永井荷風の「断腸亭日乗」昭和7年(1932)3月3日に次の記述がある。
「三月初三、曇りて風なく暖なり、西鄰の家の紅梅も花さきぬ、余大正九年の夏築地本願寺のほとりより麻布に居を遷して、正に十有三年になりぬ、されば近巷の花の開落も今は見るに及ばずして悉く之を知れり、市兵衛町箪笥町及谷町辺にはささやかなる貸家の庭にも柿桃梅無花果の樹などあり、是維新前組屋敷の名残なるべし、午後虎ノ門より愛宕下を歩む、去月以来の風邪も漸く全癒したるが如し、」
荷風は、麻布(偏奇館)に移り住んでからもう13年になったので近隣の花の開落も見なくともすべてわかるようになったが、それにしてもこの辺りには、小さな貸家の庭にも柿桃梅無花果の樹があるが、これは、明治維新前の組屋敷の名残りであろう、としている。
庭先の柿桃梅無花果などの樹からその歴史的背景を見抜く視点のみならず、江戸時代からの歴史的連続性を感知する荷風独特の感覚に驚かされる。組屋敷とは、御組坂の由来ともなった御先手組の屋敷と思われる(御組坂(1)の記事参照)。
上記のように、偏奇館の近隣の家々の庭には柿桃梅無花果の樹などがたくさん植えられていたが、このような風景は、現在の東京では、なかなか見ることはできない。
次の日、三月四日の「日乗」に偏奇館の窓から見た風景のスケッチがのっている。これは、前月に風邪で臥したとき、退屈の余り、病室の窓からの風景を描いたものらしい。
この風景は偏奇館の南西側にあたるが、これをながめていて飽きない。偏奇館の周囲を想像することのできるよい資料である。
手前下側に、崖下箪笥町人家梅花□□(二字不明)とメモがあり、人家の屋根と花の咲いた梅の木らしきスケッチがある。その上右側に、審美書院とメモされた二階建てがあり、そのわき中央に審美書院写真撮影所とある小さな建物がある。そして、向こうの崖上左側に山形ホテルが描かれている。その崖の石垣や樹木がある。ホテルの右側に空地があり、その奥側に、市兵衛町二丁目道路 此肩ヨリ霞関議事堂見ユ、とあり、自動車と人が小さく描かれている。市兵衛町二丁目道路とは、長垂坂、丹波谷坂方面へ至る道であろう。
このスケッチから偏奇館と山形ホテルとの位置関係がよくわかる。また、手前の崖下には、御組坂の下側部分の道が続いていたと思われる。
(続く)
参考文献永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)