子どもとよく関わる父親は、ストレスレベルが低く、安定し、仕事においても高いモチベーションをもち、また、家庭以外でも若い世代を指導しようとするという。しかし、父親が育児回避型だと、逆に子育てはストレスになるらしい。
愛着とは相互的な仕組みだから・・・・だそう。
もし、叶うなら、幼い頃、親に甘えられずに育って子育てに関わろうとしない男性こそ、育児に巻き込んで、この愛着形成の相互作用から生まれるオキシトシンホルモンを分泌させ、父親らしくなれるよう支援するシステムが、社会的にできればいいなって夢見る。
パパママ教室に一緒にきてくれるようなパパは、お勉強なんかする必要はない。イクメン手帳というものが最近はできているようだけれど、それを読もうとするようなパパは読まなくてもいい。読もうとしない、育児に参加しようとしないパパたちをどう巻き込んでオキシトシンをドバ~っと出させるか・・・それが、私の人生のお題かもしれない・・と、最近、なんだかそう思うようになっている。そんな役目を担うために、今までの夫とのすったもんだがあったような気がしてならない。そうでなければ、誰もが、結婚を今なお継続させていることに驚嘆する『夫という存在込みの育児生活からの私が出逢った知恵が宝の持ち腐れになってしまう。それは、実にもったいない。
なんで自動車学校があるのにイクメン養成所がないんだろう。せめて、1日ですむ初級コースを国は認めてほしいもんだ。
車の操縦よりはるかに難しく知恵のいる夫操縦法を、知っているのと知らないのとでは、結婚生活のシアワセ度がはるかに違うような気がする。操縦法なんて言葉を聞くと、なんだかいやらしい・・・というかずるいというか、そこに、愛がないように思うかもしれない。でも、所詮、テストステロンやオキシトシンやバソプレッシンというホルモンに強く影響されるのが人間。恋に近い愛が覚めると、シアワセに暮らすための知恵という愛がどれだけあるか…ということが問われてくるんじゃないかなって思う。
父親が、子どものやりたいことをする権利を早くから認めてもいいと考える家庭と、あまり早く認めない方がいいという家庭を比べると、後者の方がその後成績もよく欲努力する傾向にあるのだそう。この時、母親の考えはあまり関係ないんだって。
難しいね。子育てって。物わかりのいい親がいいとも限らない。
父親の重要な役割は、子どもにストップをかける抑止機能として作用し、やがて、それは、子ども自身の中に自己コントロールする力として取り込まれていくのを助けること。ストップをかけ掟を守らせる存在としての父親は、子をスムーズに社会に出ていく上において重要である。
岡田氏のいう『父親不在症候群』とは、
① 母親への依存と母子融合
② 誇大な願望と自己コントロールの弱さ
③ 不安が強くストレスに敏感
④ 三者関係が苦手 三角関係という事態が、まるで罠のようにこのタイプの人に引き寄せる。不倫関係に陥りやすい理由の一つは、そうした力動
による。独占欲が強い。うつリスクや不幸を感じる人の割合が高い。
⑤ 否定的な意味合いを持つ父親の存在は、子どもの自我・理想の発達を妨げ、人間社会や人生に対する否定的な見方を植え付け、向上心の乏しい投 げやりで無気力な状態を生みやすい。
スエーデンの研究では、女性とパートナーや夫、息子との関係は、その女性の母親との関係よりも父親との関係に影響されていて、父親の娘にほどよい支えや励ましを与えている場合には、娘もまた、パートナーや息子に対して、ほどよい世話やかかわりをしやすい。しかし、父親が無関心だったり、暴力的だったり過干渉で支配的だったりすると娘も尽くしたり支配しずぎたり見放したりしやすい。
DVを行う男性の多くは、他者との距離が取れず、自分の所有物のように恋人や配偶者を扱ってしまう傾向がある。
バソプレッシンの重要な働きの一つは、愛するものを守るため、外敵を攻撃するのに必要な勇気を賦活すること。同じ攻撃性が愛する者を攻撃することに使われてしまうのがDV。
ほんとうにのぞんでいることが、離婚ではなく、円満な家庭を取り戻すことだとしたら、DVという捉え方で夫を断罪し裁判にかけ離婚を勝ち取ったところで・・・・。
DVとアルコール依存症やギャンブル依存症などの男性は変わらない。離婚しか道はない・・・と思っていた。でも、こんなしょうもないパートナーと結婚してしまった女性は、人生のチャレンジャーなのだ。人生のお題が、『どうしたら円満な家庭を築けるか?』という壮大なテーマを神様から与えられた人なのかもしれない。知恵勝負だ。
