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~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

ママのせい?妖怪のせい?自分のせい。

2015年01月29日 | エッセー
 10歳の四男に成長の兆しが・・・・・。
 まぁ、ほんとうに大変な子だったんですよ。
 気に入らないことがあると、すべて、私のせいにしてくるので、もう、腹が立って腹が立って。体力も気力もないのに、声張り上げて倒れこむ・・・みたいな日々だった。私が反論すると、減らず口をたたいてきて、本当に本当に彼と向き合うのに疲れ果てた日々。とにかく、素直に謝らない。(ま、よ~く考えたら、私も責められたら素直に謝るかって言ったら、そうでもないかなぁ。)
 そんな四男が、ここ最近、何かあると、妖怪のせいにし始めたのだ。
 私のせいではなく、妖怪のせいかな?ってトーンも低くなった。
 私のせいにしているときは、ギャーギャーすごかったのに、妖怪のせいって言い始めてから、ユーモアのセンスが出てきたようで、ちょっと楽しそう。自分を客観的に見れるようになったのだと思う。
 妖怪ウォッチって、ほんと、妖怪のせいって連発していて、何かあれば、すべて妖怪のせいにしてしまうところが気になっていたけれど、子どもたちも、きっと、どこかで、それは妖怪のせいじゃないとわかっているはず。それでも、声に出して、妖怪のせいって言語化することで、あ、違うな?お母さんのせいでもないな、やっぱ、自分かな?って客観的に思えてくるようだ。
 よかった、減らず口をたたく四男に辟易していたところだったので、思わぬ便乗効果でラッキーでした。

実は、お母さんのせいにできる子どもは、結構シアワセなんじゃないかと思ったりする。思春期の入口くらいの年齢までは・・・・。10歳くらいまで、お母さんのせいにしちゃえる子どもは、罪悪感みたいな感覚がそんなにないんじゃないかなぁ?
 罪悪感なんてない方がましだ。もちろん、いじめっ子みたいに、いじめることが快感に感じるようになってしまってはいけないけれど、おうちという安全基地の中で、小さい頃、めいっぱいママのせいって言えた子は、少なくとも、自分のせいと思う癖をつけた子どもより生きることが楽ちんだと思う。何を言ってもママは私を見捨てないという確信があるから、ギャーギャーとママのせいというわがままを連発しちゃえる。でも、もし、僕がこんなことを言ったら、ママから見捨てられるかもしれないという不安がちょっとでもあれば、なんでもかんでもママのせいなんて言えない。
 自分のせいでママが哀しんででしまうという感覚を人生の原点で心に刻んでしまった子どもは、ママが哀しそうだと=自分のせいという罪悪感を育ててしまいやすいんじゃないかなぁ。だから、そんなとってもつらい罪悪感を感じたくないから、いい子になってママを喜ばせる道を選んでしまいやすい?
 
 なんでもかんでも、すぐ、お母さんのせいとギャーギャー口答えする四男に苦労したけれど、今、思えば、少なくとも、彼の心には罪悪感の芽は育っていないということだろうから、これでよかったのかもしれない。
 『罪悪感は、畑の作物を枯らす農薬のようなものである。』
 そんな言葉に出逢ったことがある。
 人の生き生きとした心を枯らしてしまうくらい威力のある感情ということだろうか。

 四男もわかっていたのだ。全てがお母さんのせいではないってうすうす。
 自分の意見を通したいのに、わがままだと言って通してもらえない時、おかあさんのせいで思いどおりにさせてもらえない悔しさや腹ただしさを全部お母さんのせいって言葉で片づけて、自分の気持ちの帳尻を合わせてきた。
 子どもの時間と現実の時間のギャップからくる不満をすべてママのせいにすることで、どうにか自分らしく生きてきたけれど、10歳くらいになると脳も成長してしっくりいくようになるのかなぁ。

 これが、オンギャーと生まれてからのママとのやりとりの中で、いい子じゃないとママは認めてくれないと心に刻んでしまった子どもは、現実世界と折り合いをつけるためにママのせいという特殊装置を駆使してどうにかこうにか10歳という節目を迎えるに至る。
 ほんとうは、ごくごく小さいうちから、ていねいに対等なコミュニケーションによる妥協案というか、親も子も勝つわけでも負けるわけでもないような話し合いがなされるような人権が尊重されるような家庭で育てられたら、ママのせいという特殊装置すら必要でない。でも、そんな親ってめったにいない。
 私も、仕事と家事と育児の両立人生だったので、朝、「保育園に行きたくない。」って言われても、仕事に遅刻するわけにもいかないので、話し合い何てする余裕もなく、強引に保育園に連れて行くなんてこともよくあった。人権尊重なんてどこにもなかった。
 そんなこんなのまぜこぜの不満を全てママのせいにすることで発散していたのだと思う。

 昔の人は、ツのつく頃(九つ)までは、赤ちゃん(甘えたい気持ちやわがまま)と大人を行ったり来たりするものだ。だから、10歳までは小さな大人にしないようにしましょう・・・て言っていたという。
 小さな大人にさせてしまうと、大きくなって子どもになっちゃうんだそう。
 つまり、甘えたい気持ちやわがままを受け入れてもらえず、見た目上いい子にしていた子どもは、多くくなってから、その甘えたい気持ちやわがままが溢れてきて、子どもから大人になれない。

