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東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風と歌

2014年06月12日 | 荷風

荷風と歌といっても、永井荷風が和歌を詠んだり音楽の曲を歌うことではなく、荷風の愛人であった関根歌のことである。荷風は、その生涯にわたって、たくさんの女性とつき合ったことは、その日記「断腸亭日乗」などから有名であるが、もっとも長続きしたのはこの歌である。これもよく知られている。

永井荷風と関根歌 「断腸亭日乗」に「歌」という名で歌がはじめて登場するのは昭和2年(1927)9月4日である。

「九月初四 病床に在り、晩間麹街の妓阿歌病を問ひ来る、」

荷風は、その三日前の日乗に「夜半遽に悪寒を感ず、体温三十八度に昇る」(9月1日)とあるように、風邪をひき熱をだしたが、そのお見舞いに歌がやってきた。その前日(8月31日)に次の記述がある。

「八月卅一 快晴、秋涼襲ふが如し、日暮松莚子に招がれ大伍清潭の二氏と共に南鍋町風月堂に会飲す、帰途窃[ひそか]に麹坊の妓家を訪ふ、是日午後春陽堂店員全集印税残金七千余円持参、」

この南鍋町(銀座、数寄屋橋近く)の風月堂からの帰りに寄った妓家の荷風のお目当ては、秋庭太郎によれば、麹町三番町九番地川岸家抱寿々龍であったが、この寿々龍の本名が関根歌であった。ひそかに訪れたというのがいかにも秘密めいている。これ以前に見知りであったようであるので、日乗を遡ると、同年8月9日に次のような記述がある。

「八月九日 晴れて暑し、秋海棠の花秋に入りてより俄に色増しぬ、紅蜀葵は根に蟻多くつきて花もなくて枯れんとす、百合の花全く散り尽しぬ、終日蔵書を曝す、晩間麹坊の妓家を訪ひ夜ふけて帰る、十日頃の月佳く風涼し、」

暑い日中に曝書に専念し、夜になってから麹町の妓家を訪れたが、歌が目当てであったのであろう。この日のような夏の曝書(本の虫干し)と、秋の落ち葉掃きが荷風の楽しみであった。この二日後、上野から汽車に乗って軽井沢に向かっている。荷風が東京を離れるのは珍しいことだが、軽井沢ほてるで松莚子などと一緒になっている。

もとにもどって、9月4日の歌の来訪(見舞い)に荷風は喜んだらしく、次の日、さっそく行動に移している。

「九月初五 秋の日しづかに曇りて風なし、正午邦枝日高の二氏来訪、夜麹坊の妓家に夕餉をなす、」

風邪が治ったのか、早速歌に会いに行っている。かなり現金なような感じがするが、夢中になると我を忘れてしまう(もっとも荷風だけに限ったことではないだろうが)。

「九月十日 快晴、東南の風烈しく溽暑甚し、此夜中秋なり、空晴渡りて深夜に至るも一点の雲なく、月色清奇、近年になき良夜なり、麹坊の妓阿歌を携へ神楽坂を歩む、夜涼の人織るが如し、」

その五日後、歌と神楽坂を歩いている。ふだんならなんと云うこともない天候でも、こういったときであると、近年にない良い夜となる。雲がまったくなく月の光が清らかな夜。

「九月十二日 快晴、秋暑益甚し、去年の春書捨てたりし短篇小説捨児といふものを改竄す、?他下邦枝氏来訪、風月堂にて晩餐を倶にす、驟雨を太牙楼に避く、帰途窃に阿歌を見る、阿歌妓籍を脱し麹町三番町一口坂上横町に間借をなす、」

歌は、芸者をやめ、三番町の一口坂上の横町に間借りをした。荷風が身請けすることを決めたのであろう。

「九月十四日 朝来大雨午後に歇む、改造社々長山本氏邦枝君と共に来る、同社全集一円本の中余の拙集出来したるを以てなり、夜お歌と四谷通の夜肆[店]を看る、」

「九月十七日 聲[陰]晴定まらず、本郷菊坂の古書肆[店]井上より樺山石梁の詩文集を郵送し来る、夜お歌と神田を歩み遂にその家に宿す、お歌年二十一になれるといふ、容貌十人並とは言ひがたし、十五六の時身を沈めたりとの事なれど如何なる故にや世の悪風にはさして染まざる所あり、新聞雑誌などはあまり読まず、活動写真も好まず、針仕事拭掃除に精を出し終日襷をはづす事なし、昔より下町の女によく見らるゝ世帯持の上手なる女なるが如し、余既に老いたれば今は囲者置くべき必要もさして無かりしかど、当人頻に藝者をやめたき旨懇願する故、前借の金もわづか五百円に満たざる程なるを幸ひ返済してやりしなり、カツフヱーの女給仕人と藝者とを比較するに藝者の方まだしも其心掛まじめなるものあり、如何なる理由にや同じ泥水家業なれど、両者の差別は之を譬ふれば新派の壮士役者と歌舞伎役者との如きものなるべし、」

自分はすでに老いたので妾を囲う必要もそんなにないが、当人がしきりに芸者をやめたいと願うので、借金もわずか五百円に足らない程度であるのを幸いに返済してやったのである、などと記しているが、荷風一流の照れ隠しである。

歌は21才といい、容貌十人並とはいいにくく、15,6の時に身を沈めたとのことだが、どうしたわけか世の悪風にはそんなに染まらず、新聞雑誌などはあまり読まず、活動写真も好まず、針仕事や拭き掃除に精を出し一日中たすきを外すことがなく、昔より下町の女によく見られる世帯持の上手なる女のようだ、などとほめているが、要するに、荷風は歌を気に入ったのである。

「十月十三日 市ヶ谷見附内一口坂に間借をなしゐたるお歌、昨日西ノ久保八幡町壺屋といふ菓子屋の裏に引移りし筈なれば、早朝に赴きて訪ふ、間取建具すべて古めきたるさま新築の貸家よりもおちつきありてよし、癸亥[きがい]の震災に火事は壺屋より四五軒先仙石家屋敷の崖下にてとまりたるなり、されば壺屋裏の貸家には今日となりては昔めきたる下町風の小家の名残ともいふべきものなり、震災前までは築地浜町辺には数寄屋好みの隠宅風の裏屋どころどころに残りゐたりしが今は既になし、偶然かくの如き小家を借り得てこゝに廿歳を越したるばかりの女を囲ふ、是また老後の逸興と云ふべし、午後平井辯護士来談、」

関根歌 とんとん拍子に話が進んで、ついに、お歌は、一口坂から西久保八幡町の菓子屋壺屋裏に引っ越しをした。ここは、仙石山のほとりで、偏奇館の近くであった。壺中庵(こちゅうあん)と名付けたが、以降、断腸亭日乗には毎日のように登場する。このとき、荷風49才、歌21才。

歌は、明治四十年(1907)二月十一日東京小石川表町十一番地に生まれた。歌女の芸妓時代に父は上野桜木町に住み、煙草店を営むかたわら事務員をしていたが人品よく、母も意気な人柄であったという(秋庭太郎)。

ちょうどこの頃、荷風は、別の女性と別れ話でもめていた。

「十月八日 雨。春陽堂黄物持参す。正午女給お久また来りて是非とも金五百円入用なりと居ずはりて去らず。折から此日も邦枝君来合せたれば代りてさまざま言ひ聴かせしかど暴言を吐きふてくされたる様子、宛然切られお富の如し。已むことを得ざる故警察署へ願出づ可しといふに及び漸く気勢挫けて立去りたり。今まで心づかざりしかど実に恐るべき毒婦なり。世人カツフヱーの女給を恐るゝ者多きは誠に宜なりと謂ふ可し。余今日まで自家の閲歴に徴して何程の事あらむと侮りゐたりしが、世評の当れるを知り慚愧に堪えず。凡て自家の経験を誇りて之を恃むは誤りのもとなり。慎む可し慎む可し。」

女給のお久が正午にやってきて五百円をくれといってなかなか帰らない。ちょうど来ていた邦枝君も言い聞かせたが暴言を吐きふてくされた様子で、ちょうど切られお富のようである。やむをえず警察に届けると云ったらようやく気勢がそがれたようで帰った。実におそるべき毒婦である(言い過ぎのような気もするが、それだけ凄みがあって怖かったのだろう)。それでも、後悔したようで、カツフヱーの女給を相手にした経験があるといって、そればかりに頼るのは誤りの元である、つつしむべし、つつしむべし、といっている。

しかし、お久との揉め事は、これで終わったわけではなく、さらに続く。その三日後(10月11日)の日乗に次の記述がある。

「十月十一日 曇る、午前今川小路山本書店に赴き市島春城氏蔵書売立品の中購求したき古書入札の事を依頼す、それより三才社に立寄り新着洋書二三部を購ひ近近鄰の風月堂にて昼餉を食し家に帰る、驟雨沛然たり、黄昏強震、雲散じて月出づ、初更中央公論の草稿をつくり畢りしかば勝手に至り茶をわかさむとするに、表入口の方に人の足音聞ゆ、おそるおそる窺見るに女給お久なり、主人旅行中と荅ふべき旨老媼に言含め、裏口より外に出で山形ホテルの電話を借り日高君の来援を求む、路傍にて日高君と熟議の上市兵衛町曲角派出所に訴へ出づ、巡査来り遂に女給を鳥居坂警察署に引致し去りぬ、派出所の電話を借り余も出頭すべきや否や問ひ合せし処今夜はそれに及ばずとの返事を得、日高君も安心して帰宅せり、門扉に堅く錠を卸して寝に就きしは正に十二時半頃なり、」

この日、午後七~八時頃、原稿を書き終えてお茶をわかそうとしたとき、表玄関の方から足音が聞こえたので、おそるおそるのぞいて見ると、お久である。女中に旅行中と答えるように言い含め、裏口から山形ホテルに行き、日高に応援を頼んだ。相談の結果、市兵衛町曲角の派出所に訴えた。巡査が来てお久を連れて行った。

日高浩は、十数年もの間、荷風に師事し、一頃は荷風の秘書の如き時代があったといわれた。この頃もそんな時であったかもしれないが、麻布笄町にいて、お久が押し掛けてくると、荷風は、すぐに応援を頼んでいるので、頼りにしていたのであろう。

「十月十二日 午前七時巡査門を叩き警察署に同行せられたしと云ふ、自働車を倩ひ鳥居坂分署に赴く、刑事部屋にて宿直の刑事一通りの訊問あり、お久は昨夜より留置場に投け込みある故午後四時頃再び出頭すべしと云ふ、帰宅して後電話にて日高氏に顛末を報ず、日高氏来る、相談の上余が知れる辯護士平井と云ふ人を招ぎ三人打連れ時刻をはかり再び警察署に抵る、待つ事一時間ばかり呼出しあり、一室に於て制服きたる警官まづ余を説諭して曰く、こんなくだらぬ事で警察へ厄介を掛けるのは馬鹿の骨頂なり、淫売を買はうが女郎を買はうがそれはお前の随意なり、その後始末を警察署へ持ち出す奴があるかと、次に檻房より女を呼出しお前も年は二十七とか八とかになれば男の言ふ事を間に受けることはあるまい、だまされたのはお前が馬鹿なのだ、金ばかりほしがつたとて事は解決せぬ、今日は放免するから帰れと言ふ、警官の物言ふさま恰も腐つた大福餅を一口噛んでは嘔き出すと云ふやうな調子なり、永坂上にてお久を平井辯護士に引渡し、余は日高君と山形ほてる食堂にて夕餉をなす、葡萄酒を飲み此のたびの事件甚面白ければその顛末を書きつゞりたきものなりと語り興じて、初更家に帰る、細雨霏霏たり、」

次の日、日高、平井弁護士と一緒に三人で鳥居坂分署に行くと、制服の警官がこんなくだらない事で警察に厄介をかけるのは大馬鹿である、女の後始末を警察に持ち込むな、などと説教された。続いて、お久を連れて来て曰く。だまされたのはお前が馬鹿なのだ、云々。警官の物言いは、腐った大福餅を一口噛んではき出すような具合であった。永坂上でお久を平井弁護士に引き渡し、日高と二人で山形ホテルで夕食をとった。ワインを飲みながら今回の事件ははなはだ面白いからその顛末を書き綴りたいと語り合った。

以上がお久との揉め事の顛末である。荷風は、今回の事件ははなはだ面白いからその顛末を書き綴りたいなどと強がったことを記しているが、内心は忸怩たるものがあったに違いない。警官の説教を一々事細かに記していることからもそう思ってしまう。しかし、自分のことも相手のことも等しく記していることを考えれば、起きたことを客観的に見て、事実は事実としてありのままに書いている。

お久との事件があった日(10月12日)の次の日、上記のように日乗によれば、歌が西久保八幡町の壺屋裏に越してきている。歌との仲が進展する一方で、同時進行的にお久と別れ話で揉めていたわけであるが、後世から野次馬的にみれば、順調な恋物語よりも揉めた別れ話の方がはるかに面白い。二つがほぼ同時に進行しているため、いっそうそう感じられるのであろうか。

「十月二十日 快晴、樺山石梁の常毛紀行を読む、佐藤一斎の紀に比して及ばざるものあり、午後平井辯護土毒婦お久の事件落着せし旨を報ず、壷中庵に宿す、」

この日、平井弁護士から連絡があり、お久の事件が落着したが、まだ毒婦と云っている。秋庭太郎が日高から聞いたところによれば、荷風は、軽少な金をお久に与えて絶縁したという。

