外れた左側にある。

泉ガーデンの車道と歩道が見えるが、この歩道を写真奥側(北側)に歩いていくと、偏奇館跡の記念碑が左側に立っている。

以前の記事のように、永井荷風が大正八年(1919)の秋に始めて麻布市兵衛町の陋屋を訪れたときの様子が「枇杷の花」に描かれているが、山形ホテルについて次のように記述されている。

「山形ホテルの門内に軍服らしいものを着た外国人が大勢立話をしてゐるのを見て、何事かと立止つて様子をきくと、此のホテルはチエコ、スロバキア国義勇軍の士官に貸切りになつてゐるとの事であった。」

荷風はこの後、この近くの偏奇館に住むことになって、山形ホテルは、荷風が食事や接客などでよく使い、このため有名になっている、といっても過言ではない。

偏奇館と山形ホテルとは、偏奇館あたりの風景(1)の記事のように、崖を隔てて向かいあっており、直線距離にすれば、上の説明文のとおり、100m程度である。
(続く)

参考文献
「荷風全集第十七巻」 (岩波書店)

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偏奇館あたりの風景(2)

2010年08月07日 | 荷風

荷風が親友井上啞々子と一緒に、始めて、後に偏奇館と称することになる麻布市兵衛町の売宅を訪れたのは大正八年(1919)の秋であるが(「荷風偏奇館に至るまで(4)」参照)、そのときのあたりの風景が「枇杷の花」に描かれている。

「崖の上から見下ろす箪笥町の窪地には樹木の間にところどころ茅葺屋根が見えた。市兵衛町の表通りには黄昏近い頃なのに車も通らなければ人影も見えず、夕月が道端に聳えた老樹の梢にかゝつているばかりであった。」

麻布市兵衛町に引っ越してきて半年ばかり後の「日乗」に次の記述がある。

大正9年(1920)「十一月廿九日。近巷岨崖の雑草霜に染みたるあり。既に枯れたるあり。竹藪には鳥瓜あまた下りたり。時に午鶏の鳴くを聞く。景物苑然として村園に異ならず。」

崖下の箪笥町には樹木の間に茅葺屋根も見え、表通りの方は静かなところであったらしい。崖には雑草が霜で染みつき、竹藪があり、鶏の鳴き声が聞こえる田園風景であった。

佐藤春夫は「小説永井荷風伝」(岩波文庫)で、山形ホテルから見たこのあたりの風景を次のように描いている。

「山形屋ホテルで与えられた二階の一室に入ったわたしは、まず部屋の一隅に備えつけた机上に原稿用紙と万年筆とを投げ出したまま、立って窓べに行き、眼を窓外に放つと、あそこが麻布谷町というのではあるまいか、脚下にささやかな家並みの黒いトタン屋根が並びつらなる貧しげな町の向うの台地に珊珊(さんさん)とふりそそぐ日射しを浴びて、こんもりと繁った新緑の色はやや黒くなりすぎていた。」

脚下の家々は箪笥町で、日射しを浴びている台地とは谷町から今井町にかけての方であろうか。この日は小説では大正13年(1924)6月10日となっているが、実際は次の年の6月10日と思われる。

秋庭太郎「新考永井荷風」(春陽堂)には偏奇館を望む写真がのっている。その下の註に「58 麻布市兵衛町箪笥町谷町界隈俯瞰、右端高臺に偏奇館所在 昭和十一年撮影」とある。

この写真には右の端ではないが右側に偏奇館と思われる建屋が見える。

本文には、上記の「枇杷の木」の同じ部分を引用してから次の記載がある。

「昭和十一年に堀江乙雄氏が撮影した窪地の人家をへだてゝ偏奇館を遠望した写真(写真58)によれば、市兵衛町箪笥町の近隣一帯喬木繁り、窪地の瓦屋根の長屋には江戸明治の造作を思はしめる古風な引窓のある家屋もかずかず見え、如何にも獨居隠棲に適したところであった。」(264頁)

偏奇館を遠望する写真というのは、わたしはこれしか見たことがない。当時の風景がわかるよい写真である。偏奇館のある高台あたりは樹木でいっぱいである。

参考文献
「荷風全集第十七巻」 (岩波書店)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」 (岩波書店)
「古地図・現代図で歩く 明治大正東京散歩」(人文社) 

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偏奇館あたりの風景(1)

