東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

2・26事件と荷風(2)

2010年11月06日 | 荷風

事件の次の日の「断腸亭日乗」は次のとおりである。

「二月廿七日。曇りて風甚だ寒し。午後市中の光景を見むと門を出づ。東久邇宮門前に憲兵三四名立つ。道源寺阪を下り谷町通りにて車に乗る。溜池より虎の門のあたり弥次馬続々として歩行す。海軍省及裁判所警視庁等皆門を閉ぢ兵卒之を守れり。桜田其他内曲輪へは人を入れず。堀端は見物人堵をなす。銀座尾張町四辻にも兵士立ちたり。朝日新聞社は昨朝九時頃襲撃せられたる由なれど人死は無之。印刷機械を壊されしのみなりと云ふ。銀座通の人出平日より多し。電車自働車通行自由なり。三越にて惣菜を購ひ茶店久辺留に至る。居合す人々のはなしにて岡田斎藤等の虐殺せられし光景の大畧及暴動軍人の動静を知り得たり。〔此間約一行抹消〕歌川竹下織田の三子と三十間堀河岸の牛肉店末広に至り晩餐をなす。杉野教授千香女史おくれて来り会す。談笑大に興を添ふ。八時過外に出るに銀座通の夜店遊歩の人出いよいよ賑なり。顔なじみの街娼一両人に逢ふ。山下橋より内幸町を歩む。勧業銀行仁寿公堂大坂ビル皆鎮撫軍の駐屯所となる。田村町四辻に兵士機関銃を据えたり。甲府より来りし兵士なりと云ふ。議会の周囲を一まはりせしが〔此間約六字抹消、以下行間補〕さして面白き事なく〔以上補〕弥次馬のぞろぞろと歩めるのみ。虎の門あたりの商店平日は夜十時前に戸を閉すに今宵は人出賑なるため皆燈火を点じたれば金毘羅の縁日の如し。同行の諸氏とわかれ歩みて霊南阪を上るに米国大使館外に数名の兵あり。人を誰何す。富豪三上の門内に兵士また数名休息するを見たり。無事家に帰れば十一時なり。此日新聞には暴動の記事なし。」

市中の光景を見たためこの日の「日乗」は記載量が増えている。巷の観察者荷風の本領発揮のときである。

曇りで風が強く寒かったが、午後、家を出た。道源寺坂を下って谷町通りから車に乗ったが、溜池、虎の門のあたりは弥次馬がたくさんいた。堀端では賭けまでやる見物人もいた。銀座通の人出は平日よりも多く、電車も車も通行が自由である。茶店久辺留から歌川竹下織田の三子と三十間堀河岸の牛肉店末広に行き夕食をとった。杉野教授と千香女史がおくれてきたが、話が盛り上がった。八時過外に出ると、銀座通の夜店、人出がいっそう賑やかであった。

この日、三時五十分東京全市に戒厳令が公布され、戒厳司令部が九段の軍人会館に置かれたが、戒厳令下の時とは思えない様子が描かれている。このとき、陸軍上層部は方針が定まらず、右往左往していたから当然といえば当然であった。

前日(事件当日)の午後に陸軍大臣告示が出たが、それは決起将校に目的達成の期待感を抱かせるものであった。この日は、午後に決起部隊に宿営命令が出されたので、将校も兵士も安心しきっていた。そして、決起部隊は戒厳令公布と同時に戒厳部隊に組み入れられ、第一師団隷下に属して南部麹町地区の警備に任じていたという。

一方、天皇は、決起将校を弁護する本庄繁侍従武官長に決起部隊の鎮定を督促し、本庄があまりにも言い訳をするのにたまりかねて、自分が近衛師団を率いて鎮定に当たるとまで言い切ったらしい。

荷風らは、そんな上層部の動きを知らず、銀座から山下橋を通って内幸町、勧業銀行などを過ぎて田村町四辻に至り、そこで機関銃を据えた兵士と話をしたらしく、甲府からきた兵士であった。さらに、議会の周囲を一回りしたが面白いことはなく、弥次馬だけがぞろぞろと歩いていた。虎の門あたりの商店は平日は夜十時前に閉じるのに人出が多いためまだ開いて灯りを点じているので金毘羅の縁日のようだった。同行の諸氏とわかれて霊南坂を上って帰宅した。途中米国大使館の外で兵に誰何された。

上記のように、事件翌日は、多くの野次馬が自由に霞ヶ関や虎の門あたりに繰り出しており、まだのんびりした感じであったようである。

(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2・26事件と荷風(1) | トップ | 2・26事件と荷風(3) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

荷風」カテゴリの最新記事