「十月廿一日 晴れて暖なり、午後家に帰る、山本書店市島春城翁旧蔵の書数部を送り来る、沢田東江の来禽堂詩草梁田蛻巌の詩集前編等なり、此口去年大島隆一氏より借り来りし成嶋柳北手沢の文書を使の者に持たせて返付す、?他時葵山翁来る、倶に山形ほてるに赴き晩餐をなす、虎の門にて葵山翁と別れ窃に壷中庵に抵りまた宿す、是夜壷中庵の記を作り得たり、左の如し。
   壺中庵記
西窪八幡宮の鳥居前、仙石山のふもとに、壺屋とよびて菓子ひさぐ老舗が土蔵に沿ひし路地のつき当り、無花果の一木門口に枝さしのべたる小家を借受け、年の頃廿一二の女一人囲ひ置きたるを、その主人自ら?患して壷中庵とはよびなしけり、朝夕のわかちなく、此年月、主人が身を攻むる詩書のもとめの、さりとては煩しきに堪兼てや、親しき友にも、主人は此の菴[いおり]のある処を深くひめかくして、独り我善坊ヶ谷の細道づたひ、仙石山の石径をたどりて、この菴に忍び来れば、茶の間の壁には鼠樫の三味線あり、二階の窗[窓]には桐の机に嗜読の書あり、夜の雨に帰りそびれては、一つ寐の長枕に巫山の夢をむすび、日は物干の三竿に上りても、雨戸一枚、屏風六曲のかげには、不断の宵闇ありて、尽きせぬ戯れのやりつゞけも、誰憚らぬ此のかくれ家こそ、実に世上の人の窺ひ知らざる壷中の天地なれど、独り喜悦の笑みをもらす主人は、抑も何人ぞや、昭和の卯のとしも秋の末つ方、こゝに自らこの記をつくる荷風散人なりけらし、
   長らへてわれもこの世を冬の蝿」

次の日、お久問題からの開放感もあってか、壺中庵記などというおのろけをつくっている。ここは親しい友にも秘密にし、一人で我善坊ヶ谷の細道伝いに仙石山の石径をたどって、この庵に忍んでくれば、・・・

東京徘徊の達人、種村季弘は、愛宕山「路地奥」再訪の記で、この壺中庵記を引用して、「ちぇっ、いい加減にしやがれ、といいたいところだが、・・・」などと記している。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
「新潮日本文学アルバム 永井荷風」(新潮社)
種村季弘「江戸東京≪奇想≫徘徊記」(朝日新聞社)

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道源寺坂・偏奇館跡(2014)

2014年01月30日 | 荷風

年が明けてから六本木一丁目の道源寺坂・偏奇館跡から小石川旧金富町の荷風生家跡まで歩いた。これまで荷風生家跡から偏奇館跡まで二回歩いたが、今回はこれまでと逆方向に歩き、余丁町の断腸亭跡を経由せず、別のゆかりの地を巡った。

道源寺坂下 道源寺坂下 道源寺坂下 道源寺坂下 午後南北線六本木一丁目駅下車。

3番出口から出て右折すると道源寺坂の坂下である(現代地図)。

ここは何回も来ているのですっかりおなじみの所であるが、三四年前からはじまった坂の崖側(西)のビル工事が終わったようで、坂下から見て右側(西)が少々変わっている。工事中の無粋な白いパネルよりはましであるが、右側はなんの変哲もない坂道。

一~四枚目の写真は坂下を撮ったもので、工事完了後の坂の様子がわかる。坂の両側が右側のようになってしまうと、どこにでもある特徴のない坂道になってしまうが、左側に西光寺、道源寺があるため、かろうじてむかしの名残をとどめている。

この坂は、西側のビル工事が終わったので、しばらくこのままの状態が続くと思われる。

この坂は、何回か本ブログで記事にしているが、最近の記事は一年前である。

道源寺坂上側 道源寺坂上 偏奇館跡 偏奇館跡に佇む荷風 道源寺門前の上側から坂下の谷の上を通る首都高速道路がよく見える。一枚目の写真のように、ちょっと古びた山門と超近代的高層ビルとの対比がおもしろい。

坂上まで上ってから振り返って撮ったのが二枚目である。坂・本堂の前に高層ビルがそびえ立っているが、坂も寺も決して負けていない。そのように見えてしまう。

坂上から進み、右折し、歩道をちょっと歩くと、荷風の住んだ偏奇館跡である。三枚目は振り返ってから偏奇館跡の記念碑(写真)を入れて撮ったものである。植え込みなどのため、この裏側は崖下であることがわからなくなっているが、かなりの絶壁であった。

戦後、荷風が昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で焼失した偏奇館の焼け跡を訪ねたときの写真が角川写真文庫「永井荷風」(角川書店 昭和31年2月15日発行)に三枚載っているが、四枚目は、そのうちの一枚である。これからわかるように、偏奇館は崖上にあり、崖下に人家が見え、かなりの高低差があった(松本哉による俯瞰図)。遠くにも建物が見えるが、今井谷の方角であろう。現在とはまったく違った風景が広がっている。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 今井谷六本木赤坂図(文久元年(1861)) 一枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))のこの付近の部分図である。中央やや下側にドウケンジ(道源寺)があり、その近く(左)に大井やヲキという屋敷があるが、このあたりに後に偏奇館が建てられた。そのわきの道が御組坂である。右側に赤坂の南部坂が見えるので、上が西である。その西側に寺がたくさん並んでいるが、この前の道が長垂坂である。

二枚目は、尾張屋板江戸切絵図 今井谷六本木赤坂図(文久元年(1861))の部分図で、道源寺(通源寺と誤っている)と西光寺が見えるので、その前が道源寺坂である。南部坂、長垂(なだれ)坂がある。この地図では、小貝という屋敷のあたりが後の偏奇館である。

ところで、荷風が写っている偏奇館跡の写真であるが、いつ撮ったものかと、「断腸亭日乗」を調べたら、昭和24年10月11日に次の記述がある。

「十月十一日。晴。雲翳なし。午後ふと思立ちて新橋に至り地下鉄にて虎ノ門に出で霊南阪を上り旧宅のあたりを歩む。霊南坂上米国大使官[ママ]裏門前に米国憲兵派出処、向合に日本巡査の小屋あり。市兵衛町大通両側の屋敷の重なるものは米国将校の住宅となれり。我旧宅へと曲る角の屋敷(元田中氏)の門にはコロネル何某五百何番地とかゝれたり。旧宅の跡には日本家屋普請中にて大工二三人の姿も見えたり。門前の田嶋氏は仮普普[ママ]請平家建の家に住めり。折好く細君格子戸外に立ち居たれば挨拶して崖上の小道を辿り道源寺坂の方に徃く。長唄師匠山田舜平の焼けざる家の門には依然としてむかしの門札出でたり。坂を下るに角の西光寺は既に建て直りて在り。崖下箪笥町の横町には人家なく焼跡は皆菜園となり葱の葉青く崖は深く雑草に蔽はれたれば戦災直後来り見し時よりも却て凄惨の気味を減じたり。霊南坂上より此の辺一帯通行人殆無くその閑寂なること大正九年余の初て築地より移居せし時の如し。東久邇の宮邸内の家屋は焼失したれど門前路傍の老桜は枯れずに残りたり。箪笥町横町より電車通に出るに両側にはバラックの商店連りて溜池通に至る光景旧観を思起さしむ。突然一商店の中より余を呼ぶものあり。見れば以前常に物買ひたる薬屋の主人なり。赤坂電話局のとなりの盆栽屋西花園は花屋となり菊の切花多く並べたり。溜池四角にて新橋行電車に乗る。米国歩兵の一隊軍旗を先にして進み来るに逢ひ電車運転を中止すること二三十分の長きに及ぶ。歩みて新橋に至れば日は没して暮靄蒼然たり。銀座通には燈火既にきらめき行人雑踏す。偶然旧知己萬本氏に会ふ。ひとり不二屋に一茶して出れば既に七時なり。有楽町より省線電車にて家にかへる。」

荷風は、この日、ふと思い立って、地下鉄で新橋から虎の門まで来て、霊南坂を上って偏奇館跡まで歩いた。二十数年も住んだ旧宅の付近を歩き、眼にとまったものやその時の出来事をかなり詳しく書き連ねている。感慨深いものがあったに違いない。このとき、荷風、71歳。市川に住んでいた。上記の写真がこの日のものか、日乗からははっきりわからないが、そうと考えて、これを見ながらこの日の日乗を読むと、その感じがよく伝わってくる。

偏奇館跡付近 偏奇館跡付近 偏奇館跡付近 偏奇館跡付近 偏奇館跡の記念碑から南へちょっと歩くと、左に御組坂の坂下が見えるが、そのあたりに右折する車道があり、そこをもどるようにして下ると、かつての崖にちょっとした街ができている。

一枚目の写真は、はじめに下った所から斜めに崖下側(西)を撮ったもので、エスカレータで地下鉄の駅まで行くことができる。このあたりはたぶん偏奇館跡付近の裏側の崖と思われる。

二枚目は、その一段下のところから右側(北)を撮ったもので、かつて(昭和)の風景を想起させる建物が見える。

三枚目は、さらに一段下から右側(北)を撮ったもので、この突き当たりの方へ歩くと、エスカレータがあるが、そのあたりから上に続く階段がある。ここを上ると、地上に出るが、ふり返って撮ったのが四枚目である。上ってきた階段が見える。

偏奇館跡付近 偏奇館跡付近 偏奇館跡付近 偏奇館跡付近 階段から外に出ると、そこには昭和にタイムスリップしたような風景が眼の前に広がっている。一枚目の写真のように、階段下の風景とはまったく違っている。まさに奇跡の一角である。

そこから北側を撮ったのが二枚目で、一枚目と同様に新旧対比の構図とならざるをえないが、それでもどこかなつかしさを感じる光景となっている。新年からよいものを見た感じである。

突き当たりが先ほどの道源寺坂の坂上であるが、そちらの方へ進んでから、ふり返って撮ったのが、三枚目で、先ほどの奇跡の風景がみえる。この道は、かつて小径であったが、ここを上記のように荷風が歩いている。

四枚目は、そのあたりから見上げて撮ったものだが、高層ビルの間から青空が見える。ここから荷風の生家跡を目指して出発。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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笠森お仙の碑(大円寺)

2012年07月21日 | 荷風

三崎坂から大円寺 大円寺門前 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 前回の三崎坂を上り中腹の信号の所を左折すると、一、二枚目の写真のように大円寺の門前が見える。ここに永井荷風による笠森お仙の碑があるということで寄り道をした。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図に、坂下の藍染川のわきに大圓寺(大円寺)が見えるが、境内にカサモリイナリ(笠森稲荷)がある。

荷風の日記「断腸亭日乗」大正8年(1919)4月24日に次の記述がある。

「四月廿四日。某新聞の記者某なる者、先日来屢[しばしば]来りて、笠森阿仙建碑の事を説き、碑文を草せよといふ。本年六月は浮世絵師鈴木春信百五十年忌に当るを以て、谷中の某寺に碑を立て法会を行ひたしとの事なれど、徒に世の耳目をひくが如き事は余の好まざる所なれば、碑文の撰は辞して応ぜず。」

荷風は、鈴木春信の百五十年忌にあたって、新聞記者から笹森お仙の碑文を書くように頼まれたが、このときには、これを辞している。続いて、6月7日に次のようにある。

「六月七日。笹川臨風氏に招かれ大川端の錦水に飲む。浮世絵商両三人も招がれて来れり。鈴木春信百五十年忌法会執行についての相談なり。」

上記の臨風笹川種郎からも頼まれたらしく、6月10日には次の記述がある。

「六月十日。一昨日錦水にて臨風子にすゝめられ余儀なく笠森お仙碑文起草の事を約したれば、左の如き拙文を草して郵送す。
     笠森阿仙碑文
 女ならでは夜の明けぬ日の本の名物、五大洲に知れ渡るもの錦絵と吉原なり。
 笠森の茶屋かぎやの阿仙春信の錦絵に面影をとゞめて百五十有余年、矯名今に
 高し。本年都門の粋人春信が忌日を選びて阿仙の碑を建つ。時恰大正己未の年
 夏滅法鰹のうめい頃荷風小史識。」

以上のようにして、笠森お仙碑文ができたが、上記の日乗の記述からみる限り、荷風にとってあまり気乗りのしない起草であったようである。碑文の最後の「時あたかも大正己末(つちのとひつじ)の年夏滅法鰹のうめい頃」の「めっぽうかつおのうめいころ」というのがおかしく、ちょっと投げやりな感じにもとれる。

笠森お仙の碑 笠森お仙の碑 説明板 笠森お仙については、次のようなことが知られている。

・笠森 お仙(かさもり おせん、1751年(宝暦元年) - 1827年2月24日(文政10年1月29日))は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和年間(1764年-1772年)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、また二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたや およし)も含めて江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた。

・1763年(宝暦13年)ごろから、家業の水茶屋の茶汲み女として働く。当時から評判はよかったという。

・1768年(明和5年)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となり一世を風靡した。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。

・1770年(明和7年)2月ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消した。お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけだったため、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。お仙が消えた理由についてさまざまな憶測が流れたが、実際は、幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁ぎ、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという。享年77。

・現在、お仙を葬った墓は東京都中野区上高田の正見寺にある。

(以上、wikipediaから引用)

一枚目の写真は、大円寺境内にある笠森お仙の碑で、碑文は、上記のように荷風の撰による。二枚目は、その上側部分で、「笠森阿仙乃碑」という文言が読みとれる。三枚目はその説明文である。

秋庭太郎によれば、この碑文に関しては、後日談があるようで、荷風は、昭和12,3年ごろ菅原明朗とこの碑を見たとき、「うっかり碑文なんか書くもんじゃない」と菅原に述懐したという。

