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~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

朝井リョウさんの『正欲』を読んだ。

2021年05月23日 | エッセー
 マジョリティとかマイノリティとか・・・。
 LGBT法案が話題になる中、LGBTでもないマイノリティな人たちの孤独がゆえの繋がったという繋がり力を淡々と描写した美しい小説だった。読後の余韻が残る、今も。
 ごく普通に異性を好きになり、異性と結婚して子どもを産んでという夫婦の繋がり力とは、けた違いの繋がる力は、1億人分の数人だからこそ・・・か。
 なぜか、噴水に性的魅力を感じてしまうという感覚をずっと抱えて、そのことを誰にも言えず、誰とも共感できないで生きてきた男と女が、繋がって、結婚という形態で共同生活を始める。
 分かり合えると分かり合えないの壁は宇宙レベル。
 おそらく、人がこの世に生まれてきたのは、分かり合えるという愛を手に入れ、エネルギーに変換して、自分だけのためばかりではなく、誰かにお裾分けするためなんじゃないかと最近、しみじみ、そう思う。
 だとしたら、この分かり合えるというスタートを切れない人たちは、人生を生きているという感覚が薄れ、死すらイメージしてしまうのではないだろうか。
 分かり合えるの前に、マイノリティの中のマイノリティの人たちは、繋がらなくてはならない。ネット社会になって、繋がりやすくなったことは本当によかった。
 実をいう私も、分かり合える誰かを探してきた一人だ。
 私は、今、私の住む町で、分かり合える人がほぼいない状態なので。
 自分では、そんなに変わっているって思っていないけれど、よく、変わっているとか天然とか言われる。ちょっと、傷つく。
 わかるもん。
 変わっていると言う時の、醸し出すやや下に見られている感をしっかりキャッチしてしまう。
 朝井リョウさんは、僕もそう思っているんだから、当然、君もそう思うよね。というマジョリティ的な思い込み感覚に警鐘を鳴らしてくれた。
 思い込みをどれだけ白紙に戻せるか・・・が、多様性を受け入れる力なのだと思う。
 変っていると言われる私も、気を引き締めていないと、人にレッテルを貼ってしまいがちな思い込み人間になり下がる。そんな私の油断に向かって、ジワリと突き刺してくる良質の本であった。
 どこまでも、どこまでも、レッテルを貼ってはいけない。
 自分の経験値だけから、この人はこんな人なのねって思い込んではいけない。思い込んだ瞬間から、マジョリティ人生が始まる。

 大多数派のマジョリティ人間の特徴は、私の意見に対して、どうして、そんな風に考えるの?って聞いてこない。
 興味を抱いてくれない。
 へえ~、そんな考えもあるのねって脳の柔軟体操をしようとしない。
 脳が硬直している。

 だって、聞かれたことがないもん。
 未だかって、一度も。

 職場で。

 否、一人だけ気が合う人がいた。その人は、正職ではない。専門職の人。

 今、わかった。
 私は、リトマス試験紙だ。感度低いけど。
 私の意見に『どうして、そう思うの?』って、興味を持って聞いてこない人は、レッテルを貼りやすい、思い込みで人を判断しやすい人、分かり合おうと頑張らなくても、そこそこ幸せな人。もしかしたら、無意識に人を見下している可能性がある。私は、自分でわかる。これって、見下しているよねって言う時あるもん。哀しいけど、人間だもの。
 逆に、『どうして、そう思うの?』って聞いてくる人は、脳が柔軟で、思い込みで人を勝手に判断しない傾向のある人じゃないかな。もしかしたら、少し、マイノリティ?
 シンパシーを感じる。

  離婚の理由に、よく、価値観が違ったというようなことが言われる。名目上の言葉かもしれない。
 思い込みで相手も自分と同じように考えて行動するだろうと思って結婚したら、全然違った。あるいは、些細なことの一つ一つが違っていてその積み重ねの結果、耐えられなくなった。
 などなど。
 マイノリティな人間の陥る罠かもしれない。
 マイノリティに胡坐をかいて、ここだけは譲れないという一番大事な繋がる力が弱いっていうか。
 朝井リョウさんの小説の中で、水に性的魅力を感じてしまうのではなく、水の中でも噴水に性的魅力を感じてしまうという男と女が奇跡的に出逢って、男と女だから結婚するのではなく、一つ屋根の下で暮らすという選択をした男女が描かれている。ただただ噴水に性的魅力を感じてしまうという繋がりだけで、他は何もない。でも、相手が逮捕されても何をされても、待っていると言わせしめる繋がる力を、朝井リョウさんは描きたかったのか。
 結婚する時、一番大事なことは、もしかしたら、そこなのかもしれない。
 たった一つの譲れない繋がりとは、何か?
 その繋がる一つさえあれば、他はどんなに違っててもいい・・・みたいな。
 そんな視点で結婚できたら、楽かもね。


 最近、『貧困』という言葉をよく耳にする。
 今日の新聞にも、『生理の貧困』という記事が掲載されていた。
 子どもたちが、生理用ナプキンを貧困のため、買ってもらえないで困っていると。
 ここで、単純に、勝手に、シングルでパートで・・・と想像しがち。
 じゃぁ、そんな人には、経済的支援が必要だと単純に考えてもいけない。
 私は、個人的に、結果的に、貧困になった人達をひとくくりにはできないんじゃないかと思っている。
 世の中には、どうしても、優先順位をつけることが下手な人がいるとしみじみ思う。
 どうしてもどうしても、目の前の欲求に勝てない。
 勝てない結果、娘の生理用ナプキンを買うお金がなくなった。

 もちろん、生活を切りつめても切りつめても、仕事がなくて・・・という人もいらっしゃる。

 例えば、最近、布おむつを使う人はほとんどいない。たまに、いらっしゃるけれど、それは、布おむつのよさを知っているから+節約生活。
 生活が多変苦しいとアンケートに〇をつけている人が時々いらっしゃる。でも、みな紙おむつを使っている。
 切りつめる力が、時代なのか、相対的に弱くなっているかなと感じる。
 その中でも、ほんとうに本当に目の前のジュースやお菓子などをついつい我慢できずに買ってしまって、保険税を滞納してしまうというような家族がいる。
 
 『貧困』という言葉一つとっても、一括りにはできない。
 『貧困』という言葉をマジョリティにしないよう注意を払わなくては。
 『結果貧困』なのだ。

 私も、結構、貧困だった。
 アンケートだったら、大変苦しいに〇ついていた。
 夫が、うつっぽくなって何年もまともに仕事をしなかったし、借金もあったし、おまけに仕事しないのにお酒は飲んでいたから、子ども4人+1人=子ども5人を養うシングルマザーみたいなもんだった。

 結果貧困だ。
 

 
 



 






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