全国のこんなしょうもないパートナーと結婚してしまった、でも、最後は、円満な家庭を築けた・・・・という女性の声を集めてみたい。そこには、きっと、何か人が人としてこの世に存在する答え(英知)という宝物が潜んでいるような気がする。実際は、しょうもないパートナーとしょうもないと諦めて暮らしている女性がほとんどだとは思う。でも、そうでない思慮深い知恵溢れる女性もきっといるはずだ。どうにかして、夫が一人前の男という後姿を子どもたちの前でみせられるようになるための知恵って発掘に近い希少価値かもしれないけれど、地球上のどこかにはあるはずだ。
しょうもない男と結婚してしまった学会を作ってみたいな!
人間ドック学会が出した緩い基準値にみななびいてしまって、厳粛な高血圧学会とか糖尿病学会などが慌てて、『人間ドックの基準値は、人間ドックを受ける多くの人は病気にかかっていない。そんな人が人間ドックを受けているわけで、そんな健康な人のデータだけでは判断できない。』と訴えている。
確かに、夫として父親としてさして問題のない人だけを集めた学会と、しょうもない夫、あるいは、父親を集めた学会では、もう、全然、違うことは自明の理だ。
そっちかよって思われた?
そうなの。そっちなの。
沢田知可子さんのコンサートに行ってきた。歌セラピーという副題で楽しみにしていたコンサートだ。
改めて、『歌手』とはこういう方のことを言うのだと思った。声そのものも神様からいただいたであろう女性らしい優しさや寛容さを含んだ美しい声で、その声を魂レベルまで昇華されているような歌声になっていた。
ピアノ伴奏がご主人ということで、24時間いつもいっしょにいるため、仲よくするということを意識しているとのこと。なぜなら、歌セラピーだから。もし、コンサート直前に夫と夫婦げんかでもしてしまったら、歌セラピーどころではなくなるからって。
そりゃそうだね。不協和音で歌われたら、セラピーどころではないもの。
夫婦で、いつも仲よくすることを意識することって素晴らしいことだなって思った。
夫婦で一つのものを作り上げるということって、実は、夫婦円満の秘訣なのかもしれない。
夫婦で農家をしている方たちって、仲いいもん。
いっつもいっしょにいて、すごいな、偉いなって思っていたけれど、いっつも一緒にいて、目的が一つだからいいのだろうなぁ。
いろんな家庭で育つ。
これは、人間の宿命。
『あなたは、お母さんとお父さんを選んで生まれてきたのよ。』と言われても、思春期の子どもに、それは通じない。
そんな余裕はない。
男性は、人に相談しないという。夫をみていても長男をみていても、自分の信念というものはしっかり出来上がっていて変わることはなさそうに見える。私なんか、30にしてやっと人間らしくなってきたな、さぁ、今から、寛容さを手に入れるためにもっと豊かな心になりたいっていう感じで、それは、今も変わらない。つまり、人間的成長の目標が寛容さだったり、太陽のような存在だったりするので、エンドレス。でも、どうも、男性ってやつは、それがないように思える。20歳までに人間性は確立しちゃって、あとの人生は、攻略とか戦術とかそんな世界でゲームに挑む時間・・・のように見える。それは、あくまでも彼らの20歳以降の人生の目標設定という意味で・・・・。
ただ、結婚という濃厚な距離感の人間関係で多少は変化するものではあると思うけれど、人間性の成長という目標で生きていないので大幅な変更はないような気がする。まだ、23歳の息子もしっかり相談相手になってくれてびっくりすることがある。私が50年かけてすったもんだしながら、やっと手に入れたものの見方を、すでに手に入れている。夫と長男の二人だけで判断するのも危険だけれど、男性って、20歳でものの見方って出来上がっている感を否めない。
だとしたら、結婚して、全然白馬の騎士でなかったという現実を突きつけられた時、『こんなはずじゃなかった。でも、私がどうにかして夫を人間的に成長させよう・・・・なんて思ってはいけないのかも。この価値観の人といかに〝生活”をうまく楽しくやていくか・・・。』というテーマで生きるか、離婚するかの2者択一で人生を歩んでいくしかない・・・のかなぁ。
沢田知可子さんの夫婦円満の秘訣は、残念ながら、『夫の忍耐』だった。場内が笑いの渦に巻き込まれた。
ほんとうはそうじゃないのかもしれな。
さんまや関根勉さんなど芸人さんの多くも、そんな風に表現することが多い。
『夫の忍耐』なんて我が家にはどこ探しても見当たらないないので、非常に羨ましいかぎり。
忍耐してくれる夫と結婚できた方は、感謝しよう。
西高東低?