日乗を見ると、たとえば、昭和13年5月24日に菅原等と車で人を送って谷中に行き、墓地を歩み上田柳村(敏)の墓を拝したとあるが、このときなどであったかもしれない。

秋庭は、阿仙の茶屋は天王寺中の笠森稲荷に在ったので、春信や阿仙の碑はむしろここに建碑すべきであったとし、荷風は建碑後に、阿仙茶屋所在のゆえよしを知って、菅原にそう述懐したのか、あるいは撰文を拙なりとしたのか、そのいずれかであったろう、としている。(尾張屋板の大円寺にカサモリイナリとあるが、お仙のいた茶屋は天王寺中門際にあった。)

ところで、上記のように、明和七年(1770)2月ごろ、お仙がとつぜん鍵屋から姿を消し、代わりに老齢の父親が出ていたので、「とんだ茶釜が薬罐に化けた」という言葉が流行した。茶釜は美人を意味し、薬罐は禿頭の老爺である。これに関連し、横関は、都内の数カ所にあるお化けの出るような薄気味悪い所であった薬罐坂(小日向の薬罐坂目白台の薬罐坂杉並の薬罐坂など)の由来につき、本来、狐の異名説のある「野干(やかん)」であるべきところ、当時の流行語であった薬罐(やかん)を使って、薬罐坂と書いたのではないか、と推測している。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)」(岩波現代文庫)

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神楽坂~雑司ヶ谷霊園(4)

2012年05月06日 | 荷風

雑司が谷一丁目 雑司が谷一丁目 雑司が谷一丁目 雑司ヶ谷霊園出入口 前回の薬罐坂(目白台)下で不忍通りを北へ横断し、歩道を西へ歩き、次を右折する。雑司が谷一丁目の住宅街を北へ縦断するように進むが、一~三枚目の写真はその途中で撮ったものである。細い道が続き、緩やかな上りとなっている。

しばらく歩くと、四枚目のように四差路に出るが、ここから先が雑司ヶ谷霊園である。そのまま直進すると、四差路があるが、ここを進むと、すぐ右が夏目漱石の墓の裏である。

下一枚目の尾張屋板江戸切絵図の雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857))の部分図のように、護国寺と鬼子母神との間、青龍寺(清立院)の北のあたりが雑司ヶ谷霊園であろう。

雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857)) 永井荷風の墓 永井荷風の墓 永井家墓所裏側 上記の四差路を左折し、西へ、北へとしばらく歩くと、右側に永井荷風の墓がある。詳しい場所は以前の記事のとおり。

二、三枚目は荷風の墓で、その左が荷風の父久一郎(禾原)の墓である。既にお参りに来た人がいたようで、百合の花や煙草が供えられていた。四枚目は永井家墓所の裏側を撮ったもので、生垣の中に荷風の墓がある。

上記の記事で、荷風は父久一郎の祥月命日である一月二日によくここに墓参りに来ていることを書いた。一日や三日に来たときもあったようである。大正14年(1925)1月1日の「断腸亭日乗」に次のように記している。

「正月元日。快晴の空午後にいたりて曇る。風なく暖なり。年賀の客は一人も来らず。午下雑司谷墓参。帰途関口音羽を歩む。音羽の町西側取りひろげらる。家に帰るに不在中電話にて久米秀治氏急病。今朝九時死去せし由通知あり。老少不常とはいひながら事の以外なるに愕然たるのみ。」

この日、墓参りに来て、その帰りに関口や音羽を歩き、音羽の町の西側が取り広げられていたとある。帝劇秘書久米秀治が急死したことに驚いている。

翌年、大正15年(1926)1月1日の「断腸亭日乗」は次のように長い。

「正月元日。曾て大久保なる断腸亭に病みし年の秋、ふと思ひつきて、一時打棄てたりし日記に再び筆とりつゞけしが、今年にて早くも十載とはなりぬ。そもそも予の始めて日記をつけ出せしは、明治二十九年の秋にして、恰も小説をつくりならひし頃なりき。それより以後西洋遊学中も筆を擱(お)かず。帰国の後半歳ばかりは仏蘭西語のなつかしきがまゝ、文法の誤りも顧ず、蟹行の文にてこまごまと誌したりしが、翌年の春頃より怠りがちになりて、遂に中絶したり。今之を合算すれば二十余年間の日乗なりしを、大正七年の冬大久保売邸の際邪魔なればとて、悉く落葉と共に焚きすてたり。今日に至りては聊惜しき心地もせらるゝなり。昼餔の後、霊南阪下より自働車を買ひ雑司が谷墓地に徃きて先考の墓を拝す。墓前の蠟梅今年は去年に較べて多く花をつけたり。帰路歩みて池袋の駅に抵る。沿道商廛(店)旅館酒肆櫛比するさま市内の町に異らず。王子電車の線路延長して鬼子母神の祠後に及べりと云ふ。池袋より電車に乗り、渋谷に出で、家に帰る。日未没せず。この日天気快晴。終日風なく、温暖春日の如し。崖下の静なる横町には遣羽子の音日の暮れ果てし後までも聞えたり。街燈の光のあかるさに、裏町の児女夜を日につぎて羽根つくなり。軒の燈火の薄暗かりし吾等幼時の正月にくらべて、世のさまの変りたるは、是れにても思知らるゝなり。」

この年も元旦に父の墓参りに霊南坂下から自動車に乗って来ているが、はじめに、日記「断腸亭日乗」を書き始めてからもう十年になることを記している。

日記は、その前、明治29年(1896)からずっと、米国、フランスでも、帰国した後もつけていたが、その後中断した。大正七年(1918)大久保余丁町の家を売却するとき、落ち葉と一緒に燃やしたが、惜しかったような気持ちもする。

墓参りからの帰りに、池袋に出たが、沿道に商店、旅館、酒屋がすきまなく並んでいる様子は市内の町と同じである。王子電車とは、いまの都電荒川線のことで、鬼子母神の神社の後ろまで延びたことを記している。池袋から電車に乗って、渋谷に出て帰った。偏奇館の崖下の横町では、女の子が羽根つきを日が暮れてからも街灯の光で続けていたが、自分の子供時代の正月と比べてなんという変わりようであろう。

以上のように、この年の墓参りの日の記述は多くなっているが、この頃、そういう気分であったのか、次の日、父の亡くなったときのことをかなり詳しく書いている。その冒頭を引用する。

「正月初二。先考の忌辰なれば早朝書斎の塵を掃ひ、壁上に掛けたる小影の前に香を焚き、花缾に新しき花をさし添へたり。先考脳溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。・・・」

成島柳北の墓付近 成島柳北の墓付近 成島柳北の墓 成島柳北の墓 荷風の墓に北へと向かう途中、左側に成島柳北の墓があることは以前の記事のとおりである。

一枚目の写真は、柳北の墓地のある方を撮ったもので、中央に見える小道を入ると、次の右側である。二枚目は、柳北の墓地の裏側の小道を撮ったもので、下側が傾いた松の木が写っている(一枚目の背の高い木)。

前回来たときの上記の記事で、次の昭和二年(1927)の「断腸亭日乗」を引用した。

「正月二日 好晴、今日の如き温暖旧臘より曾て覚えざる所なり、午下自働車を倩ひ雑司ケ谷墓地に赴く、道六本木より青山を横ぎり、四谷津の守坂を下りて合羽坂を上り、牛込辨天町を過ぎて赤城下改代町に出づ、改代町より石切橋の辺はむかしより小売店立続き山の手にて繁華の巷なり、今もむかしと変る処なく彩旗提燈松飾など賑かに見ゆ、江戸川を渡り音羽を過ぐ、音羽の街路広くなりて護国寺本堂の屋根遥かこなたより見通さるゝやうになれり、墓地裏の閑地に群童紙鳶を飛ばす、近年正月になりても市中にては凧揚ぐるものなきを以てたまたま之を見る時は、そゞろに礫川のむかしを思ひ出すなり、又露伴先生が紙鳶賦を思出でゝ今更の如く其名文なるを思ふなり、車は護国寺西方の阪路を上りて雑司ケ谷墓地に抵る、墓地入口の休茶屋に鬼薊清吉の墓案内所と書きたる札下げたるを見る、余が馴染の茶屋にて香花を購ひまづ先考の墓を拝す、墓前の蠟梅馥郁たり、雑司谷の墓地には成島氏の墓石本所本法寺より移されたる由去年始めて大島隆一氏より聞知りたれば、茶屋の老婆に問ふに、本道の西側第四区にして一樹の老松聳えたる処なりといふ、松の老樹を目当にして行くに迷はずして直ちに尋到るを得たり、石の墻石の門いづれも苔むして年古りたるものなり、累代の墓石其他合せて十一基あり、石には墓誌銘を刻せず唯忌日をきざめるのみなり、・・・」

上記の「日乗」で云う、成島家の墓のある所にそびえる「一樹の老松」とは、一、二枚目の松の木のようである。二枚目に写っているように「御鷹部屋と松」という説明板が道側に立っているが、それには、このあたりに江戸時代中期の享保四年(1719)以降、幕府の御鷹部屋があり、その屋敷内に松の木があった、とある。さらに、「この松の木は当時の様子をしのばせてくれます。」とあり、「この松の木」とは、上記の写真の松であろう。

上記の江戸切絵図を見ると、確かに、このあたりに「御鷹部屋 御用屋敷」がある。近江屋板(嘉永四年(1851))にも同じようにある。

三枚目は、二枚目の写真の小道を入り、ふり返って、松の根元部分を撮ったものであるが、右の奥に、柳北の墓が写っている。四枚目は柳北の墓側から松を撮ったもので、下右側の黒い墓石が柳北の墓である。左側面に「明治十七年十一月卅日終壽四十八 門生小澤圭謹書」とあり、明治17年(1884)11月30日に48歳で亡くなっている。

成島柳北の碑 成島柳北の胸像 上記の以前の記事で、「日乗」の一樹の老松はいまはないようであるとしたが、これは誤りで、現存しているようである。ということで、荷風の見た木がまだ残っているとはうれしい限りである。荷風が長年住んだ偏奇館の跡は土地そのものがなくなっている現在からすれば、この木は貴重である。

左の二枚の写真は、最近、向島の長命寺で撮った柳北の胸像のある石碑である。以前の記事でも触れたが、鼻の天辺が欠けている。

今回は、荷風の慣れ親しんだ神楽坂から出発し、小日向の坂を巡り、さらに、目白台を上下し、雑司が谷一丁目を縦断して雑司ヶ谷霊園に至ったが、途中の付属横坂のあたりや雑司が谷一丁目以外は、江戸切絵図にある道を通った。江戸趣味があり、切絵図にも親しんでいた荷風をしのぶにはまたよいコースであった(ちょっとこじつけ気味であるが)。

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)」(岩波現代文庫)

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本念寺と荷風

2012年04月26日 | 荷風

本念寺近くの無名の階段坂 本念寺門前 大田南畝の墓 説明板 東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) 前回の逸見坂上を直進し、その先の四差路を右折し、次を右折し、白山通り方面へもどるようにしてしばらく歩くと、無名の階段坂に遭遇したので、坂下から写真を撮った(一枚目の写真)。街歩きのとき不意に石段坂に出会うとなんとなくうれしくなるから不思議である。

ここをさらに下り東へ進むと、右手に本念寺が見えてくる。二枚目の写真は門前を撮ったものである。前回の逸見坂のちょうど西北の反対側に位置し、一本となりの道沿いにある。ここに、三枚目の写真のように、天明期の文人・狂歌師である大田南畝(蜀山人)の墓がある。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の部分図に、本念寺が現在と同じ位置に見える。近江屋板も同様である。

永井荷風は、蜀山人(大田南畝)が好みであったらしく、よくその作品などが日記「断腸亭日乗」にでてくるが、この寺に蜀山人の墓の掃苔に何回かきている。大正11年(1922)4月26日に次の記述がある。

「四月廿六日。日の光早くも夏となれり。午下小石川原町蓮久寺にて井上君先考の葬儀あり。焼香の後木曜会の二三子と本念寺に立寄り、蜀山人および其後裔南岳の墓を掃ふ。南岳墓碣の書は巌谷小波先生の筆にして、背面に真黒な土瓶つつこむ清水かなといふ南岳の句を刻したり。この日午前十時半頃強震あり。時計の針停り架上の物落ちたり。白山よりの帰途電車にて神田橋を過るに外濠の石垣一町ほど斜に傾き水中に崩れ落ちたる処もあり。人家屋上の瓦、土蔵の壁落ちたるもの亦尠からず。」

この日、ちょうど今日と同じ日であるが、友人井上啞々の父の葬儀でこの近くの蓮久寺(白山五丁目、東洋大学のわきにある)に来て、その帰りに本念寺に立ち寄り、蜀山人とその子孫の大田南岳(大正6年7月に亡くなっている)の墓参りをしている。午前に強い地震があったらしく、その被害の様子をかなり詳しく記している。関東大震災の一年四ヶ月程前である。

次は、大正13年(1924)4月20日である。

「四月二十日。午後白山蓮久寺に赴き、唖唖子の墓を展せむとするに墓標なし。先徳如苞翁の墓も未建てられず。先妣の墓ありたれば香花を手向け、門前の阪道を歩みて、原町本念寺に赴き南畝先生の墓を掃ひ、其父自得翁の墓誌を写し、御薬園阪を下り極楽水に出で、金冨町旧宅の門前を過ぐ。表門のほとりの榎、崖上の藤棚、壁梧、また裏手なる崖上の榎等、少年の頃見覚えたりし樹木、今猶塀外の道より見ゆ。裏門の傍に大なる桃の木ありしが今はなし。庭内に古松二三株ありしが今はいかがせしや。北鄰の田尻博士邸は他に引移りしと見えて、門前の様子変りたり。金剛寺阪の中腹より路地を抜け、金剛寺の境内を過ぎ、水道端に出て、江戸川橋より電車に乗る。」

