散歩、日吉⇒元住吉 2007年3月7日
昨日、天気の良いのに誘われて、かねて行きたいと思っていた
東急電車東横線の日吉から元住吉まで散歩しに出かけました。
ここは、私が小学校2年から中学を卒業するまで住んでいた町
です。と言うことは、50年以上も昔のことになります。その後
何度か訪ねたことはありますが、私が住んで居た頃と大きく
変わってしまったことは勿論です。
日吉は、小学校2年の頃には、食料配給の一環としての食パン
を買いに行きました。神奈川県のマークの入ったクーポン券
を持って、一定量の食パンを買うのです。その量以上は、買い
たくても買えない(だから配給なのです)仕組みでした。食
パンの配給は間もなく終了したように記憶してます。その頃
我が家から日吉の駅の近くのパン屋まで、随分遠かったように
記憶していましたが、今歩いてみると、すぐ近くでした。
当時の我が家は木月3丁目1126だったように覚えていますが
今は木月47番になっていました。私たちが住んでいた建物が
完全に取り壊されて、一旦更地にして、住宅分譲をしたようで
昔の家に通じる道路の形状が全く変わっていました。
私はチャコを背中に背負って、かなり細い通路の中まで入り
誰か知っている人は住んでいないか探しましたが、ダメでした。
ここは、毛利さん、ここは椎名さん、ここは同級生の長井弘君
ここは同級生の白井マチコちゃんと思い出しながら各家の表札を
見ましたが一軒としてそれに該当する家は有りませんでした。
ま、当然でしょうね、そう言う自分が既にそこを離れていた
訳ですから。もう諦めかけた時に、道路の向こうに細い道が
見えました。道路から直角に入る通路です。そうだあの道は
私の記憶では行き止まりで、3軒の家があった筈だ。その通路を
見たことで急に記憶が蘇りました。最初の家は妹と同年の子が
居た小林さん、その隣が私より年上の男の子が居た古田さん、
そう思い出しながら表札を見ると小林となっていました。
更に奥に入ると次の家は古田さん、間違い有りません。初めて
昔からの家を見つけました。やはり道は行き止まりです。すると
何かお探しですか?と声を掛けられました。古田さんの家の庭
からです。私は「はい、昔この辺りに住んで居た者ですが、久し
振りに自分の家の跡を見に来ました」と答えました。
その男の人は、「どの辺に住んでました?」私「道路の向こう
です」、彼「するとフジコシの寮のあたりですか?」、私
「そうです」、彼「じゃー全然変わっちゃって判らないでしょう」
私「はい、まったく判りません。でもここが変わらないので、
確認できました」、彼「えー、うちとこの両隣は変わってません」
私「はい、小林さんとことうちの妹が同年でした」、彼「え?