女性の忍耐の気圧配置図は、西高東低。
男性の忍耐の気圧配置図は、東高西低?
忍耐とは危険な感情だ。
特に、女性にとっては・・。
夫婦関係において、男性の忍耐と女性の忍耐は、その忍耐の持つ意味合いが違うような気がする。
男性の妻への忍耐は、ある種あきらめの感がある。あきらめて、それだけ。害がない。
でも、女性の忍耐は、そこに恨みを抱えているような気配を感じる。いつ何時反旗を翻すかわからない怖さがある。
だから、沢田知可子さんの夫の忍耐は、明るい。笑いが出る。
これが、沢田知可子さんの方の忍耐だと心配になる。
わが町では、80代の女性の自殺者数が結構多い。一人暮らしではなく、同居家族がいる。
どうして?って思っていた。
ある女性が、『もう限界だったのよ。』と一言おっしゃった。
そう。忍耐への恨みつらみが溜まって、我慢の限界に達した末、復讐のニュアンスのある自殺を選んでしまった・・・・のかもしれない。
ベストパートナーの本にも書いてあった。
女性は、幼ければ幼いほど、尽くす・・・・と。
80歳を過ぎて、尽くしすぎて(我慢しすぎて)その限界で死を選ぶ女性は、それまでに、『それはできないわ。』という『NO!』をのびのびと言えなかった人生だったのかもしれない。そして、恨みに変質したがまんの限界にきて、恨みの極め付けの表現を選んでしまったのかもしれない。
尽くすという言葉は、一見、女性らしいいい言葉に聞こえるけれど、そこに、見返りを求める下心が潜んでいる限り、報われないと恨みに代わる魔物でもある。だから、尽くすという言葉にはご用心。
そんなこんなで男性の忍耐と女性の忍耐は、違うような気がする。男性は、基本、女性に尽くしていないもん。かいがいしく身の回りの世話をしていないもん。見返りを求めていないもん。そんな人種だもん。
男性の忍耐は、奥さんの好き勝手を許してあげる・・・みたいな忍耐。家事をしてくれないので自分でするっきゃない・・・的忍耐。一人で暮らしていたら、当然、自分がやらなきゃいけないことを奥さんの身勝手で自分がやらなきゃ仕方ない・・・というような忍耐。見返りという打算がそこにない分、男性の忍耐の方が単純で、そこに、恨みという感情は発生しにくいかもしれない。
多くの女性の課題は、『それはできないわ』とただ、できないというメッセージをさらりと相手に伝えられるようになれることかなぁ。わたしなんか、心の中では拒否しても、NOと言った後の相手の反応に敏感に反応してしまう。相手が否定的な感情をチラッとでも見せると、心が揺れる。そのストレスより、がまんして自分でやった方が気が楽という、その場しのぎ人間で生きてきた。
ほんとうは、否定的感情の持ち主は相手方なのだから、相手の問題であるはずなのに、その場で自分が傷つきたくないがゆえに、相手の問題までも自分が引き受けてしまって、波風を立てないことを最優先してしまう。そこに、がまんという不協和音が生じる。
それもこれも、小さい頃から、自己主張することに慣れていなかったせい。イヤなことはイヤだといえなかったせい。ケンカって素晴らしいことだということを親から学んでこなかったせい。