この日も前回と同じく蓮久寺からこの寺に来ている。その後、ここから金冨町の旧宅まで歩き、旧邸の内外の光景をなつかしみながらここを通りすぎたようである。この日通った御薬園坂や極楽水のことは以前の記事で触れた。

次は、上記からかなり後の昭和16年(1941)10月27日。

「十月廿七日、晴れて風あり。午後散歩。谷中三崎町坂上なる永久寺に仮名垣魯文の墓を掃ふ。団子坂を上り白山に出でたれば原町の本念寺に至り山本北山累代の墓及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の墓は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向変わりたるやうなり。寺を出で指ヶ谷町に豆腐地蔵尚在るや否やを見むと欲せしが秋の日既に暮れかかりたれば電車に乗りてかへる。」

この日、午後散歩に出て、団子坂の東にある谷中の三崎坂の永久寺に行き、江戸~明治の戯作者・新聞記者の仮名垣魯文の墓参りをした。永久寺はいまも同じ所にある。そこから坂を下り、団子坂を上り白山に出て、本念寺に行った。山本北山とは江戸中期の儒学者。南畝と南岳の墓の位置や向きが以前と変わっていることを記している。指ヶ谷町の豆腐地蔵を探そうとしたらしいが、どこであろうか。大久保の鬼王神社には願がかなうと断っていた豆腐をお礼にあげるというが、その類であろうか。そういったところに関心を持つのはいかにも『日和下駄』の著者らしいと思ってしまう。
(続く)

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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観潮楼跡と荷風

2012年02月19日 | 荷風

藪下通りから団子坂上方面 団子坂上から藪下通り 前回の藪下通り観潮楼跡の先でちょっと下ってから団子坂の坂上につながる。一枚目の写真は、そのあたりから坂上側を撮ったもので、左側が観潮楼跡で工事中である。二枚目は団子坂上の交差点を横断してから、藪下通りの終点を撮ったものである。

森鷗外は、明治25年(1892)1月末、本郷駒込千駄木町二十一番地に移り、千住から父母・祖母を呼び寄せ、家を建て増し、これを観潮楼と名づけた。二階からはるか遠くに海が見えたからという。以降三十年、日清戦争や日露戦争、小倉転勤などの時期を除き、ここに居住した。

永井荷風は『日和下駄』「第九 崖」で藪下通りと観潮楼を次のように描いている。

「小石川春日町から柳町指ヶ谷町へかけての低地から、本郷の高台を見る処々には、電車の開通しない以前、即ち東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃には、樹や草の生茂った崖が現れていた。根津の低地から弥生ヶ岡と干駄本の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危まれるばかり、足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透して谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。」

荷風は、春日町から指ヶ谷町へかけての低地から本郷の高台を見ると、電車の開通しない以前、東京の地勢と風景とが破壊される前、樹や草の生茂った崖が見えたとし、本郷台地の西側の崖について述べ、東側の崖についても、根津の低地から弥生ヶ岡と干駄本の高地を仰ぐと、ここも絶壁であるとしている。このように本当に見えた時代があった。

この藪下通りは、片側が樹と竹藪におおわれ、片側が崖下で人家の屋根が見え、かなり野趣あふれる小道であった。いまとかなり違うが、前回のふれあいの杜に行けば、ちょっと想像がつくかもしれない。

当時の様子がよくわかる名文であるが、他の章は、このような記述で終わるのが常である。この章は、そうでなく、さらに鷗外の観潮楼を訪ねたときの印象について次のように詳しく記している。

「当代の碩学森鷗外先生の居邸はこの道のほとり、団子坂の頂に出ようとする処にある。二階の欄干に彳(たたず)むと市中の屋根を越して遥に海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を観潮楼と名付けられたのだと私は聞伝えている。(団子坂をば汐見坂という由後に人より聞きたり。)度々私はこの観潮楼に親しく先生に見(まみ)ゆるの光栄に接しているが多くは夜になってからの事なので、惜しいかな一度もまだ潮を観る機会がないのである。その代り、私は忘れられぬほど音色の深い上野の鐘を聴いた事があった。日中はまだ残暑の去りやらぬ初秋の夕暮であった。先生は大方御食事中でもあったのか、私は取次の人に案内されたまま暫(しばら)くの間唯一人この観潮楼の上に取残された。楼はたしか八畳に六畳の二間かと記憶している。一間の床には何かいわれのあるらしい雷という一字を石摺にした大幅がかけてあって、その下には古い支那の陶器と想像せられる大きな六角の花瓶が、花一輪さしてないために、かえってこの上もなく厳格にまた冷静に見えた。座敷中にはこの床の間の軸と花瓶の外は全く何一つ置いてないのである。額もなければ置物もない。おそるおそる四枚立の襖(ふすま)の明放してある次の間を窺(うかが)うと、中央に机が一脚置いてあったが、それさえいわば台のようなもので、一枚の板と四本の脚があるばかり、抽出もなければ彫刻のかざりも何もない机で、その上には硯もインキ壺も紙も筆も置いてはない。しかしその後に立てた六枚屏風の裾からは、紐で束ねた西洋の新聞か雑誌のようなものの片端が見えたので、私はそっと首を延して差覗くと、いずれも大部のものと思われる種々なる洋書が座敷の壁際に高く積重てあるらしい様子であった。世間には往々読まざる書物をれいれいと殊更人の見る処に飾立てて置く人さえあるのに、これはまた何という一風変った癇癖(かんぺき)であろう。私は『柵草紙』以来の先生の文学とその性行について、何とはなく沈重に考え始めようとした。あたかもその時である。一際高く漂い来る木犀の匂と共に、上野の鐘声は残暑を払う涼しい夕風に吹き送られ、明放した観潮楼上に唯一人、主人を待つ間の私を驚かしたのである。
 私は振返って音のする方を眺めた。干駄木の崖上から見る彼の広漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる暮靄(ぼあい)に包まれ一面に煙り渡った底から、数知れぬ燈火を輝し、雲の如き上野谷中の森の上には淡い黄昏の微光をば夢のように残していた。私はシャワンの描いた聖女ジェネヴィエーブが静に巴里(パリ)の夜景を見下している、かのパンテオンの壁画の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。
 鐘の音は長い余韻の後を追掛け追掛け撞(つ)き出されるのである。その度ごとにその響の湧出る森の影は暗くなり低い市中の燈火は次第に光を増して来ると車馬の声は嵐のようにかえって高く、やがて鐘の音の最後の余韻を消してしまった。私は茫然として再びがらんとして何物も置いてない観潮楼の内部を見廻した。そして、この何物もない楼上から、この市中の燈火を見下し、この鐘声とこの車馬の響をかわるがわるに聴澄ましながら、わが鷗外先生は静に書を読みまた筆を執られるのかと思うと、実にこの時ほど私は先生の風貌をば、シャワンが壁画中の人物同様神秘に感じた事はなかった。
 ところが、「ヤア大変お待たせした。失敬失敬。」といって、先生は書生のように二階の梯子段を上って来られたのである。金巾の白い襯衣(シャツ)一枚、その下には赤い筋のはいった軍服のヅボンを穿いておられたので、何の事はない、鷗外先生は日曜貸間の二階か何かでごろごろしている兵隊さんのように見えた。
 「暑い時はこれに限る。一番涼しい。」といいながら先生は女中の持運ぶ銀の皿を私の方に押出して葉巻をすすめられた。先生は陸軍省の医務局長室で私に対談せられる時にもきまって葉巻を勧められる。もし先生の生涯に些(いささ)かたりとも贅沢らしい事があるとするならば、それはこの葉巻だけであろう。
 この夕、私は親しくオイケンの哲学に関する先生の感想を伺って、夜も九時過再び干駄木の崖道をば根津権現の方へ下り、不忍池の後を廻ると、ここにも聳(そび)え立つ東照宮の裏手一面の崖に、木の間の星を数えながらやがて広小路の電車に乗った。」

旧森鷗外記念本郷図書館裏庭 旧森鷗外記念本郷図書館裏庭 荷風が観潮楼に鷗外を訪問したのは、残暑去らぬ初秋の夕暮であった。二階に通され、しばらく待たされるが、その間の部屋の描写が詳しい。尊敬する鷗外を訪れて気分が高揚したのか、そんな感じが伝わってくるかのようである。そして、突然、上野の山から聞こえてきた鐘の音に驚いたことをきっかけに、ついには、鷗外を神格化する気分にまでなる。しかし、鷗外は、書生のように梯子段を上ってあらわれ、シャツ一枚、赤い筋のはいった軍服のヅボンで、兵隊さんのようだったが、この対比がおもしろい。飾らない鷗外の性格や気の置けない年下の友人といった感じがうかがえる。鷗外の生涯にわたる贅沢は葉巻だけとする荷風の観察から、鷗外の質素な生活がかいま見えるようである。

帰りは、ふたたび、藪下通りを根津権現へ下り、不忍池の北側の東照宮のわきを通ってその裏手の崖を眺めながら広小路に出て電車に乗った。

一、二枚目の写真は、現在工事中の観潮楼跡にあった森鷗外記念本郷図書館の裏庭を撮ったものである(2007年11月)。その裏庭の壁に荷風書の鴎外の詩「沙羅の木」の詩碑が埋め込まれていた。下の写真がその詩碑である。

荷風書鷗外「沙羅の木」 「沙羅の木
  褐色の根府川石に
  白き花はたと落ちたり、
  ありとしも青葉がくれに
  見えざりしさらの木の花。」
(明治三十九年九月一日「文藝界」五ノ九)

上記の碑文によれば、荷風が昭和25年(1950)6月に揮毫したものを昭和29年(1954)7月9日鷗外の長男(於兎)らが三十三回忌にあたり供養のため石碑にし建立した。 荷風「断腸亭日乗」の昭和25年6月の分をすべて見てもそのような記述はないが、昭和29年6月20日に次の記述がある。

「六月二十日。日曜日。隂又雨。午前森博士来話。先考鷗外先生詩碑いよいよ建立落成すと云。拙筆揮毫の謝礼なりとて金壱万円を贈らる。午後浅草。隅田公園散歩。晡後飯田屋に飰す。」

上記の揮毫は鷗外の長男(森博士)らが頼んだものか、謝礼として荷風に一万円を贈っている。荷風は、しかし、昭和29年7月9日の観潮楼跡に建てられた詩碑「沙羅の木」の除幕式には出席していない。当日の「日乗」には次の記述があるだけである。

昭和29年「七月初九。晴。午後三菱八幡支店。晡下浅草。天竹に飰す。」

上記の詩碑は谷口吉郎の設計で根府川石からでき、武石弘三郎作の大理石でできた鷗外胸像の傍の煉瓦塀に嵌め込まれたとあるが(秋庭)、これを読んで、このため出席しなかったのかと思ってしまった。というのは、荷風の銅像嫌いは有名であるからである(以前の記事参照)。胸像であっても敬愛する鷗外のそんなものは見たくなかったのではないか。(もっとも、それは若いときのことで、単にそんな人の集まるところに出る気がなかったからかもしれないが。)

昭和31年(1956)「十一月十日。晴。鷗外先生記念館建立の事に付文京区区長井形卓二氏。事務長代理中出忠勝氏来話。」

同年「十一月十三日。隂。又晴。新潮社。印鑑返送。午後浅草。食事。夜「鷗外先生のこと」執筆。」

鷗外記念館建設にあたり、毎日新聞に「鷗外記念館のこと」という記事を載せているが、それを読むと、鷗外を敬愛する気持は生涯変わらなかったことがわかる。この小文は、上記の区長らの依頼で、その三日後に執筆された「鷗外先生のこと」であるが、未発表のままになったものらしく、その記事が載った日を見てちょっと驚いた。昭和34年(1959)5月1日であったからである。荷風が亡くなったのはその前日である。

このときの鷗外記念館は、結局実現しなかったが、その後、森鷗外記念本郷図書館が建設され、それが上記の写真のように観潮楼跡に最近まであったものと思われる。
(続く)

参考文献
「新潮日本文学アルバム 森鷗外」(新潮社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
「鷗外選集 第十巻」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「荷風全集 第二十巻」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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永井荷風住居跡近く(築地)

2011年09月19日 | 荷風

永井荷風は大正9年(1920)5月麻布市兵衛町の偏奇館に移るが、その直前には築地に住んでいた。今回は、その築地の住居跡を訪ねた。
 

荷風は築地に大正7年(1918)12月余丁町から移ったのであるが、その住所は、京橋区築地二丁目30番地であった。現在の築地本願寺隣り(東北側)の築地三丁目10,11,12番地のあたりであるが、ある程度の広さがあり、秋庭太郎の著書を見ても具体的な位置の記述はなく、実際にどこにあったか不明である。(秋庭太郎「考証 永井荷風」は、昨年、岩波現代文庫(上)(下)の二冊として新仮名遣いに改められて出版されたが、この新版の文庫本を参考にした。)

荷風が父から相続した余丁町の邸宅を売り払い、築地に移った理由などは以前の記事のとおりである。築地から麻布市兵衛町に移った事情なども以前の記事にある。 

築地本願寺と築地三丁目の間の道路 午前日比谷線築地駅下車。

上の地図で「goo地図へ」をクリックした地図画面から古地図(明治地図、昭和22年・38年の航空写真)を見ることができるが、その明治地図(人文社発行の「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」と同じ)では、本願寺側に築地郵便局があり、そこを西の角として京橋区築地二丁目30番地がほぼ正方形状に広がっている。

明治地図と戦前の昭和地図を見ると、本願寺前の道路は、電車通りでなく、その北西方向の次の通りが電車通りであった。本願寺の敷地が明治地図の時代から変わらないとすると、本願寺前の道路が現在の広い新大橋通り(その地下を日比谷線が通っている)である。戦前の昭和地図では、本願寺前が市場通りとなって茅場橋の方へと延びており、いまの新大橋通りがほぼできていたと思われる。