2010年07月31日 | 荷風

永井荷風の「断腸亭日乗」昭和7年(1932)3月3日に次の記述がある。

「三月初三、曇りて風なく暖なり、西鄰の家の紅梅も花さきぬ、余大正九年の夏築地本願寺のほとりより麻布に居を遷して、正に十有三年になりぬ、されば近巷の花の開落も今は見るに及ばずして悉く之を知れり、市兵衛町箪笥町及谷町辺にはささやかなる貸家の庭にも柿桃梅無花果の樹などあり、是維新前組屋敷の名残なるべし、午後虎ノ門より愛宕下を歩む、去月以来の風邪も漸く全癒したるが如し、」

荷風は、麻布(偏奇館)に移り住んでからもう13年になったので近隣の花の開落も見なくともすべてわかるようになったが、それにしてもこの辺りには、小さな貸家の庭にも柿桃梅無花果の樹があるが、これは、明治維新前の組屋敷の名残りであろう、としている。

庭先の柿桃梅無花果などの樹からその歴史的背景を見抜く視点のみならず、江戸時代からの歴史的連続性を感知する荷風独特の感覚に驚かされる。組屋敷とは、御組坂の由来ともなった御先手組の屋敷と思われる(御組坂(1)の記事参照)。

上記のように、偏奇館の近隣の家々の庭には柿桃梅無花果の樹などがたくさん植えられていたが、このような風景は、現在の東京では、なかなか見ることはできない。

次の日、三月四日の「日乗」に偏奇館の窓から見た風景のスケッチがのっている。これは、前月に風邪で臥したとき、退屈の余り、病室の窓からの風景を描いたものらしい。
この風景は偏奇館の南西側にあたるが、これをながめていて飽きない。偏奇館の周囲を想像することのできるよい資料である。

手前下側に、崖下箪笥町人家梅花□□(二字不明)とメモがあり、人家の屋根と花の咲いた梅の木らしきスケッチがある。その上右側に、審美書院とメモされた二階建てがあり、そのわき中央に審美書院写真撮影所とある小さな建物がある。そして、向こうの崖上左側に山形ホテルが描かれている。その崖の石垣や樹木がある。ホテルの右側に空地があり、その奥側に、市兵衛町二丁目道路 此肩ヨリ霞関議事堂見ユ、とあり、自動車と人が小さく描かれている。市兵衛町二丁目道路とは、長垂坂、丹波谷坂方面へ至る道であろう。

このスケッチから偏奇館と山形ホテルとの位置関係がよくわかる。また、手前の崖下には、御組坂の下側部分の道が続いていたと思われる。
(続く)

参考文献永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

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偏奇館跡そばの古びた階段

2010年07月30日 | 荷風

御組坂(2)の記事の再開発前の案内地図(写真)によれば、御組坂を下りたところにあった偏奇館跡(六本木一丁目六番地)から道源寺坂の坂上に至るには、左折、右折、左折、右折をするが、このはじめの右折部の角から北西に延びる道があり、地図上では三叉路になっている。

荷風は偏奇館からここを崖づたいに道源寺坂の坂上にでたと書いている(道源寺坂(1)の記事)。

一方、このあたりの再開発前の住宅地図(1997年版)を図書館で見る機会があったが、それには、上記の右折部の角から西方向に下る階段が示されている。この西方向に下る階段が案内地図(写真)の北西に延びる道であると思われる。

偏奇館跡のあった六本木一丁目六番地のあたりは高台で、その北西側は案内地図(写真)でもわかるように高速下の低地であるから、下りの階段で間違いないと思われる。

ところで、以前の記事で、偏奇館跡そばの古びた階段の写真がのっている松本泰生「東京の階段」(日本文芸社)を紹介したが、この古びた階段が上記の右折部の角から西方向に下る階段と思われる。(その写真は同氏による「Site Y.M.建築・都市徘徊」でも閲覧できる。)

この階段には、途中、踊り場があったようであるが、上記の住宅地図にもそれらしき部分が示されている。

案内地図(写真)によれば、階段を下りてから道なりに進むと、御組坂の下側にでる。

これで、偏奇館跡そばの古びた階段の位置がわかったが、いつ頃できたのかは、依然として、不明である。荷風が偏奇館に住んでいたとき存在していたものかわからない。しかし、この古びた階段も偏奇館跡とともに消滅し、もはや見ることはできない。

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