女の子は、ちゃんとけんかしてこなかったから、派閥を作りやすい。仲間の中で、がまんしている。仲間でもケンカしてスッキリ仲直りできる仲間ならいいけれど、仲間になった途端、表面上、なかよしこよしになるから、衝突しない道を選んでしまう。そうするとがまんの感情が発生する。そうすると、Aさんのいないところで、Bさんの悪口を、BさんのいないところでCさんの悪口を・・・という誰も信用できない渦に巻き込まれていく。
だからこそ、女子のお仕事の場では、公のテーブルで議事録を作成することを前提として、言いたいことを言える環境を用意し議論というケンカの場を設けることが、職場では有効だと思う。あえて、公でけんかをする場を設定する。その仕事がスムースに効率よく効果的に実施できるよう、そして、みんなで協力し合って仲よく無理なく遂行できるような目的意識を持って協議するというスタンスを身に着けていくよう支援していく進行役が必須だ。そういうことをしないでいると、各人が不満を陰でこそこそいうという泥沼に陥ってしまいやすい。女子は・・・。皆、がまんしている状況では、仕事の能率も下がる。前向きな仕事も前に進まない。男子は、チガウ。仕事と割り切っている。個人的感情は、しっかりあるけれど、仕事と割り切っているので、仕事中にその人のないところでその人の悪口を言うことはそんなにないように見える。しかし、女子は、仕事に感情が侵入しやすい。おまけに幼い頃からケンカに慣れていない。だからこそ、公というテーブルで、議論というケンカのプロセスを踏んで、仲直りする術を身に着けていくように仕掛けていくことは、意外と大事なことじゃないかなと思う。
結婚したての頃は、尽くしたくて尽くしているんだと思う。それが、自然な感情だと思う。それが、いつしか『こんなに尽くしているのに、どうして・・・・してくれないの?』となってくる。たぶん、子どもを産んでから、育児や家事のいろいろをしてくれない状況が重なってくるとそう感じるようになる。
尽くす・・・・とは、なんぞや?
英語に尽くすという言葉はあるのだろうか?
国語辞典には、尽くすとは、『あるだけのものを出す。人のため(社会のため)に努力する。すっかり・・・・する。』と載っている。
女性は、知らないといけない。
尽くせば尽くすほど、多くの男性は感謝するというような機微な感情を持ち合わせていないらしい。彼女がそうしたくてやっている・・・・程度の認識だそう。
だから、女性は何かをするとき、特にパートナ―に対して、自分が好きでやっているという自覚のもとに尽くしてあげたほうが、恨みに変わらないので得策だ。巷では、『ありのままに・・・・・・。』という歌声が、あちらこちらで飛び交っているけれど、尽くすときも、この気持ちはありのままの気持ちかい?無理していないかい?好きでやっているのかい?見返りを求めていないかい?できないことはできないってきちんと伝えているかい?などなど、自分の気持ちを確認してみよう。
みんな、ありのままに・・・と平気で歌っているけれど、このありのままというのが、難しい。自分の気持ちすら到達しにくい
尽くす・・・という言葉一つにしても、ありのままの自分は、ほんとうに尽くしたいのか?それすら疑問だ。心の片隅のどこかに、見返りを期待していないだろうか?
