陸前高田本称寺へ。
そこで、仮に作られた小屋で、立派な祭壇の前で、お経をあげる。
祭壇も仏像も全て寄進されたという。
そこの今の住職さんから、あの津波の経験を聞く。涙無しには聞けなかった。
その時、御自身と近くのおばあさんと妹さんと、2階の住居に上がったが、そこにも水が上がって来て、最終的には、ご自身は外に流され、何とか助け出された。
でも、一緒にいたおばあさんは、流された住居の中で見つかり、妹さんは後に遺体安置所で見つかり、本堂にいたはずの住職はいまだに見つかっていないという。
役所に勤めていた奥さんの行方が分からず、探していたら、まず財布が見つかって、中のお金もカード類全てが無事だったと言う。
あの、津波が引いた後に、沢山の人達が略奪に来たそうだ。いろいろな人達が来て、あらゆるものを持って行ったそうだ。民家や工場やお店等のガレキの中から。
最終的には、遺体安置所で奥さんは見つかった。その間、いろいろなデマや噂が飛び交い、大変だったそうだ。
奥さんの親戚に預かってもらっていた子供達を引き取りに行き、高台から子供達と見降ろした時、何も無い陸前高田市、見渡す限りの破壊された町の風景に、ただただ、呆然と笑ってしまったそうだ。
お寺さんも、残ったのは石段だけだったと。
そして、娘さんの話し。
あの、朝日新聞の一面に載っていた、“トランペットの少女” 。
娘さんが、「お母さんの為にトランペットを吹きたい」 と言った時に、迷ったそうだ。
というのは、その頃、あまりにもメディアの態度が酷かったのだそうだ。その彼らに娘の写真を取られるのが嫌だったので、メディアのいない時間帯に一緒に行って娘さんを見守ったそうだ。
その時、朝日新聞の記者が写真を撮らせてくれと、言って来た。
その記者が、涙を流し泣きながら話しかけて来て、この人なら、写真を撮らせても大丈夫だろうと。
それが、日本中の世界中の心を揺さぶった、トランペットの少女だったとは…。
その話を聞きながら、涙が止まらなかった。
仮設にいた時に、娘さんが、壁が薄いため隣の住居の人達を気にして夜、声を殺して泣くので、夜中に車を出し、その中で思い切り泣かせてあげたそうだ。悲しい時には、思い切り泣かないといけないと。
沢山の人々が亡くなり、一人一人にドラマがあり、悲しみがあり苦しみがある。
お話を聞くのが30分の予定だったが、たんたんと経験を話された時間は1時間を超えていた。
父親の住職が亡くなり、今は住職になった彼は、やっと、仮設の小さな本堂を建てた時に、檀家の人に、テントでいいから、もっと早くにお参りする所を作って欲しかったと言われた。
私にも分かるが、大切な人が亡くなった時に、手を会わせ話しかける場所が必要なのだ、
外には、ガレキの中から見つかった、梵鐘があった。“わすれなの鐘”と言われているそうだ。お坊さんが鐘をたたく。私達は手を会わせる。
バスに乗り、ガイドさんの話を聞く。
何も無い、本当に何も無い場所を、「ここに駅前のロータリーがあったんですよ」 と。
海の近くに、あの、一本松。7万本あった松の残った1本。今はレプリカだそうだが。
そして、その一本松を取り囲むように、銀色に光るベルコンベヤ。
そのベルトコンベヤは、土がむき出しになった山から延々と延びている。
3キロ、そして、120億円を費やして作ったそうだ。
この陸前高田市は、今、住宅を作るために、かさ上げする為の膨大な量の土が必要だった。その土は、一つの山を崩して運ぶ事になり、初めはダンプで運んでいたが、主要な道路が1本しかないため、それでなくても渋滞するのに、とても何十台のダンプで運ぶ事が困難で、急遽、山から道路をまたいで作られたそうだ。
今、鉄道は、線路を舗装し、そこをバスが走っている。ラビッドトランジットバス、略してBRTという。
初めは、本数も少なく、時間もめちゃめちゃで利用しずらかったそうだが、今は、1日30本ほどに増え、時間もほぼ予定通りになり、便利になったそうだ。以前の電車は1日10本だったそうだが。
3人の方々にお話を聞き、ガイドさんにもあの震災の話しを聞き、皆さんがおっしゃっていた事は、一つ。
私達を忘れないで下さい。
ここで、見た事・聞いた事を、帰ってから皆に伝えて下さい。
あれから、丸3年。でも、まだまだ、被災地は復興には遠い。東京にいると、日々忙しくて、思い出してあげる事も少なくなっている。
被災地に訪れる人達も、日々少なくなっているそうだ。
同じホテルに、ある大会社の新入社員が社会貢献研修に来ていた。
「僕達、何にも役に立てなくて」 と節目がちに言う。
「ここで、見たり聞いたり体験した事は、絶対に心に残り、あなた方の人生にプラスになると思うよ」
そして、私達の団体は、皆、年配者ばかりだけど、日本の未来はあなた達。よりよい日本をお願いね、と余計な事を言ってしまった。
一度は行ってみたいと思っていたから、本当に参加してよかった。
最後は中尊寺を観光して帰りの新幹線へ。
津波の爪後の写真。
津波の浸水区間
そこで、仮に作られた小屋で、立派な祭壇の前で、お経をあげる。