左の写真は、築地駅1番出口を出ると、本願寺の塀が見えるが、ここから新大橋通りを左に見てちょっと進み、すぐの信号を渡って右折したところから撮ったもので、右の道路の向こうが本願寺で、左が築地三丁目11番地の西の角である。この角が明治地図と同じ位置とすると、ここに築地郵便局があった。

築地三丁目11番地付近 築地三丁目10,11番地付近 築地三丁目10番地付近 築地三丁目12番地付近 上記の道路の歩道を本願寺を右に見てちょっと歩くと、左手にガソリンスタンド(ENEOS)があるが、ここを左折して撮ったのが一枚目の写真で、そこをちょっと進んで撮ったのが二枚目の写真で、左手が築地三丁目10,11番地の境で、右手が12番地である。道はまっすぐに東北へ延び、両わきはビルばかりであり、住宅地というよりも商業地といった方がよいところである。

三枚目の写真は、さらに進み、築地三丁目10番地の角から延びる小路を撮ったもので、写真奥側は新大橋通りである。その小路の反対側に延びる小路を撮ったのが四枚目の写真で、右手が12番地である。

ふたたび明治地図を見ると、京橋区築地二丁目30番地には、築地本願寺前の道路と平行な道が一本ほぼ中央に通っている。これが現在の上記のガソリンスタンドを左折した道と同じ通りか否か不明である。現在の道は中央というよりも築地本願寺前の道路に近いからである。戦前の昭和地図では、現在の道筋とほぼ同じである。この間に変わったのであるが、関東大震災の影響かもしれず、荷風が住んだのは震災前であるから、明治地図の方に近かったと想像される。

上の五枚の写真を見てもわかるように、当時を偲ぶことのできるものはなにもないといえそうである。もっとも、これは、荷風生誕地偏奇館跡などみなそうであるが。相違点はただ一つ、教育委員会などによる案内標識が立っていないことだけ。

築地三丁目界隈 築地七丁目界隈 築地七丁目界隈 上記の写真を撮った後、築地三丁目や七丁目のあたりをぶらついたが、三枚の写真は、そのとき撮ったものである。いずれも下町ふうの雰囲気を醸し出しているような感じがして思わずシャッタをきった。

荷風に、この築地を背景にした短篇小説「雪解」がある。主人公兼太郎は、五年前の株式の大崩落に家をなくし妻とは別れ妾の家から追い出され、丁度五十歳の時人の家の二階を借りるまでに失敗してしまった。その家が京橋区築地二丁目本願寺横手の路地にあるという設定である。

「路次の雪はもう大抵両側の溝板の上に掻き寄せられていたが、人力車のやっと一台通れる程の狭さに雪解の雫は両側に並んだ同じような二階屋の軒からその下を通行する人の襟頸(えりくび)へ余沫(しぶき)を飛ばしている。それを避けようと思って何方かの楣(のき)下へ立寄ればいきなり屋根の上から積った雪が滑り落ちて来ないともわからぬので、兼太郎は手拭を頭の上に載せ、昨日歯を割った下駄を曳摺りながら表通りへ出た。向側は一町ほども引続いて土塀に目かくしの椎の老木が繁茂した富豪の空屋敷。此方はいろいろな小売店のつづいた中に、兼太郎が知ってから後自動車屋が二軒も出来た。銭湯も此の間にある。蕎麦屋もある。仕出屋もある。待合もある。ごみごみした其等の町家の尽る処、備前橋の方へ出る通りとの四辻に遠く本願寺の高い土塀と消防の火見櫓(ひのみやぐら)が見えるが、然し本堂の屋根は建込んだ町家の屋根に遮られて却って目に這入らない。区役所の人夫が掻き寄せた雪を川へ捨てにと車に積んでいるのを、近処の犬が見て遠くから吠えて居る。太い電燈の柱の立って居るあたりにはいつの間にか誰がこしらへたのか大きな雪達磨が二つも出来ていた。自動車の運転手と鍛冶屋の職人が野球の身構で雪投げをしている。」

主人公が銭湯へ出かける道すがらの描写であるが、表通りとは本願寺前の通り、備前橋の方へ出る通りとの四辻とは表通りと本願寺横の通り(上一枚目の写真の通り)との交差点と思われる。この四辻で、自動車屋、銭湯、蕎麦屋、仕出屋、待合などのごみごみした町家が尽き、その向こうは本願寺の土塀であった。荷風のすぐれた描写によりその当時のこの街の様子がよくわかる。

「何しろここでお前に逢はうとは思はなかった。お照、すぐそこだから帰りに鳥渡(ちょいと)寄っておくれ。お父(とツ)さんはすぐそこの炭屋と自転車屋の角を曲がると三軒目だ。木村ツていふ家にいるんだよ。曲って右側の三軒目だよ。いいか。」

主人公は銭湯で昔に別れた娘のお照と偶然に会い、訪ねてくるように間借りの家の位置を説明しているが、そこは、表通りから炭屋と自転車屋の角を曲がって右側の三軒目である。明治地図には表通りから入る小路が中程にあるが、この小路に、その角を曲がって右側の三軒目の家があったのかもしれない。この小説で主人公が間借りをしている家が荷風の住居と同じ所という設定であれば、荷風の住居は、表通り近くにあったということになる。また、その小路がいまの築地三丁目10番地の角から新大橋通りへ延びる小路とすれば、上三枚目の写真の左側ということになるが、はたしてどうであろうか。

荷風はこの小説を大正11年(1922)2月に脱稿しているが、断腸亭日乗に次のように記している。

大正11年「二月八日。小説雪解前半の草稾を明星に寄送す。風雨屋上の残雪を洗ふ。」

「二月十日。残雪跡なく雨後の春草萋々たり。夜月明なり。風月堂にて晩食を喫し、築地旧居のあたりを歩む。目下執筆の小説雪解の叙景に必要の事ありたればなり。」

「二月十四日。短篇小説雪解の稾を脱す。七草会末広に開かるゝ由通知ありしが徃かず。此日も温暖四月の如し。梅花咲く。」

2月10日には、銀座の風月堂で夕食をとってから、この築地の旧居のあたりに小説の参考のために散歩に来ている。
(続く)

参考文献
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)」(岩波現代文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「荷風全集 第十四巻」(岩波書店)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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永井荷風旧宅跡

2011年08月17日 | 荷風

前回の鍋割坂上から千鳥ヶ淵緑道にもどり九段坂上方面へ行くのもよいが、今回は、別の目的があったので、そうせず、内堀通りを横断し、歩道を北へ向かう。すると、下りとなり、ちょっと歩くと、左に二松学舎大学が見え、谷底の交差点に至るが、そこを左折する。(下の地図で、きんでんと公務員三番町住宅との間の道が鍋割坂である。)

以前の記事のように、永井荷風の住居の変遷を簡単にたどると、生家は小石川区金富町45番地(現文京区春日二丁目20番25号)で、ここで明治12年(1879)12月3日に生まれた。明治26年(1893)11月麹町区飯田町三丁目(または二丁目二番地)黐ノ樹(もちのき)坂下に移転。黐ノ樹坂は別名冬青木坂。明治27年(1894)10月麹町区一番町42番地に移転。明治35年(1902)5月牛込区大久保余丁町79番地に移転(現新宿区余丁町14番地)。ここまで、荷風(本名壯吉)は二十代前半で、荷風の住居というよりは、父久一郎一家の住居といった方が正確である。

内堀通りを左折した所 永井荷風旧宅跡 永井荷風旧宅跡 永井荷風旧宅跡 今回は、明治27年10月に冬青木坂から移転した一番町の永井荷風住居跡を訪ねた。

旧麹町区一番町42番地は、明治地図(左のブックマークから閲覧可能)を見ると、千鳥ヶ淵から鍋割坂上(坂上左に梨本宮邸がある)を右折し、北へ進み、次を左折し、次の四差路の東南角である。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、江戸末期、このあたりはすっかり武家屋敷であった。

現在は、上の地図のように、二松学舎大の西側(裏側)の信号のある交差点となっている。左の写真は、内堀通りから左折した通り(二七通り)の西側を撮り、二枚目の写真は、その先の交差点近く、三枚目は交差点の東北角から東南角を撮り、四枚目は交差点の西北角から東南角を撮ったもので、二松学舎大のビルが見える。この東南角が旧麹町区一番町42番地であり、写真のように、現在、建物はなく、駐車場のようになっている。

秋庭太郎によれば、一番町の家は、二松学舎と背中合わせの通りに面した門構えの大きな借家であった。当時同町内には、井伊伯爵、東園子爵、金子堅太郎、三井得右衛門、三島毅等の邸宅があったが、永井家も銀杏の老樹茂る広壮な屋敷で、靖国神社の今村宮司の持ち家であったという。この家に久一郎は、妻恒、長男壯吉(荷風)、三男威三郎とともに移った。二男貞二郎は、十歳のとき(明治25年10月)母恒の実家である下谷の鷲津家の養子となっていた。

この家から久一郎は竹平町にあった文部省の会計課長として通勤し、壯吉、威三郎は、中学校、小学校に通ったが、壯吉は病気がちであった。

明治27年16歳のとき下谷の帝国大学第二病院に入院し、付き添いの看護婦に初恋をし、その名がお蓮といったのでそれにちなんで荷風と号したという(秋庭太郎が書いているが、その出典が明らかでない)。その後も流行性感冒にかかったりして長患いとなり、翌28年4月小田原の足柄病院に入院し、7月下旬に帰京、その後、逗子の別荘に9月まで滞在などして、一年近く学業を休んだ。

隣接する富士見町に当時、小山内薫、八千代兄妹が住んでいたが、岡田八千代『若き日の小山内薫』に、この時代を回想して、「永井荷風さんの顔を知ったのも富士見町であった。永井さんの家が一番町にあったゝめか、私たちはいつしか其顔を覚えて居た。永井さんのお母ア様は痩せた丈の高い上品な婦人だった。琴を好まれてか、今井慶松の門に這入ってゐられた。そして私も亦其微々たる門下であったゝめ、月ざらひなどに行くと、永井さんの奏でる琴に合せて荷風さんが尺八を吹くのを見た事もある。やっぱり其頃から永井さんは痩身の貴公子であった。」とあるという。

荷風は、この家の思い出を昭和3年(1928)6月8日の「断腸亭日乗」に次のように書いている。

「六月八日 晴れわたりて風涼し、午後中洲病院に徃く、注射例の如し、帰途三番町に赴きて夕餉を食す、半玉二三人帳場に来りて頻にお化銀杏のことを語合へり、此のお化銀杏といふは旧井伊伯爵家の邸後、一番町の坂上に聳る老樹にて、坂下なる冨士見町の妓窩より仰ぎ望めば、夜ふけて雨の降る折など木立のさま遊女の髪を立兵庫に結ひ帯を前結びにして立てるが如くに見ゆるとて、いつともなくお化銀杏と呼ばれて今は冨士見町に遊ぶもの誰一人知らざるはなしと云ふ、されどこは震災後四五年以来の事なるべし、曾て吾が家明治二十九年の秋の頃飯田町もちの木坂下の借家を引払ひて新に移り住みしは正にこのお化銀杏の聳立ちたる一番町の屋敷なりしが、其頃にはこの老樹を見て怪しみ恐るゝものは絶えてなかりき、老樹はわが引移りし家とその南鄰なる侍従東園子爵が屋敷との垣際に聳え、其の根は延びひろがりて吾家の庭一面に蟠りたり、東園家にては折々人を雇ひて枝を刈込ませゐたり、当時の事を回想するにわが父上は移居の翌年致仕して郵船会社に入り上海支店長となりて其地に赴かれたり、余は母上と共に家に留り、尋常中学校を卒業せし年の秋、父母に従ひて上海に遊び、帰り来りて後外国語学校に入り、三年ほどにして廃学したりしも皆この一番町の家に在りし時なり、始て小説を作りまた始めて吉原に遊びに行きたるも亦この一番町の家に在りて、朝夕かの銀杏の梢を仰ぎ見たりし時のことなり、明治四十一年の秋仏蘭西より帰り来りて、一夜冨士見町に遊びし事ありしが、その頃にも猶わが旧宅の銀杏を見てお化銀杏と呼ぶものはなかりき、大正改元の頃冨士見町の妓界は紅白の二組合に分れゐたりしが、其の頃にもお化銀杏の名は耳にすることなかりき、大正癸亥の震災にこのあたり一帯の焦土となりしに、かの銀杏の立てる東園家の垣際にて火は焼けどまりとなり、余が旧宅は災を免れたり、番町辺の樹木大抵焼け倒れたるにかの銀杏のみ恙なく、欝然たるその姿俄に目立つやうになりぬ、是この老樹の新にお化銀杏と呼ばれて怪しみ畏れらるゝに至りし所以なるべし、思へば三十年前われは此の銀杏の木陰なる家にありて始めて文筆を秉りぬ、当時平々凡々たりし無名の樹木は三十年の星霜を経て忽ちにして能く大名を博し得たり、是をわが今日の境遇に比すれば奈何、病み衰へて将に老い朽ちんとす、わが生涯はまことに一樹木に劣れりと謂ふも可なり、」

荷風は、この日、中洲病院の帰りに三番町のお歌のところに寄り夕食をとったが、そのとき、帳場で半玉(一人前でない年少の芸者)二三人が語り合っていたお化銀杏のことをきっかけにして一番町の家を回想している。