よくよ~~~~~~~~~~く考えてみると、結婚するまでは、多分、ありのままな自分の気持ちは『○○してあげたい。』だったように思う。そして、結婚してもそうだった。長男が生まれてからもそうだった。でも、仕事に復帰した時から、家事育児をほとんど担おうとしない夫への恨み心が芽生えていったような気がする。でも、怖いので、言えなかった。そして、私も同じように働いているのに、どうして私だけが・・・・・という気持ちがどんどん膨らんでいった。当然、家事育児は半分ずつ分担ね!というような男女平等意識はなかったけれど、夕方、私が家事をしている間に一緒に遊んでくれるだけでも助かっただろうに、それすらしようとせずにいる夫に、かなり恨みという心の不良債権が蓄積していったと思う。
でも、問題は夫ではなく私にあったのだ・・・・と今なら言える。
『これ以上、できないわ。』と夫に面と向かって訴える勇気がなかった。悪代官に直訴する勇気が・・・・。まぁ、悪代官と言っても、夫は意地悪ではなかった。ただ、幼いころに愛されなかった不満をいっぱい抱えて、幼いころにわがままが言えなかった分の矛先を、無意識に私に向けていただけだったのだけれど・・。倍返しで。
なんだかんだ言って、今なら、悪代官にも平然とあしのままに自分の思いを伝えることができのだから、人間としては、勇気がないがゆえに卑怯になる戸いう残念さをしょい込む確率は減ったかもしれないという点で、感謝もしているところ。
よって、尽くすという気持ちは、常に徹底検証される必要のある気持ちに分類されると思う。
例えば、自分が尽くしていると思っている時、これが、もし、お金だったとしたら、100万円分の労力だとしたら、相手が100万円返さなくっても平気でいられるか?
そう。お金を貸すときに、この私にとっての大金をあげる覚悟でいられるか?
パートナーに尽くすことは、つまり、もし、今、自分の貯金が100万円あるとしたら『100万円、利子も何ももいらないわ。あなたのために全てをあげる。』と、まるで、100円をあげるような感覚であげることができる・・・ということなのだ。これは、とっても美談に聞こえるけれど、どうなんだろう。あるだけのものを出す、つまり、100万円全部を出すってなると、じゃぁ、あなたの生活はどうなるの?あなたはあなた自身で生きてゆけるの?って話になる。
ムリ・・・・。
人は、まず、自分の足でちゃんと立つことが最優先されるべき。自分を自分で支えられないのに、人を支えられるはずがない。
そして、もっと大切なことは、自分が尽くすことで、相手が一人で立てなくなる怖れはないだろうかということを意識することじゃないかと思う。
得てして、自分の足で立とうという覚悟のない人ほど、愛という名のもとに尽くすことを強要する男性が多いような気がする。つまり、小さい頃甘えられなかった人ほど、恋人に甘えてしまう。その甘えが、依存
愛着とは相互的な仕組みだから・・・・だそう。
もし、叶うなら、幼い頃、親に甘えられずに育って子育てに関わろうとしない男性こそ、育児に巻き込んで、この愛着形成の相互作用から生まれるオキシトシンホルモンを分泌させ、父親らしくなれるよう支援するシステムが、社会的にできればいいなって夢見る。
パパママ教室に一緒にきてくれるようなパパは、お勉強なんかする必要はない。イクメン手帳というものが最近はできているようだけれど、それを読もうとするようなパパは読まなくてもいい。読もうとしない、育児に参加しようとしないパパたちをどう巻き込んでオキシトシンをドバ~っと出させるか・・・それが、私の人生のお題かもしれない・・と、最近、なんだかそう思うようになっている。そんな役目を担うために、今までの夫とのすったもんだがあったような気がしてならない。そうでなければ、誰もが、結婚を今なお継続させていることに驚嘆する『夫という存在込みの育児生活からの私が出逢った知恵が宝の持ち腐れになってしまう。それは、実にもったいない。
なんで自動車学校があるのにイクメン養成所がないんだろう。せめて、1日ですむ初級コースを国は認めてほしいもんだ。