祭壇も仏像も全て寄進されたという。
そこの今の住職さんから、あの津波の経験を聞く。涙無しには聞けなかった。
その時、御自身と近くのおばあさんと妹さんと、2階の住居に上がったが、そこにも水が上がって来て、最終的には、ご自身は外に流され、何とか助け出された。
でも、一緒にいたおばあさんは、流された住居の中で見つかり、妹さんは後に遺体安置所で見つかり、本堂にいたはずの住職はいまだに見つかっていないという。
役所に勤めていた奥さんの行方が分からず、探していたら、まず財布が見つかって、中のお金もカード類全てが無事だったと言う。
あの、津波が引いた後に、沢山の人達が略奪に来たそうだ。いろいろな人達が来て、あらゆるものを持って行ったそうだ。民家や工場やお店等のガレキの中から。
最終的には、遺体安置所で奥さんは見つかった。その間、いろいろなデマや噂が飛び交い、大変だったそうだ。
奥さんの親戚に預かってもらっていた子供達を引き取りに行き、高台から子供達と見降ろした時、何も無い陸前高田市、見渡す限りの破壊された町の風景に、ただただ、呆然と笑ってしまったそうだ。
お寺さんも、残ったのは石段だけだったと。
そして、娘さんの話し。
あの、朝日新聞の一面に載っていた、“トランペットの少女” 。
娘さんが、「お母さんの為にトランペットを吹きたい」 と言った時に、迷ったそうだ。
というのは、その頃、あまりにもメディアの態度が酷かったのだそうだ。その彼らに娘の写真を取られるのが嫌だったので、メディアのいない時間帯に一緒に行って娘さんを見守ったそうだ。
その時、朝日新聞の記者が写真を撮らせてくれと、言って来た。
その記者が、涙を流し泣きながら話しかけて来て、この人なら、写真を撮らせても大丈夫だろうと。
それが、日本中の世界中の心を揺さぶった、トランペットの少女だったとは…。
その話を聞きながら、涙が止まらなかった。
仮設にいた時に、娘さんが、壁が薄いため隣の住居の人達を気にして夜、声を殺して泣くので、夜中に車を出し、その中で思い切り泣かせてあげたそうだ。悲しい時には、思い切り泣かないといけないと。
沢山の人々が亡くなり、一人一人にドラマがあり、悲しみがあり苦しみがある。
お話を聞くのが30分の予定だったが、たんたんと経験を話された時間は1時間を超えていた。
父親の住職が亡くなり、今は住職になった彼は、やっと、仮設の小さな本堂を建てた時に、檀家の人に、テントでいいから、もっと早くにお参りする所を作って欲しかったと言われた。
私にも分かるが、大切な人が亡くなった時に、手を会わせ話しかける場所が必要なのだ、
外には、ガレキの中から見つかった、梵鐘があった。“わすれなの鐘”と言われているそうだ。お坊さんが鐘をたたく。私達は手を会わせる。
バスに乗り、ガイドさんの話を聞く。
何も無い、本当に何も無い場所を、「ここに駅前のロータリーがあったんですよ」 と。
海の近くに、あの、一本松。7万本あった松の残った1本。今はレプリカだそうだが。
そして、その一本松を取り囲むように、銀色に光るベルコンベヤ。
そのベルトコンベヤは、土がむき出しになった山から延々と延びている。
3キロ、そして、120億円を費やして作ったそうだ。
この陸前高田市は、今、住宅を作るために、かさ上げする為の膨大な量の土が必要だった。その土は、一つの山を崩して運ぶ事になり、初めはダンプで運んでいたが、主要な道路が1本しかないため、それでなくても渋滞するのに、とても何十台のダンプで運ぶ事が困難で、急遽、山から道路をまたいで作られたそうだ。
今、鉄道は、線路を舗装し、そこをバスが走っている。ラビッドトランジットバス、略してBRTという。
初めは、本数も少なく、時間もめちゃめちゃで利用しずらかったそうだが、今は、1日30本ほどに増え、時間もほぼ予定通りになり、便利になったそうだ。以前の電車は1日10本だったそうだが。
3人の方々にお話を聞き、ガイドさんにもあの震災の話しを聞き、皆さんがおっしゃっていた事は、一つ。
私達を忘れないで下さい。
ここで、見た事・聞いた事を、帰ってから皆に伝えて下さい。
あれから、丸3年。でも、まだまだ、被災地は復興には遠い。東京にいると、日々忙しくて、思い出してあげる事も少なくなっている。
被災地に訪れる人達も、日々少なくなっているそうだ。
同じホテルに、ある大会社の新入社員が社会貢献研修に来ていた。
「僕達、何にも役に立てなくて」 と節目がちに言う。
「ここで、見たり聞いたり体験した事は、絶対に心に残り、あなた方の人生にプラスになると思うよ」
そして、私達の団体は、皆、年配者ばかりだけど、日本の未来はあなた達。よりよい日本をお願いね、と余計な事を言ってしまった。
一度は行ってみたいと思っていたから、本当に参加してよかった。
最後は中尊寺を観光して帰りの新幹線へ。
津波の爪後の写真。
津波の浸水区間
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます