Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

「ショパン 愛と哀しみの旋律」

2012-10-19 08:00:27 | 私の日々
昨年に公開されたポーランド映画。
言語はポーランド語ではなく英語。
映画を観ることでショパンの名曲の数々をたっぷり聴くことができる。
そしてずっと謎だったショパンの生涯の節々の選択、
その時々のショパンの想いがこの映画を通して少しわかった気がした。

2010年はショパン生誕200年の年だった。
ポーランドでは数々の関連イベント、
そして4年に一度のショパンコンクールも行われた。
私はこの年にショパンコンクールに行くつもりで、
まずは国のことから知ろうと思い、ポーランド大使の講演会に行った。
「ポーランド大使ヤドヴィガ・ロドヴィッチ講演会」2009年10/7のブログ
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20091007

そしてこのコンクール観戦に個人ですべてを手配するのは不可能と気づき、
HISがポーランド大使館で行った旅行説明会にも行った。
この時はHISやポーランド大使館側からの説明だけでなく、
ゲストの三枝成彰氏、ピアニストの清塚信也さんからの
ショパンにまつわるお話と演奏も興味深かった。
「ショパンイヤー2010説明会」2009年10/23のブログ
http://blog.goo.ne.jp/ak-tebf/d/20091023

この時にショパンは20歳頃からずっとパリを拠点に生活していたので、
ポーランドにはショパンを偲ぶ足跡が少ないのではと感じたのと、
なぜジョルジュ・サンドのような華やかな女性がショパンと10年も連れ添ったのか、
と疑問に思った。

ショパンの心臓が安置されている教会があると三枝氏の説明にあり、
仰天していたところ、清塚さんの説明でそれはショパンの遺言であったこと、
それほど望郷の念が強かったと理解した。
観光名所の一つであるショパンの生家に置かれるピアノはYAMAHAで、
それは「日本から来る方が多いので日本に敬意を表して。」との説明には苦笑。

また清塚信也が13歳でショパンの遺作・舟歌を練習の課題に選んだ時に、
ピアノの師から許しを得られず、19歳でポーランドの地に立った時に、
その土地の空気感や景色を見て、またショパンの苦悩や人生を思い、
初めてその意味がわかったということ、
ずっとショパンコンクールに挑戦し続けて良い結果が出ないまま、
遂には参加の年齢制限を超えてしまった時に改めてまた、
ショパンの曲を好きと思えるようになったというお話も、
子供の頃からショパンへの熱い想いを抱き続けてきて、
人生の長い時間をそれに費やしてきた一人のピアニストの生き様に
胸を打たれた。

その後、ポーランド大使館内でベストとは言えないコンディションのピアノで、
清塚信也は説明も交えながらショパンの代表曲を弾いた。
13歳で弾かせてもらえなかったという舟歌を彼が弾く時に、
ピアニスト清塚信也と作曲家ショパンが重なり、
目頭が熱くなった。

前置きがだいぶ長くなったが、この映画「ショパン 愛と哀しみの旋律」
を観たことでショパンの人生やなぜ、そのようなことにと思っていた部分、
映画で脚色化されてデフォルメされたところもあるのかもしれないが、
共感することができた。

ショパンがたどり着いたパリはコレラが蔓延していて、
暗く、またパリで頭角を現すことのできないショパンの心も暗澹たるものだった。
ある社交界の花形の貴族の夫人のパーティーで最初にリストがショパンの曲を弾き、
拍手喝采を浴びたところで、ショパン本人も演奏せざる負えなくなる。
リストの後で弾くことに躊躇いながらも、ショパンは自分の個性を出す演奏をして、
初めて脚光を浴びる。

ここで、ショパンとリスト、決して仲が悪かったわけではないということも想像できた。
お互いに自分にない部分を持つ相手を尊重し合っていたはずだ。
また暗いイメージだったショパン、この後の場面でリストの演奏を真似して、
ダイナミックな振りを付けてパーフォーマンスするシーンもある。
手足が長く大柄で手も大きく、社交的なリスト、一方シャイで人前に出るのを好まないショパン。

ハンガリーで音楽教育を受けたピアニスト金子三勇士、
リストの演奏を得意としていた金子が日本への帰国に至ってから、
日本で人気のあるショパンの演奏に一つ一つ取り組んで来るのを見守って来たので、
このリストとショパンの対比は個人的に興味深かった。

ショパンの曲も2009年から金子三勇士が、
いろいろな曲に挑戦するのを聴いてきたので、映画を観ていても、
ほぼ全曲に聴き覚えがあった。

その後、ジョルジュ・サンドの求愛を受け入れて一緒に暮らすようになるショパン。
この時のショパンの生活はサンドに囲われているような状態で、
またサンドの息子には毛嫌いされ、娘には恋心まで抱かれる。
静養のために滞在したマジュルカ島でも雨が続き、借りた屋敷も荒れていて、
こういう環境でショパンの名曲の数々が作られたと思うと、
ポーランドを旅立つ時に作曲した「ピアノ協奏曲」以外は鬱屈した精神状態から、
生まれたように思えてくる。

イヴ・サンローランのパートナー、ピエール・ベルジェが
「憂鬱さがあったからこそ、彼の素晴らしいコレクションが生まれた」
とドキュメンタリー映画"L'amour de feu"の中で言っているが、
ショパンに関してもそれは同じなのだろうか。

サンドがショパンを離さなかった訳も映画を観て分かるような気がした。
偉大な才能にほれ込み、自分がそれを庇護してるというところに喜びというか、
執着していたように思う。

サンドが画家を目指しながらも簡単に多くの作品を描き上げる息子に、
「ショパンをごらんなさい。同じ曲も何度も書き換え時間を掛けて、
根気よく作っている。」
しかしながらそのピアノの音をずっと聴かされるサンドの家族、
特にショパンが嫌いな息子にとってこれは苦痛以外の何物でもなかった。
自分の娘との仲を疑ったサンドはショパンと決別する。
映画ではこれは誤解だったという含みを持たせている。

最後、病厚くショパンはポーランドから看病のために姉を呼ぶ。
ショパンを看取った姉はショパンの心臓の入ったカバンを持って国境を越えていく。
弟の看病のためにフランスに渡り、本人の遺言とはいえ、
心臓を持ち帰る姉の心境はいかばかりかと思った。
心はポーランドに、それでもフランスに留まり続けたショパン。
志半ばにして帰ることは自分が許せなかったのだろうか。
現世から旅立ち、心臓と共に魂も母国へと帰国できたショパン。
長い苦しみから解放されてようやく楽になったのかもしれない。