貴方は誰?何年生まれ?」私「○○、昭和13年です」彼「そう
私は昭和8年」、私の記憶と一致します。
彼に私の知っている幼馴染の友の名前を言うと、殆どが死にまし
たと言う答えでした。これはショックですね。私は礼を述べて、
そこを立ち去りました。元住吉の駅を通り越して、木月伊勢町へ。
高校生になった時に引っ越した場所です。昔の我が家の前に立つ
と、建物は別のものに変わっていました。東横線の向こう側の
関東労災病院も新しくなっていました。我が家の隣の教会は、
変わらずに在りました。山に同行した矢田部さんの家に行ってみ
ました。全く変わってしまって別の人の家がありました。
だいぶ歩いたので、帰ることにして元住吉駅まで戻りました。
駅は線路が上下2段になり、東急目黒線がここまで延長される
とのことでした。改札を出たところに植え込みがあり、テーブル
と椅子が置かれて、coffeeショップでorderした飲み物を椅子や
ベンチで飲めるようになっていました。東横線で元町中華街まで
乗り、元町を歩いてぬけて、石川町から自宅の駅までJRで帰って
きました。浦島太郎の気分です。
昨日、天気の良いのに誘われて、かねて行きたいと思っていた
東急電車東横線の日吉から元住吉まで散歩しに出かけました。
ここは、私が小学校2年から中学を卒業するまで住んでいた町
です。と言うことは、50年以上も昔のことになります。その後
何度か訪ねたことはありますが、私が住んで居た頃と大きく
変わってしまったことは勿論です。
日吉は、小学校2年の頃には、食料配給の一環としての食パン
を買いに行きました。神奈川県のマークの入ったクーポン券
を持って、一定量の食パンを買うのです。その量以上は、買い
たくても買えない(だから配給なのです)仕組みでした。食
パンの配給は間もなく終了したように記憶してます。その頃
我が家から日吉の駅の近くのパン屋まで、随分遠かったように
記憶していましたが、今歩いてみると、すぐ近くでした。
当時の我が家は木月3丁目1126だったように覚えていますが
今は木月47番になっていました。私たちが住んでいた建物が
完全に取り壊されて、一旦更地にして、住宅分譲をしたようで
昔の家に通じる道路の形状が全く変わっていました。
私はチャコを背中に背負って、かなり細い通路の中まで入り
誰か知っている人は住んでいないか探しましたが、ダメでした。
ここは、毛利さん、ここは椎名さん、ここは同級生の長井弘君
ここは同級生の白井マチコちゃんと思い出しながら各家の表札を
見ましたが一軒としてそれに該当する家は有りませんでした。
ま、当然でしょうね、そう言う自分が既にそこを離れていた
訳ですから。もう諦めかけた時に、道路の向こうに細い道が
見えました。道路から直角に入る通路です。そうだあの道は
私の記憶では行き止まりで、3軒の家があった筈だ。その通路を
見たことで急に記憶が蘇りました。最初の家は妹と同年の子が
居た小林さん、その隣が私より年上の男の子が居た古田さん、
そう思い出しながら表札を見ると小林となっていました。
更に奥に入ると次の家は古田さん、間違い有りません。初めて
昔からの家を見つけました。やはり道は行き止まりです。すると
何かお探しですか?と声を掛けられました。古田さんの家の庭
からです。私は「はい、昔この辺りに住んで居た者ですが、久し
振りに自分の家の跡を見に来ました」と答えました。
その男の人は、「どの辺に住んでました?」私「道路の向こう
です」、彼「するとフジコシの寮のあたりですか?」、私
「そうです」、彼「じゃー全然変わっちゃって判らないでしょう」
私「はい、まったく判りません。でもここが変わらないので、
確認できました」、彼「えー、うちとこの両隣は変わってません」
私「はい、小林さんとことうちの妹が同年でした」、彼「え?
貴方は誰?何年生まれ?」私「○○、昭和13年です」彼「そう
私は昭和8年」、私の記憶と一致します。
彼に私の知っている幼馴染の友の名前を言うと、殆どが死にまし
たと言う答えでした。これはショックですね。私は礼を述べて、
そこを立ち去りました。元住吉の駅を通り越して、木月伊勢町へ。
高校生になった時に引っ越した場所です。昔の我が家の前に立つ
と、建物は別のものに変わっていました。東横線の向こう側の
関東労災病院も新しくなっていました。我が家の隣の教会は、
変わらずに在りました。山に同行した矢田部さんの家に行ってみ
ました。全く変わってしまって別の人の家がありました。
だいぶ歩いたので、帰ることにして元住吉駅まで戻りました。
駅は線路が上下2段になり、東急目黒線がここまで延長される
とのことでした。改札を出たところに植え込みがあり、テーブル
と椅子が置かれて、coffeeショップでorderした飲み物を椅子や
ベンチで飲めるようになっていました。東横線で元町中華街まで
乗り、元町を歩いてぬけて、石川町から自宅の駅までJRで帰って
きました。浦島太郎の気分です。