父久一郎は、明治30年(1897)3月文部省会計局長の職を辞して、翌4月に日本郵船株式会社に入り、同社上海支店長となり、5月に単身赴任したが、その後一時帰国し、9月、妻恒、長男壯吉、三男威三郎を伴って上海に赴いた。しかし、荷風(壯吉)が上海にいたのは二三ヶ月で、同年11月末には日本へ戻ったようである。上記の日乗に、上海に遊ぶ、とあるが、それにふさわしい程度の滞在であったようである。帰国後、荷風は、外国語学校清語科に入学した。この清語科入学は、上海に遊んだ影響と漢文を善くした父の感化とされている。

そのお化け銀杏は、もともと、荷風の一番町の家と南隣の東園家との際にそびえていたが、当時から大正はじめまではそんなふうに呼ばれていなかった。関東大震災のとき、このあたり一帯が焦土となり一番町辺の樹木もほとんど焼けたのに、この銀杏のみ無事で、そのため、にわかに目立つようになったことがお化け銀杏と呼ばれる所以としている。 しかし、話はここで終わらず、この無名であったが三十年を経た後に名声を得た銀杏と現在の我が境遇とを比べ、その不幸を嘆いているが、そのような比喩に酔っているかのようである。荷風得意の悲嘆調による締め括りである。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考證 永井荷風」(岩波書店)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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雑司ケ谷霊園(5)

2011年05月09日 | 荷風

雑司ヶ谷霊園 部分案内地図 夏目漱石の墓 夏目漱石の墓 夏目漱石の墓(裏面) もとの管理事務所正面通りにもどり、次に、夏目漱石の墓に行く。左の写真の案内地図のように、中央通りにある。地図では、一部見えないが、1-14の区域(中央通りを挟んで1-10の反対側)である。1種14号2側の標識が立っているが、ここを入るとすぐである。

漱石は、右の写真のように、大正五年(1916)十二月九日に亡くなっている。俗名夏目金之助とある。

漱石については以前の記事の"漱石公園"や"夏目坂"でちょっと触れた。

この墓は、昭和三十八年(1963)四月十八日に亡くなった夫人の鏡子(裏面に刻んである「キヨ」が本名)の戒名も刻んであり、比較的新しいものであろう。以前もここを訪れているが、いつ来ても大きな墓と思ってしまう。永井荷風の墓はごく質素なもので、荷風の墓からここに来ると、その大きさにいっそう驚いてしまう。

荷風は、森鷗外とは親交があって敬愛していたが、漱石とはほとんど親交がなかったらしい。しかし、先輩の小説家として尊敬していたことは間違いない。

「断腸亭日乗」大正8年(1919)3月26日に次の記述がある。

「三月廿六日。築地に蟄居してより筆意の如くならず、無聊甚し。此日糊を煮て枕屏風に鴎外先生及故人漱石翁の書簡を張りて娯しむ。」

この当時、荷風は、大久保余丁町から築地に移っており、筆を持つ気分になれずに悩んでいたが(以前の記事参照)、わびしさを慰めようと、屏風に鷗外と漱石からの手紙を張り付けて楽しんだ。

同じく昭和2年(1927)9月22日、次のように漱石についてかなり記述しているが、これほど書いているのはこの日だけである。

「九月廿二日 終日雨霏々たり、無聊の余近日発行せし改造十月号を開き見るに、漱石翁に関する夏目未亡人の談話を其女婿松岡某なる者の筆記したる一章あり、漱石翁は追蹤狂とやら称する精神病の患者なりしといふ、又翁が壮時の失恋に関する逸事を録したり、余此の文をよみて不快の念に堪へざるものあり、縦へ其事は真実なるにもせよ、其人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更之を公表するとは何たる心得違ひぞや、見す見す知れたる事にても夫の名にかゝはることは、妻の身としては命にかヘても包み隠すべきが女の道ならずや、然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係らず之を訏きて差閊へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり、女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至っては是亦言語道断の至りなり、余漱石先生のことにつきては多く知る所なし、明治四十二年の秋余は朝日新聞掲載小説のことにつき、早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談話したることありき、是余の先生を見たりし始めにして、同時に又最後にてありしなり、先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及一家の事なぞ兎や角と噂せらるゝことを甚しく厭はれたるが如し、然るに死後に及んで其の夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし、噫何等の大罪、何等の不貞ぞや、余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり、是夜大雨暁に至るまで少時も歇む間なし、新寒肌を侵して堪えかだき故就眠の時掻巻の上に羽根布団を重ねたり、彼岸の頃かゝる寒さ怪しむ可きことなり、」

雑誌に漱石未亡人の談話を女婿松岡が筆記した文が掲載されたが、これを読んだ荷風は、漱石が追跡症という精神病であったことおよび若いときに失恋したことを発表したことに、怒りを込めて未亡人と女婿を非難している。漱石は、生前、新聞や雑誌に自分や家族のことが載って噂されるのをずいぶんと嫌っていたのに、死後だからといって、夫が好まないことを夫人があえて行うとはなんたる心得違いか、と断じている。そして、こういったことがあると、荷風は、自分には妻子がなくて本当によかった、と結ぶのが常であるが、このときも、その意味のことを書いている。

上記の「日乗」にあるように、荷風は、明治42年(1909)の秋、漱石宅を訪れているが、これが漱石を見た始めで終わりであった。早稲田南町の邸宅とは、現在、漱石公園となっているところである。

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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雑司ケ谷霊園(4)

2011年05月08日 | 荷風

雑司ヶ谷霊園 部分案内地図 小泉八雲の墓 小泉八雲の墓 永井荷風の墓と岩瀬忠震の墓との間を奥に進むと、左の部分案内地図(前回の記事と同じ地図)のように、小泉八雲の墓がある。墓石左側面に「明治三十七年九月二十六日寂」と刻まれている。

永井荷風は大正11年(1922)9月小泉八雲の墓を訪れている。「断腸亭日乗」に次の記述がある。

「九月十七日。昨夜深更より風吹出で俄に寒冷となる。朝太陽堂主人来談。午後雑司ケ谷墓地を歩み小泉八雲の墓を掃ふ。塋域に椎の老樹在りて墓碑を蔽ふ。碑には右に正覚院殿浄華八雲居士。左に明治三十七年九月二十六日寂。正面には小泉八雲墓と刻す。墓地を横ぎり鬼子母祠に賽し、目白駅より電車に乗り新橋に至るや、日既に没し、商舗の燈火燦然たり。風月堂に飰して帰る。」

荷風が詣でた墓石は上の写真のとおり。

ラフカディオ・ハアン(小泉八雲)は、1850年(嘉永三年)6月27日ギリシアのイオニア諸島のレフカス島、別名レフカダ島(古名レウカディア島)に生まれた。ラフカディオはこの古名にちなむとのこと。父はアイルランド出身のイギリス軍付き軍医で、母はマルタ島生まれといわれるギリシア人。1869年19歳のとき米国に渡る。1890年(明治23年)40才のとき横浜到着。島根県松江中学校の英語教師。次の年、小泉節子と結婚。熊本の第五高等学校に転任。1894年(明治27年)新聞論説記者として神戸に移る。1896年(明治29年)東京帝国大学英文科講師。牛込区市ヶ谷富久町21番地に住む。1902年(明治35年)西大久保265番地に転居。次の年、東京帝国大学退職。後任は、夏目漱石と上田敏。1904年(明治37年)早稲田大学文学部に出講。9月26日狭心症で急逝。享年54歳。

市ヶ谷富久町21番地は、成女学園のあたりで自証院坂の西側であるが、ここに小泉八雲旧居跡の碑があるらしい。しかし、坂の両わきにはないので、学園の中にあるのだろうか。西大久保旧居跡の碑もあるとのこと。

「断腸亭日乗」にもどって、昭和四年(1929)正月に次の記述がある。

「正月二日 空隅なく晴れわたりしが夜来の風いよいよ烈しく、寒気骨に徹す、午前机に向ふ、午下寒風を冒して雑司カ谷墓地に徃き先考の墓を拝す。墓前の蠟梅今猶枯れず花正に盛なり、音羽の通衢電車往復す、去年の秋頃開通せしものなるべし、去年此の日お歌を伴ひ拝墓の後関口の公園を歩み、牛込にて夕餉を食して帰りしが、今日はあまりに烈しければ柳北八雲二先生の墓にも詣でず、車を倩ひて三番町に立寄り夕餉を食し、風の少しく鎮まるを待ち家に帰る、夜はわずかに初更を過ぎたるばかりなれど寒気忍びがたきを以て直に寝につきぬ。」

この年は、風が強かったようで、荷風は、亡父の墓参りを済ませると、柳北・八雲の墓には行かず、すぐに帰ったようである。昭和7年(1932)、昭和11年(1936)元旦には、小泉八雲の墓も訪れている。

荷風は、小泉八雲の読者であったようで「日乗」にときどきでてくる。

昭和10年(1935)「三月廿九日。隂。後に晴。終日鶯語綿蛮たり。ラフガデオハアンの仏蘭西訳本怪談を読む。藪蚊の一章最妙。夜美代子と銀座に飰す。」
鶯語:うぐいすの鳴き声
綿蛮(めんばん):小鳥のさえずり

同年「四月九日。春雨瀟々夜に至って霽る。小泉八雲の尺牘集を読む。八雲先生が日本の風土及生活について興味を催したる所のものは余が帰朝当時の所感と共通する所多し。日本の空気中には深刔なる感激偉大なる幻想を催すべきものゝ存在せざる事を説きたる一文の如きは全く余の感想と符合するなり 仏訳本五十六頁・・・」

同年「四月十七日。朝来風雨夜に入るも歇まず。此日電話にて神田の一誠堂に注文し、和訳ハアン全集を購ふ 金八十円 余が少年時代の日本の風景と人情とはハアンとロチ二家の著書中に細写せられたり。老後この二大家の文をよみて余は既徃の時代を追懐せむことを欲するなり。」

荷風は、八雲が日本の風土と生活について興味を示した所に注目し、帰朝当時の自らの所感と共通することが多いと書いている。和訳ハアン全集を購入し、自らの少年時代の日本の風景と人情とはハアンとロチ二家の著書中に詳しく、老後に、この二大家の文を読んで昔を懐かしみたいなどと記している。八雲にかなり心酔している様子がみてとれる。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
上田和夫訳「小泉八雲集」(新潮文庫)
野尻泰彦「碑(いしぶみ)の東京」東京史蹟研究会

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雑司ケ谷霊園(3)

2011年05月05日 | 荷風

雑司ヶ谷霊園 部分案内地図 岩瀬忠震の墓 左の部分案内地図(前回の記事と同じ地図)のように、永井荷風の墓の反対側に岩瀬忠震(ただなり)の墓がある。永井荷風「断腸亭日乗」昭和8年(1933)正月元旦に次の記述がある(以前の記事に全文あり)。

「正月元日。晴れて暖なり。午後雑司谷墓地に徃き先考の墓を掃ふ。墓前の蠟梅馥郁たり。先考の墓と相対する処に巌瀬鷗所の墓あればこれにも香華を手向け、又柳北先生の墓をも拝して、来路を歩み、護国寺門前より電車に乗り、伝通院に至り、大黒天に賽す。・・・」

鷗所とは忠震の号である。幕末、老中阿部正弘は思い切った人物登用を行ったが、そのときの抜擢組の一人であり、他に勝麟太郎(海舟)・永井尚志・筒井政憲・松平近直・川路聖謨・堀利熙・井上清直・江川太郎左衛門(英龍)などがいた。忠震は、目付に出世してから下田奉行井上清直とともに全権委員として、通商貿易を求めてきた米国のハリスと条約締結交渉に当たった。岩瀬、井上ともに当時の幕府の役人中では、もっとも俊才で、開明的であり、外国通であったが、さすがに外交交渉には慣れていないため、ハリスの話を聞くだけであったという。

荷風は、次の年(昭和9年)にも正月元旦に墓参りにきたが、そのとき記録した岩瀬家の墓石の墓碑銘を「断腸亭日乗」にのせている。長いが以下引用する。

「正月元日 旧暦十一月十六日 晴れて風なし。朝の中臥蓐に在りて鷗外全集補遺をよむ。午後雑司ケ谷墓地に抵り先考の墓を拝す。墓畔の蠟梅古幹既に枯れ新しき若枝あまた根より生じたれば今は花無し。先考の墓と相対して幕臣岩瀬鷗所の墓あり。刻する所の文左の如し。
〔原本丸・漢数字朱書、以下同ジ〕
① 岩瀬氏奕世之墓
岩瀬氏本姓藤原。高祖諱氏忠。始仕江戸幕府。経氏盛、忠兼、忠香、忠英、忠福至忠正。無子。養設楽氏。配以其女。以為嗣。是為爽恢府君。府君諱忠震。通称修理。号蟾洲(所)。又鷗所。歴徒頭目付擢為外国奉行。叙従五位下任肥後守。文久元年七月十一日病卒。享年四十有四。有三男六女。男皆殤。族子忠升承後。又無子。岩瀬氏竟絶。歴世墳墓在小石川蓮華寺。会官拓市区。塋域当毀。漸与知旧謀ト地于雑司谷村。以改葬。因勒石誌其事由云。
明治四十二年十一月 甥本山漸謹記
 〔欄外朱書〕鷗所実父ハ設楽市左衛門也実母ハ林述斎ノ次女某也

② 淡順院殿正日寧大居士
淡順岩瀬府君墓表
余以与君之義子諱忠震為友于之交也。有知君之平生焉。君性恬淡温順。与義子忠震相親睦。而令孫忠斌為□□□愛。辛酉之夏忠斌病歾。忠震亦尋歾。君痛悼不□□病顚綿。自知不起。乃養岩瀬氏善第三子忠升為嗣。未幾而瞑焉。可哀也。君諱忠正。岩瀬氏。称市兵衛。考市兵衛諱忠福第二子。母石津氏。文化九年承家。十二年為書院番士。嘉永五年為書院番組頭。叙布衣。安政三年転先手。以文久元年九月廿八日卒。距生寛政六年十一月十一日。享年六十有八。諡曰淡順。葬於小石川蓮華寺。室神尾氏女。有六男九女。男皆夭。長女配義子忠震。先歾。一女適榊原政陳。余皆夭。
 文久二年壬戌五月図書頭林晃撰
                              関研拝書

