写真1
写真2
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弊ブログ2011年01月10日などで紹介した物木の中央排水路
下流で物木集水路(写真2)となり、印旛沼につながる
弊ブログ2011年01月12日・13日で紹介した暗渠修復の男性が、中央排水路に“鯉がいるよ”と教えてくださる
さっそく、修復現場近くの中央排水路へ行く
いた、いた、泳いでいた(写真1)、シャッターをきる
さて、物木集水路の中流に立地する押付新田の荒井家に、1842(天保13)年の日記が遺されている(注1)
その旧暦03月24日に次のような記載がある
「笠神村新田迄鯉上リ候と言、境田迄も行候と言、物木落堀ニ而も
笠神村新右衛門殿鯉沢山取候と言事也、外ニも取候者間々有リと言事也」
すなわち約170年昔も、押付新田の上流に立地する笠神村新田の用排水路や物木落堀(中央排水路や物木集排水路)に鯉が印旛沼から泳ぎ上っていた
その鯉を笠神村の新右衛門などが獲っていた
筆者は、約170年前から写真1の現在まで鯉が泳いでいる要因を考えた
一つは鯉の遡上を妨げない水路構造が維持され、印旛沼から遡上できる
二つは地下水位が高い。印旛沼の周りゆえ
三つは谷戸の湧水
水稲不栽培期は国営印旛沼干拓・開発事業や千葉県営圃場整備事業などによる印旛沼からの用水はストップ
それにも関わらず、中央排水路に湧水と地下水が流入しているので鯉は泳げる
四つは湧水をとりまく自然・農業・社会など多岐にわたる環境のバランス良い維持
江戸時代後期から今日まで約170年間、物木の里山は大規模住宅地などに開発されず、保水力を維持
今後とも鯉が泳ぎ続けることを祈念
注1:『本埜村史 史料集近世編二 埜原新田関係文書』403-450頁
執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2010年03月13日 撮影地:千葉県印西市物木