 なんでもかんでもママのせいにできる子は、シアワセだ。

 もちろん、ママも理不尽なママのせい攻撃に怯む必要なんてない。闘えばいい。お互いにギャーギャー言えればいい。筋は通さないとね。そうこうしているうちに、10歳がやってくる。そしたら、妖怪のせいになって、やっぱり、僕が悪かったかな?になって、大人の階段を上り始めるわが子の成長に胸がきゅんとなる日が来る。

 なんでもかんでもママのせいにできるためには、『ママは僕が何を言ってもどんなへんなことをしても見捨てない。』という確信があってこそ。それがない子は、なんでもかんでもママのせいにできない。
 オンギャーと生まれてからの日々のやり取りの積み重ねの中で形成されていく。ローマは一日にして成らず。なんでもかんでもママのせいも一日にして成らず。

 そして、実はその最初の一歩は、赤ちゃんが泣いたりぐずったりして泣き止まないとき、ママが『ママはあなたがどんなあなたでも見捨てない』というメッセージをきちんと伝えられるかどうか・・・。

 そして、1歳半の頃のイヤダクンの時代に、イヤだという自己主張を温かく受け入れてもらえたか…おもちゃを散らかしても、一緒に楽しく遊び感覚でお片付けしてもらえたか・・・。静かな大人の生活を邪魔されても受け入れてもらえたか・・・。お兄ちゃんなんだから・・・・お姉ちゃんなんだから・・・男なんだから・・・・何て脅迫されて、甘えたい気持ちを我慢させられなかったか・・・・。

 何を言っても、どんなことをしても、ママは見捨てない。

 そんな安心感を持って生きていける四男はシアワセ者だと思う。
 長男は、四男と正反対だった。
 手のかからないいい子だった。くそばばぁなんて言葉を言われたこともなければ、お母さんのせいなんて言われたことも一度もなかったなぁ。減らず口なんてどこにもなかった。お勉強も全く手がかからなかったし・・・。
 でも、不登校気味になったり、自律神経失調症になったり、うつっぽくなったりと、その分、自分を傷つけて苦しんでいた。

 ママのせい、妖怪のせい、自分のせいという階段をのぼっていくってことがが自然な成長のかも。

 最初が、自分のせいから始まると、大人になって、ママのせい、誰かのせい、政治のせい・・・なんていうカッコ悪い大人になりかねない。

 ちいさな子どもが自分のせいにしてしまうって、『人に迷惑をかけるような人間にだけはならないで。』という親からのメッセージの影響が大きいんじゃないかなぁって思う。
 『困ったときは助け合う、人と人が触れ合える街づくり』なんていうキャッチフレーズをよくみかける。これって、人に迷惑をかけない生き方と相反する。

 『人に迷惑をかけるような人間にはなるな!』という言葉をこの世から抹殺したい。
 人に迷惑をかけるなってことを言わないってことは、人に迷惑をかけていいっていいうことと同じではない。
 この世を生きていくうえで、人に迷惑をかけないということが、常に優先順位の第1位になることを幼い子どもたちに洗脳してはいけないかなぁって思うだけ。
 子どもは、親に認めてほしい、親に振り返ってほしいから、親が望むような人に迷惑をかけないことをめざしてしまう。そうすると、もっと、騒ぎかたっかり、やりたいことがあったり、わがまま言ったりしたいのに我慢する。たまに、羽目を外してわがまま言ったら、ママが悲しそうな顔をした。すると、ママがつらいのは僕がわがまま言ったせい。僕のせい。僕はいけない子だと罪悪感をもつ。

 自分の心を覗いてみても、ドロドロだ。
 人と比べて自分が劣っているなと思うと妬みみたいなものがニョキニョキ顔を出したり、記憶力も悪いので、うっかり忘れでへましたり、パソコンのソフトの操作を1回では覚えられないので何度も何度も若い子に尋ねざるを得ない残念さの中で生きている自分に情けなくなったり、胃を切って貧血がひどくて人の半分しかヘモグロビンがないので体力・持久力もないから、羽目を外す自信がない。外食したくても、ちょっと多めに食べたり、油系が多いとすぐお腹がキューッと差し込む痛さに見舞われてトイレのそばでないと心が落ち着かない。

 そんなこんなのネガティブな要素満載生活で人に迷惑かけっぱなし感が強い私だけれど、よく、ニコニコ生きてるよねって言う感じでタフに生きている。

 私をタフにしてくれているのは、そんな私でも、悩みや心の葛藤を相談してくれる人のために、ささやかでも光を照らしてあげれているかな?て思える瞬間という体験があるからだと思う。

 人を支えてあげれたという感覚ほど、じ~~~~んと私にしみ込んで生きる力になるものはないような気がする。人に光を照らした分、自分にも光が照らされる・・・というような醍醐味というか・・・・・。

 先日、同僚の小2のお子さんが、初めて『ママのせい』にしたという話を聞いた。ほっとした。よ~~~やったっとその娘さんを誉めて抱きしめてあげたい心境になった。
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