総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

力を合わせる という生きる力

2013年07月13日 | エッセー
 市で取り組んでいる自殺対策に頭を悩ましている。
 結果は、10年後20年後、そう誰もが思っている。
 私の住んでいる市は、中年男性が多いという一般的な傾向と違い、中年の男性は特に多いということはなく、60代70代80代の高齢者が多い。半分くらいはそうだ。しかも、女性と男性は、半々くらい。他の地域より高齢女性が多いというのが特徴である。
 うつ病とか多重債務を苦にしてということでもなさそう。
 高齢女性の場合、『え~~~~~~~、あの人がどうして?信じられない。本当に信じられない。』という方が多いという。

 私の街と似たような感じの隣の市では、NPOも立ち上がり、人と人が触れ合える憩いの場づくりを中心に活動をされているけれど、自殺者数は減っていない。

 薩摩隼人・亭主関白という大人になりきれないわがままな夫、あるいは、父親の存在。そして、それに我慢して従う妻、あるいは、母親の存在。いびつなコミュニケーションしか取れない親に育てられた子どもたちは、それが、見本なので、時代により、少しは、対等に近づいてきているけれども、旧態依然。

 家庭内のいびつなパワーバランスが、街全体の空気にまで浸透しているような気がする。
 
 鹿児島県は、シラス台地でお米がとれないため、上昇志向が強く、亭主関白だけど、それだけの責任を果たす家長としての気概もあったのではないかと思うけれど、隣接するわが町は、九州で一番美味しいと言われるお米の産地である。亭主関白の気風だけはしっかりちゃっかりもらっちゃった男衆が、家長としての人間としての風格を養うことを怠り、ただ単に威張っている・・・・・みたいな風潮が、負の遺産として残っているような気がする。これは、あくまでも私のわが町の印象にすぎないのだけれど・・・・。

 こんな男性とずっと一緒に暮らしていくって、すごいエネルギーがいる。


 つづく
 
どうなんだろう?
 本気で死を選んだ人は、人には相談しないよう。だから、誰にもわからない。遺族でも、亡くなってから、『そういえば・・・。』と亡くなった後に、気づくことが多いという。そんな死にたいと思っている人のサインをどうにかしてキャッチして、その人が死にたい気持ちに追い込まれたいろいろの絡まった糸を一つでもほぐしていくような支援をすることに目が行きがちである。
 でも、どうなんだろう?
 誰にも相談しないと決心し、死を決断した人って、もはや、武田鉄也が言うような『人という字は・・・。』なんて言葉は心に届かないだろう。
 だって、多分、『人という字は、人と人が支えあって、人となる。』ことを人生でじ~~~んと味わい、それこそ、幸せの青い鳥なのだと心から思えた体験のない人なのかもしれないと想像する。
 人生、裏切られることばっかり、いろんなものを失って苦しいことばかり・・って思えても、人生のどこかで人と人が無心になって力を合わせて何かを成し遂げようとする時、計り知れないほどの幸せを体感するという体験を一度でもできた人は、ぎりぎりのところで踏ん張れるのではないだろうか・・と想像する。
 
 30人31脚小学生大会ってあるよね。
 あれって、すごく、ものすごくいいんじゃないかな。
 みんなで力を合わせて、無心になって、ゴールを目指す。
 一人だけ突出してもだめで、みんなで調度いいところを探り合って足並みそろえて・・・。
 一人一人の個性もあるんだけれど、そこをぐっと押さえて、ただただ倒れないよう、なおかつスイードも意識して、ただただ、それだけに集中して・・・・・・でも、他のことは一切意識しない。
 果たして、他のスポーツで、こんなに強烈に他者と一体感を感じるスポーツはあるだろうか?
 大縄跳びもいいかもしれない。

 スポーツ以外では、合唱とか吹奏楽など。

 小学校や中学校で、そんな体験を一度でもでき、人と人が支えあうという一体感という世界を体験できた人は、たとえ、思春期や大人になって、死を考えるような試練があっても、『人間って最悪だ。他人なんて誰も信用できない。』ではなく、『人間って最悪だ。でも、人間って捨てたもんじゃない。』というような前向きな生き方が可能なのではないだろうか・・・・・。

 力を合わせる醍醐味って、ブランドのバックを買った時の喜びとかわが子が大学に合格した時のような感激とは、格が違う。後者は、その時かぎりだし、優越感で幸せになる。でも、


 つづく

 でも、人間って捨てたもんじゃないという体験は、一生、その人の心にじ~~~~~んと種火として存在し続け、その人にとって、人生の試練がやってきたとき、燃え尽きないようエネルギーを供給してくれるような気がする。

 かなうなら、オリンピックに燃えるのもいいけれど、日本全国の小学校6年生が誰一欠けずに参加する30人31脚大会、あるいは、大縄跳び大会、もしくは、合唱コンクールや吹奏楽コンクールなどを国レベルで開催してもらえたらいいなぁ。
 そしたら、きっと、苦しくても、どうしようもない空虚に溺れて、その苦しみから逃れるために死を選ぶというような人が減るような気がする。

 武田鉄也が、金八先生として『人という字は、人と人が支えあうって初めて人というんだよ。』と語ったとき、今でも、時々、パロディにされちゃうけれど、支えあうというより、力を合わせて初めて人となるのかもしれない。



 

 

 
 
 
コメント
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