堀田善衛 著 2010-03-22
上海日記 滬上天下 一九四五 を読んでいます。
尊敬する友人のイソヤンさんが貸して下さいました。
私が上海で生まれなので、きっと面白いんじゃない
ですか?と言うことで貸してくれたのですが、正に
その通りです。
日本が戦争に負ける前後、日本が占領していた上海
で、今は亡き自分の父(当時37歳)が何を見、何を
考え、どんな行動を取っていたのか、周囲の中国人は
日本を日本人をどのように見、どのように扱ったのか?
1945年8月15日を境目に、どのように変わったのか。
是非知りたかったことです。
当時、堀田氏は29歳、日本に妻子を残しての単身赴任、
バンドの西の方愚園路に住んでいました。我が家は、
父母と私と母の兄と一緒にバンドの北、ダラッチ路に
住んでいました。私は当時7歳、上海の記憶は私の脳に
定着していません。だからこそ堀田氏の目と脳を通じて、
私が大人であったら、どのような生活を送ることになった
のだろうと言う意識で読んでいます。
私が一番知りたかったことは、敗戦の日以後、占領者で
あった日本人は、中国人からどのような扱いとか、仕打
ちを受けたのかです。自分の半分消えてしまった記憶
では、イギリス租界の我が家から何処かへ移住させられ、
一軒の家に何世帯も詰め込まれ、一部屋に一世帯の
不自由な生活となり、国民学校1年生であった私は、近く
の教会での寺小屋教育となり、教科書のアチコチは墨で
塗りつぶされていました。ただ中国人との関係は記憶が
全く無いのです。想像するに、街の或る一角に日本人を
押し込めたので、その区域は、日本人の密度が非情に
高くなっていた筈で、そのために、中国人との接触が
無かったのではないかと。ただ、親から中国人と接触
してはいけないと言われた記憶は無いし、日本人が
襲われたと言うことを聞いたことも有りません。
堀田氏の日記を見る。1945年8月11日。〔この日、上海
の中国人社会には、日本が負けたとの情報が流れ、
日本人は半信半疑・・・arui注〕
『バンドの終点で電車を下りる・・・略
事務所で新聞を見たが、ソ連軍もさして進んではゐない。
しかし戦火は全満国境に波及してしまったやうである。
・・・略・・・暫くすると詩人路易士が手を大きく拡げて、そ
こにゐる人間達をみんな抱擁するやうな表情を身体全部
で現して、現れた。そして僕たちに近づくや否や、和平!
和平!和平です!と云って「中華日報」の「和平号外」な
るものをポケットから持ち出して、みんなに配った。
「和平です、和平です、戦争済みました」「私のところ号外
一番早い」
なみゐる日本人の僕らはみな暗い表情になった、と同時に
何とも云えぬ苦いものがこみ上げて来、眼のやり場に困っ
た。武田〔泰淳〕氏は眼を大きくまるくして、号外を読み込
んでゐた。私も読んだ。
・・・根据十日夜東京広播 日本天皇陛下切欲世界和平』
氏はこの後、蒋介石政権の宣伝部で中国人の下で働きな
がら、日本へ帰ってくるのが敗戦2年後となる。
上海日記 滬上天下 一九四五 を読んでいます。
尊敬する友人のイソヤンさんが貸して下さいました。
私が上海で生まれなので、きっと面白いんじゃない
ですか?と言うことで貸してくれたのですが、正に
その通りです。
日本が戦争に負ける前後、日本が占領していた上海
で、今は亡き自分の父(当時37歳)が何を見、何を
考え、どんな行動を取っていたのか、周囲の中国人は
日本を日本人をどのように見、どのように扱ったのか?
1945年8月15日を境目に、どのように変わったのか。
是非知りたかったことです。
当時、堀田氏は29歳、日本に妻子を残しての単身赴任、
バンドの西の方愚園路に住んでいました。我が家は、
父母と私と母の兄と一緒にバンドの北、ダラッチ路に
住んでいました。私は当時7歳、上海の記憶は私の脳に
定着していません。だからこそ堀田氏の目と脳を通じて、
私が大人であったら、どのような生活を送ることになった
のだろうと言う意識で読んでいます。
私が一番知りたかったことは、敗戦の日以後、占領者で
あった日本人は、中国人からどのような扱いとか、仕打
ちを受けたのかです。自分の半分消えてしまった記憶
では、イギリス租界の我が家から何処かへ移住させられ、
一軒の家に何世帯も詰め込まれ、一部屋に一世帯の
不自由な生活となり、国民学校1年生であった私は、近く
の教会での寺小屋教育となり、教科書のアチコチは墨で
塗りつぶされていました。ただ中国人との関係は記憶が
全く無いのです。想像するに、街の或る一角に日本人を
押し込めたので、その区域は、日本人の密度が非情に
高くなっていた筈で、そのために、中国人との接触が
無かったのではないかと。ただ、親から中国人と接触
してはいけないと言われた記憶は無いし、日本人が
襲われたと言うことを聞いたことも有りません。
堀田氏の日記を見る。1945年8月11日。〔この日、上海
の中国人社会には、日本が負けたとの情報が流れ、
日本人は半信半疑・・・arui注〕
『バンドの終点で電車を下りる・・・略
事務所で新聞を見たが、ソ連軍もさして進んではゐない。
しかし戦火は全満国境に波及してしまったやうである。
・・・略・・・暫くすると詩人路易士が手を大きく拡げて、そ
こにゐる人間達をみんな抱擁するやうな表情を身体全部
で現して、現れた。そして僕たちに近づくや否や、和平!
和平!和平です!と云って「中華日報」の「和平号外」な
るものをポケットから持ち出して、みんなに配った。
「和平です、和平です、戦争済みました」「私のところ号外
一番早い」
なみゐる日本人の僕らはみな暗い表情になった、と同時に
何とも云えぬ苦いものがこみ上げて来、眼のやり場に困っ
た。武田〔泰淳〕氏は眼を大きくまるくして、号外を読み込
んでゐた。私も読んだ。
・・・根据十日夜東京広播 日本天皇陛下切欲世界和平』
氏はこの後、蒋介石政権の宣伝部で中国人の下で働きな
がら、日本へ帰ってくるのが敗戦2年後となる。