③ 従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓
文久元年辛酉七月十一日卒」

①が岩瀬氏代々の墓、②が忠震の養父忠正の墓、③が忠震の墓(右の写真)である。(丸付き数字は、原文では、漢数字である。)

府君:尊者や亡祖父・亡父の尊称
殤:わかじに(二十歳前に死ぬこと)
歾:死ぬ
夭:わかじにする

幕末に将軍家定の継嗣を誰にするかで一橋派(前水戸藩主徳川斉昭の第七子で、一橋家を継いだ一橋慶喜を推す)と南紀派(紀州藩主徳川慶福を推す)との争いがあったが、南紀派の井伊直弼が安政五年(1858)4月に大老に就任し、徳川慶福が継嗣に決まった。その後、直弼は一橋派の幕府役人の左遷を始め、忠震も一橋派であったが、米国との外交交渉のために残されていた。同年6月に日米修好通商条約がハリスと井上清直・岩瀬忠震との間で調印された後、忠震は、永井尚志や川路聖謨とともに隠居・慎とされた。

荷風の墓碑銘の記録によると、その3年後の文久元年(1861)岩瀬家は次々と悲劇に見舞われたようである。忠震の跡継ぎの忠斌が夏に病で亡くなり、忠震が七月十一日に病で亡くなり、忠震の養父忠正が九月廿八日に亡くなっている。忠正は、享年六十八、六男九女の子供がいたが、男はみな若死にし、忠震を養子にし長女を娶せ、この養子が養父よりも出世し目付・外国奉行になった。忠震は、享年四十四、三男六女の子供がいたが、これもまた男はみな若死にした。一族からきた忠升が継いだが、子がなく、岩瀬家は断絶したようである。

この日の「日乗」は上記で終わりではなく、さらに、次のように続いている。

「墓地を出で音羽の町を歩み、江戸川橋に至り、関口の公園に入る。公園の水に沿ふ処一帯の岸は草木を取払ひセメントにて水際をかためむとするものの如く、其工事中なり。滝の上の橋をわたり塵芥の渦を巻きて流れもせず一所に漂ふさまを見る。汚き人家の間を過ぎ関口町停留塲より電車に乗り、銀座に徃けば日は既に暮れたり。オリンピク洋食店休業なれば歩みて芝口の金兵衛に至り夕飯を命ず。主婦来りて屠蘇をすゝむ。余三番町のお歌と別れてより正月になりても屠蘇を飲むべき家なし。此夕偶然椒酒の盃を挙げ得たり。実に意外の喜なり。食後直に家にかへる。
余年年の正月雑司ケ谷墓参の途すがら音羽の町を過るとき、必思出す事あり。そは八九歳のころ、たしか小石川竹早町なる尋常師範学校附属小学校にて交りし友の家なり。音羽の四丁目か五丁目辺の東側に在りき。鳩山一郎が門前に近きあたりのやうに思へど明ならず。表通にさゝやかなる潜門あり。それより入れば三四間ばかり(即表通の人家一軒ほどのあいだ)細き路地の如くになりし処を歩み行きて、池を前にしたる平家の住宅の縁先に出るなり。玄関も格子戸口もなかりき。縁先に噴井戸ありて井戸側より竹の樋をつたひて池に落入る水の音常にさゝやかなる響を立てたり。此井戸の水は神田上水の流なりといへり。夏には西瓜麦湯心天などを井の中に浮べたるを其の家の母なる人余が遊びに行く折取り出して馳走しくれたり。余が金冨町の家にはかくの如き噴井戸なく、また西瓜心天の如きものは害ありとて余は口にすることを禁じられ居たれば、殊に珍らしき心地して、此の家を訪ふごとに世間の親達は何故にかくはやさしきぞと、余は幼心に深く我家の厳格なるに引きかへて、人の家の気儘なるを羨しく思ひたりき。或日いつもの如く学校のかへり遊びに行きたるに、噴井戸の側に全身刺青したる男手拭にて其身をぬぐひゐたるを見たり。これは後に聞けば此家の主人にて、即余が学友の父なりしなり。思ふに顔役ならずば火消の頭か何かなるべし。されど唯一度遇ひしのみにて其後はいつもの如く留守なりしかば、いかなる人なるや其名も知らずに打過ぎたり。此家には噴井戸の水を受くる池のみならず、垣の後より崖の麓に至る空地にも池ありて、蓮生茂りたり。又崖は赤土にて巌のごとくに見ゆる処より清水湧出でたり 崖の上は高台なれど下より仰けば樹ばかり見えて人家は見えざるなり 余は友と共にこの池にて鮒を釣りたる事を記憶す。明治廿四年の春三条公爵葬儀の行列音羽を過ぎて豊嶋ケ岡の墓地に到りしことあり。余はその比既に小石川を去りて麹町永田町なる父の家に在りしが、葬式の行列を見んとて音羽なる友の家を訪ひ、其門前に佇立みゐたることあり。其後は学校も各異りゐたれば年と共にいつか交も絶え果て、唯幼き時の記憶のみ残ることゝはなれるなり。今は其人の姓名さへ思ひ出し得ざるなり。」

今宮神社近くの湧き水

荷風は、毎年雑司ケ谷への墓参りの途すがら音羽の町を過ぎるとき必ず思い出す、子供時代の友達との思い出を記している。その友の家は、荷風の実家などと違って、下町の気儘な家であったようである。子供時代の思い出に浸っているが、これは子供時代の実家のことを描いた小作品「」と通底するような気がする。友の家は、音羽通りの東側にあり、家の前には神田上水の流という噴井戸で池ができていた。そのあたりは音羽谷と小日向台地との崖の下で、そこから流れ出る湧き水と思ったが、そうではないようである。現在、今宮神社近くでその名残のような湧き水が左の写真のようにわずかに流れている(以前の記事参照)。

その池には、夏にすいかや麦茶やところてんなどを冷やし、荷風が遊びに行くと、それらを友の母がご馳走してくれた。荷風の家では、すいかやところてんなどは食べさせてもらえなかった。害があるということで禁じられていた。こういったことを書いているのは、上記のように記録した岩瀬家の墓碑銘から読みとられる悲劇と無関係ではないであろう。当時は、いまよりもずっと子供の死亡率が高く、跡継ぎの男児を無事に育てあげることが困難な時代で、荷風の家でも、そのため、子供に危険と考えられていた食物を制限していたのではないだろうか。しかし、それは大人の理屈で、荷風は、そのことを承知の上で、上記の「日乗」を書いている。そんなことは知らない壯吉少年にとって友の家はなんと自由で、うらやましかったことであろう。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
小西四郎「日本の歴史19 開国と攘夷」(中公文庫)

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雑司ケ谷霊園(2)

2011年05月02日 | 荷風

雑司ヶ谷霊園 部分案内地図 成島柳北の墓入口 成島柳北の墓 永井荷風は昭和11年(1936)元旦に雑司ケ谷霊園に亡父の墓参りにきているが、そのとき、小泉八雲、成島柳北、岩瀬鷗所の墓も訪れている。「断腸亭日乗」に次のようにある(以前の記事に全文あり)。

「正月元日。・・・日も晡ならむとする頃車にて雑司ヶ谷墓地に赴く。先考及小泉八雲、成島柳北、岩瀬鷗所の墓を拝し漫歩目白の新坂より音羽に出づ。・・・」

永井家の墓地からもとの大きい通り(管理事務所正面通り)に出て左折し、ちょっと進み、左の写真の案内地図(前回掲載の地図をトリミングした部分地図)のように、右手の区域(1-4B)に柳北の墓がある。以前訪れたことがあり、そのときのかすかな記憶にたよって右折するとすぐのところにあった。写真のように、1種4B号1側の標識が立っている。ここを入って右手二番めの墓地である。

成島柳北については、以前の記事でちょっとだけ触れたが、幕末に将軍侍講から武官となり、明治維新後に新聞の世界に入ってジャーナリストとして活躍した人物で、風流文人でもあり、荷風が私淑していた。

昭和二年(1927)の「日乗」に次の記述がある。

「正月二日 好晴、今日の如き温暖旧臘より曾て覚えざる所なり、午下自働車を倩ひ雑司ケ谷墓地に赴く、道六本木より青山を横ぎり、四谷津の守坂を下りて合羽坂を上り、牛込辨天町を過ぎて赤城下改代町に出づ、改代町より石切橋の辺はむかしより小売店立続き山の手にて繁華の巷なり、今もむかしと変る処なく彩旗提燈松飾など賑かに見ゆ、江戸川を渡り音羽を過ぐ、音羽の街路広くなりて護国寺本堂の屋根遥かこなたより見通さるゝやうになれり、墓地裏の閑地に群童紙鳶を飛ばす、近年正月になりても市中にては凧揚ぐるものなきを以てたまたま之を見る時は、そゞろに礫川のむかしを思ひ出すなり、又露伴先生が紙鳶賦を思出でゝ今更の如く其名文なるを思ふなり、車は護国寺西方の阪路を上りて雑司ケ谷墓地に抵る、墓地入口の休茶屋に鬼薊清吉の墓案内所と書きたる札下げたるを見る、余が馴染の茶屋にて香花を購ひまづ先考の墓を拝す、墓前の蠟梅馥郁たり、雑司谷の墓地には成島氏の墓石本所本法寺より移されたる由去年始めて大島隆一氏より聞知りたれば、茶屋の老婆に問ふに、本道の西側第四区にして一樹の老松聳えたる処なりといふ、松の老樹を目当にして行くに迷はずして直ちに尋到るを得たり、石の墻石の門いづれも苔むして年古りたるものなり、累代の墓石其他合せて十一基あり、石には墓誌銘を刻せず唯忌日をきざめるのみなり、歩みて再び護国寺門前に出で電車に乗りて銀座に抵るに日は忽ち暮れんとす、太牙楼に登り夕餉を食し家に帰らんとするに邦枝日高林の諸氏来りしかば、この夜もまた語り興じていつか閉店の刻限に至りぬ、日高氏と電車を与にして家に帰れば正に三更なり、」

この年、柳北の外孫の大島隆一からこの墓地に柳北の墓が本所本法寺から移ってきたことを聞いたらしく、茶屋の老婆に尋ね、はじめて訪れた。第四区というのは、いまの4A号、4B号であろうか。一樹の老松はいまはないようである。

ところで、この年の墓参りは車で行ったが、その道順に興味を覚える。津の守坂を下り合羽坂を上り、そこから、いまの外苑東通りを北上し、牛込辨天町を過ぎて赤城下改代町に出て、そこから、石切橋の辺を通り、江戸川を渡り、音羽の街路を通ったが、護国寺本堂の屋根を見通すことができた。墓地裏の閑地で子供たちが紙鳶を飛ばしているのを見て礫川のむかしを思ひ出した。護国寺西方の坂道を上って雑司ケ谷墓地に至った。護国寺西方の坂道とは、小篠(こざさ)坂であろう。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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雑司ケ谷霊園(1)永井荷風の墓

2011年04月30日 | 荷風

雑司ケ谷霊園に永井荷風などのお墓を訪ねた。
午後副都心線雑司が谷駅下車。

雑司が谷都電荒川線 雑司が谷霊園出入口御嶽坂上 出入口近くの案内図 霊園案内図 雑司ケ谷霊園には、これまで二回ほど訪れているが、アクセスは、有楽町線東池袋駅からと、坂巡りの途中護国寺からであった。今回、はじめて副都心線雑司が谷駅から行ってみた。

一番出口から出ると、眼の前に都電荒川線が走っている。この線路を左に見てしばらく歩き、右折していくと、清立院の前に出るが、ここを上るのが御嶽坂である。この坂を上り、坂上の出入口から霊園に入る。

まず、永井荷風の墓を目指す。きょう(4月30日)は、荷風の祥月命日である。このため、きょう出かけてきた。

荷風の墓は、入口に立っている案内図(上の写真)の1-1(1種1号)の区域にある。さらに詳しくは、右の写真の案内地図のように、1-1-7と8の間である。この案内地図は、以前にきたとき、管理事務所においてあったものである。こういった墓地で困るのは、墓の位置を探すことが難しいことで、このような案内地図が必携である。

荷風墓入口 永井家の墓 荷風と父禾原の墓 荷風と父禾原の墓霊園の中の木々も新緑で、気持ちのよい散歩ができる。ときおり、線香の匂いがしてくるのは場所柄やむをえない。しばらく歩くと、永井家の墓地の入口につく。左の写真のように、1種1号8側の標識が立っているところを入ると、左手2番めである。

生け垣に囲まれているところで、こぢんまりとしているが落ち着いた感じがする。真ん中が荷風の墓で、その左が荷風の父禾原(かげん)の墓であるが、風化して、「禾原先生墓」のうち、「禾」、「生」の字が読めるだけである。禾原は、父久一郎の号である。命日のためか、花が供えられ、また、缶コーヒーも供えられている。

墓石の裏の墓碑を見ると、荷風のは、「永井壯吉 昭和三十四年四月三十日卒 享年七十九」と刻んでいる。父禾原の方は、「永井久一郎尾張□大正二年一月二日卒 享年六十二」で、□の部位が不明であるが、尾張の出身であるので、そのような意味であろう。

荷風とその父は、生前、かなり葛藤があったようであるが、いま、仲よく墓が並んでいる。

荷風は、父の死後、その祥月命日である正月2日によくこの雑司ケ谷霊園に墓参りに訪れている。たとえば、「断腸亭日乗」大正七年(1918)の正月には次の記述がある。(先考とは、亡父のことである。)

「正月二日。暁方雨ふりしと覚しく、起出でゝ戸を開くに、庭の樹木には氷柱の下りしさま、水晶の珠をつらねたるが如し。午に至つて空晴る。蠟梅の花を裁り、雑司谷に徃き、先考の墓前に供ふ。音羽の街路泥濘最甚し。夜九穂子来訪。断腸亭屠蘇の用意なければ倶に牛門の旗亭に徃きて春酒を酌む。されど先考の忌日なればさすがに賤妓と戯るゝ心も出でず、早く家に帰る。」

次の年(大正八年)は、三日に出かけている。二日の「日乗」に、「午後墓参に赴かむとせしが、悪寒を覚えし故再び臥す。」とあり、命日には行けなかったようである。

「正月三日。快晴稍暖なり。午後雑司谷に徃き、先考の墓を拝す。去月売宅の際植木屋に命じ、墓畔に移し植えたる蠟梅を見るに花開かず。移植の時節よろしからず枯れしなるべし。夕刻帰宅。草訣辨疑を写す。夜半八重福来り宿す。」

大正九年、十年には行かず、大正十一年(1922)に次のようにある。

「正月二日。正午南鍋町風月堂にて食事をなし、タキシ自働車を雑司ケ谷墓地に走らせ先考の墓を拝す。去年の忌辰には腹痛みて来るを得ず。一昨年は築地に在り車なかりしため家に留りたり。此日久振にて来り見れば墓畔の樹木俄に繁茂したるが如き心地す。大久保売宅の際移植したる蠟梅幸にして枯れず花正に盛なり。此の蠟梅のことは既に断腸亭襍稾の中に識したれば再び言はず。」

去年と一昨年に墓参ができなかったわけを一一記しているが、荷風の律儀さがあらわれている。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
松本哉「永井荷風ひとり暮し」(朝日文庫)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂)

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永井荷風生家跡(3)

2011年02月23日 | 荷風

荷風は、小石川金冨町の生家の近くには、何回も訪れており、「断腸亭日乗」にたびたび登場する。

大正八年(1919)9月29日「九月廿九日。東京建物会社々員某来り、小石川金冨町に七十坪程の売地ありと告ぐ。秋の日早くも傾きかけしが、社員に導かれて赴き見たり。金冨町は余が生れし処なれば、若し都合よくば買ひ受け、一廬を結び、終焉の地になしたき心あり。金剛寺阪を上り、余が呱呱の声を揚けたる赤子橋の角を曲り行けば、売地は田尻博士の屋敷と裏合せになりし処にて、鄰家は思案外史石橋先生の居邸なり。傾きたる門を入るに、家の雨戸は破れ、壁落ち、畳は朽ちたり。庭には雑草生茂りて歩む可からず。片隅に一株の柿の木あり。其の実の少しく色づきしさま人の来るを待つが如く、靴ぬぎ石のほとりに野菊と秋海棠の一二輪咲き残りたる風情更に哀れなり。門を出で近巷の模様を問はむと石橋先生を訪ふ。玄関先にて立話をなし辞して帰りぬ。余は先生の俄に老ひたまひし姿を見て、また多少の感なきを得ざりき。此の日目にするもの平生に異り、一ツとして人の心を動かさざるは無し。晩秋薄暮の天、幽暗なること夢のやうなりし故なるべし。」

荷風は、この日、生家近くに売地があるということで、検分に来たが、かなり乗り気であったようである。終焉の地にしたいというすこし大げさな言い方がそれを物語っている(もっとも荷風はよくこういった言い方をするが)。この当時、荷風は、大久保余丁町の屋敷を引き払い築地に住んでいたが、そこでの生活に飽き、さらには嫌気もさしてきて、山の手方面への移転を考えていた(以前の記事参照)。このため、単に生まれた処であるというだけでなく、こういった当時の事情もあって、いっそう心動いたのではないだろうか。こういったときは、売地の荒れた様子も風情があって好ましく感じられる。この日のことは特別に印象に残ったようである。

売地は田尻博士の屋敷と裏合せで、隣は石橋思案先生の家であった。松本にある地図によると、田尻邸は生家の北隣で(赤子橋から坂を上った先)、石橋邸は、その先(春日通りの手前)を左折してちょっと歩いたところであった。これからその売地の位置がだいたいわかる。荷風が訪ねた石橋思案とは、尾崎紅葉率いる硯友社の一員で、荷風の師広津柳浪の先輩に当たる(松本)。

その後、十月六日の日乗によると、ここは、結局、価格のことであきらめている。このとき石橋先生に挨拶に行っているが、荷風の律儀さがよくあらわれている。

昭和11年(1936)「十一月十二目。天気牢晴。正午窓前蝶の舞ふを見たり。一は白一は黄なり。立冬の節を過ること数日にして蝶を見るは珍しきことなり。午後写真機を携へ、小石川金剛寺阪上に至り余が生れたる家のあたりを撮影す。蜀山人が住みたりし鶯谷に至りて見しが陋屋立て込み、冬の日影の斜にさし込みたれば、そのまゝ去りて伝通院前より車に乗りて帰る。燈刻尾張町不二アイスに飯す。帰宅後執筆。
 〔欄外墨書〕金冨町四十五番地赤子橋」

この日、荷風は写真機を持って生家のあたりを撮影したとあるが、そのときの写真はどうなったのだろうか。蜀山人が住んだ鶯谷とは金剛寺坂の近くである。欄外に、赤子橋の住所を記しているのが注意を引く。

昭和16年(1941)9月28日「九月念八。秋陰暗淡薄暮の如し。午後小石川を歩す。伝通院前電車通より金富町の小径に入る。幼時紙鳶あげて遊びし横町なり。一間程なる道幅むかしのまゝなるべく今見ればその狭苦しきこと怪しまるゝばかりなり。旧宅裏門前の坂を下り表門前を過ぎて金剛寺坂の中腹に出づ。暫く佇立みて旧宅の老樹を仰ぎ眺め居たりしが、其間に通行の人全く絶えあたりの静けさ却てむかしに優りたり。坂を上り左手の小径より鶯谷を見おろすに多福院の本堂のみむかしの如くなれど、懸崖の樹木竹林大方きり払れ新邸普請中のところ二三箇処もあり。昭和十一二年頃来り見し時に比すれば更に荒れすさみたり。牛込赤城の方を眺むる景色も樹木いよいよ少くセメントの家屋のきたらしさ目に立ちて、去大正十二年地震後に来り見し時の面影はなし。その時筆にせし礫川徜徉記を今読む人あらば驚き怪しむべし。此のあたりの屋敷の門札にてむかしと変りなきはわが生れし家の跡に永田とかきたるもの、又金剛寺坂左側の駒井氏、右側の岩崎氏、其鄰の石橋氏なり。その筋向に稲荷の祠あり。余の遊びし頃には桐畑なり。今は小屋むさくろしく立ち込みたり。・・・」

荷風生家跡わき坂上 金剛寺坂中腹 この日、荷風は、春日通りの方から小路に入ったが、そこは子供のころ凧あげをして遊んだ横町である。子供時代の記憶は消えることはない。旧宅裏門前の坂を下り表門前を過ぎて金剛寺坂の中腹に出たとあるが、裏門前の坂は赤子橋に下る坂である。左の写真は坂上を坂下から撮ったもので、この坂上に裏門があった。右の写真は金剛寺坂の中腹から坂上側を撮ったもので、右折すると荷風生家跡へ至る。そこで、旧宅の老樹を仰ぎながめたが、人通りがまったくなく、静けさはむかしに優るといっている。今もかなり静かなところである。

昭和24年(1949)10月22日「十月廿二日。微雨。午後に歇む。小石川の焼跡を見むとて省線電車飯田橋駅より江戸川端を歩みて安藤坂を登る。牛天神の岡は樹本さへ無し。坂上三井の屋敷も草原なり。余の生れたる赤子橋際の家も焼けて樹木もなし。金剛寺裏鶯谷も焼払はれ多福院の堂宇もまた見るべからず。茗荷谷も草原なり。切支丹阪上にて亀井戸行の電車に乗り本郷を過ぐ。富坂上焼けざるところあり。厩橋にて電車を降り浅草を歩み押上より京成電車にてかへる。」

荷風は、69歳、戦後のこの頃、市川に住んでいたが、この日、飯田橋駅まで省線(いまの総武線)できて、神田川沿いに歩き、安藤坂を上ったようである。生家あたりの戦災の様子を知りたかったのであろう。まだ生家のあたりに愛着を持っていたようである。牛天神の岡、安藤坂上の三井屋敷、赤子橋際の家(生家)、金剛寺裏鶯谷、多福院の堂宇、茗荷谷すべて焼けて、なにもなかった。

以上以外にも日乗には生家近くに来たことが記されている。たとえば、大正13年(1924)4月20日、昭和8年(1933)正月元旦、昭和19年(1944)9月21日("牛天神~牛坂"の記事参照)。

荷風は、まさしく、生涯にわたって、「おのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来」(「伝通院」)ないのであった。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
松本哉「荷風極楽」(朝日文庫)

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永井荷風生家跡(2)

2011年02月22日 | 荷風

荷風生家跡近く 荷風生家跡近く 荷風生家跡近く 『御府内備考』の金杉水道町の書上に荷風生家近くの赤子橋があることを前回の記事で紹介したが、尾張屋板江戸切絵図を見ると、アカコバシとある道の北側に小石川金杉水道町がある。現在、説明板のある角を曲がった上り坂を北へ進むと、やがて、春日通りに至るが、その手前一帯付近と思われる。写真は次の週に再訪し、春日通りから入って撮ったものである。

荷風は、明治43年(1910)執筆の随筆「伝通院」の冒頭で生家のことを次のように回想している。

「われわれはいかにするともおのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来まい。
 もしそれが賑な都会の中央であったならば、われわれは無限の光栄に包まれ感謝の涙にその眼を曇らして、一国の繁華を代表する偉大の背景を打目戌(うちまも)るであろう。もしまたそれが見る影もない痩村(やせむら)の端れであったなら、われわれはかえって底知れぬ懐しさと同時に悲しさ愛らしさを感ずるであろう。
 進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。私は都会の北方を限る小石川の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す。
 十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って飯田町に家を借り、それから丁度日清戦争の始まる頃には更に一番町へ引移った。今の大久保に地面を買われたのはずっと後の事である。
 私は飯田町や一番町やまたは新しい大久保の家から、何かの用事で小石川の高台を通り過る折にはまだ二十歳にもならぬ学生の裏若い心の底にも、何とはなく、いわば興亡常なき支那の歴代史を通読した時のような淋しく物哀れに夢見る如き心持を覚えるのであった。殊に自分が呱々(ここ)の声を上げた旧宅の門前を過ぎ、その細密(こまか)い枝振りの一条(ひとすじ)一条にまでちゃんと見覚えのある植込の梢を越して屋敷の屋根を窺い見る時、私は父の名札の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に進入る事ができなくなったのかと思うと、なお更にもう一度あの悪戯書で塗り尽された部屋の壁、その窓下へ掘った金魚の池なぞあらゆる稚時(おさなどき)の古跡が尋ねて見たく、現在其処に住んでいる新しい主人の事を心憎く思わねばならなかった。
 私の住んでいる時分から家は随分古かった。それ故、間もなく新しい主人は門の塀まで改築してしまった事を私は知っている。乃(すなわ)ち私の稚時の古跡はもう影も形もなくこの浮世からは湮滅(いんめつ)してしまったのだ……」

生家(の想い出)に対してかなりの入れ込みようである。前回の小作品「狐」もこの文脈で理解すべきなのかもしれない。この世のほとんどのおさなどきの古跡などは消え去っているのが常であろう。それゆえに「狐」のような過去に執着する作品が生まれるのであろうか。(なお、金富町から大久保余丁町に移るまでについては以前の記事参照。)

荷風生家跡 荷風生家跡 金剛寺坂付近地図 荷風の父久一郎は明治26年(1893)11月この金富町の屋敷を売却したが、その売却先は、永田清三郎という人で、この人の孫の諸井勝之助(その屋敷で生まれ、20年を過ごした)が家にあった売却時の証書や屋敷の図面を、戦後、荷風に郵送したという。

昭和27年(1952)12月23日「断腸亭日乗」に次の記述がある。

「十二月廿三日。晴。諸井勝之助(文京区真砂町十七)といふ人より余が父小石川金冨町の邸宅を売払ひし時の証書及地図を送り来る。返書を裁して其厚情を謝す。証書地図面は買主の家に在りし由。大畧左の如し。」

証書の内容も記しているが、それによると、屋敷の坪数は、実測で463坪 内54坪崖地であった。1500平方m程度で、当時でもかなり広い屋敷であったと思われる。

概略位置は、上右の写真の地図で、春日二丁目の下に赤字で「現在位置」とあるところの右側一帯であった。

松本哉「荷風極楽」(朝日文庫)によれば、諸井勝之助に「荷風の手紙」という一文があり、それによると、金剛寺坂の中腹と、前回のクランク状の道筋との間の道(上中の写真の道)に面して正門があり、金剛寺坂から来て門前を過ぎてすぐ左折すると、坂のある小道に入るが、その小道に入る際に渡る橋が赤子橋(昭和初期には平らな自然石を溝の上に敷き並べただけの橋であったという)で、上り坂の終わるあたりに裏門があったとのことである。

松本に、上記の一文を参照して文字を入れた屋敷の図面がのっている。それによると、ケヤキやムクなどの大木などとともに広い庭があったようである。この片隅に狐の穴があったのであろう。この図面を見ながら「狐」を読むのもおもしろいと思う。
(続く)

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)

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