車の操縦よりはるかに難しく知恵のいる夫操縦法を、知っているのと知らないのとでは、結婚生活のシアワセ度がはるかに違うような気がする。操縦法なんて言葉を聞くと、なんだかいやらしい・・・というかずるいというか、そこに、愛がないように思うかもしれない。でも、所詮、テストステロンやオキシトシンやバソプレッシンというホルモンに強く影響されるのが人間。恋に近い愛が覚めると、シアワセに暮らすための知恵という愛がどれだけあるか…ということが問われてくるんじゃないかなって思う。
父親が、子どものやりたいことをする権利を早くから認めてもいいと考える家庭と、あまり早く認めない方がいいという家庭を比べると、後者の方がその後成績もよく欲努力する傾向にあるのだそう。この時、母親の考えはあまり関係ないんだって。
難しいね。子育てって。物わかりのいい親がいいとも限らない。
父親の重要な役割は、子どもにストップをかける抑止機能として作用し、やがて、それは、子ども自身の中に自己コントロールする力として取り込まれていくのを助けること。ストップをかけ掟を守らせる存在としての父親は、子をスムーズに社会に出ていく上において重要である。
岡田氏のいう『父親不在症候群』とは、
① 母親への依存と母子融合
② 誇大な願望と自己コントロールの弱さ
③ 不安が強くストレスに敏感
④ 三者関係が苦手 三角関係という事態が、まるで罠のようにこのタイプの人に引き寄せる。不倫関係に陥りやすい理由の一つは、そうした力動
による。独占欲が強い。うつリスクや不幸を感じる人の割合が高い。
⑤ 否定的な意味合いを持つ父親の存在は、子どもの自我・理想の発達を妨げ、人間社会や人生に対する否定的な見方を植え付け、向上心の乏しい投 げやりで無気力な状態を生みやすい。
スエーデンの研究では、女性とパートナーや夫、息子との関係は、その女性の母親との関係よりも父親との関係に影響されていて、父親の娘にほどよい支えや励ましを与えている場合には、娘もまた、パートナーや息子に対して、ほどよい世話やかかわりをしやすい。しかし、父親が無関心だったり、暴力的だったり過干渉で支配的だったりすると娘も尽くしたり支配しずぎたり見放したりしやすい。
DVを行う男性の多くは、他者との距離が取れず、自分の所有物のように恋人や配偶者を扱ってしまう傾向がある。
バソプレッシンの重要な働きの一つは、愛するものを守るため、外敵を攻撃するのに必要な勇気を賦活すること。同じ攻撃性が愛する者を攻撃することに使われてしまうのがDV。
ほんとうにのぞんでいることが、離婚ではなく、円満な家庭を取り戻すことだとしたら、DVという捉え方で夫を断罪し裁判にかけ離婚を勝ち取ったところで・・・・。
DVとアルコール依存症やギャンブル依存症などの男性は変わらない。離婚しか道はない・・・と思っていた。でも、こんなしょうもないパートナーと結婚してしまった女性は、人生のチャレンジャーなのだ。人生のお題が、『どうしたら円満な家庭を築けるか?』という壮大なテーマを神様から与えられた人なのかもしれない。知恵勝負だ。
全国のこんなしょうもないパートナーと結婚してしまった、でも、最後は、円満な家庭を築けた・・・・という女性の声を集めてみたい。そこには、きっと、何か人が人としてこの世に存在する答え(英知)という宝物が潜んでいるような気がする。実際は、しょうもないパートナーとしょうもないと諦めて暮らしている女性がほとんどだとは思う。でも、そうでない思慮深い知恵溢れる女性もきっといるはずだ。どうにかして、夫が一人前の男という後姿を子どもたちの前でみせられるようになるための知恵って発掘に近い希少価値かもしれないけれど、地球上のどこかにはあるはずだ。
しょうもない男と結婚してしまった学会を作ってみたいな!
人間ドック学会が出した緩い基準値にみななびいてしまって、厳粛な高血圧学会とか糖尿病学会などが慌てて、『人間ドックの基準値は、人間ドックを受ける多くの人は病気にかかっていない。そんな人が人間ドックを受けているわけで、そんな健康な人のデータだけでは判断できない。』と訴えている。
確かに、夫として父親としてさして問題のない人だけを集めた学会と、しょうもない夫、あるいは、父親を集めた学会では、もう、全然、違うことは自明の理だ。
そっちかよって思われた?
そうなの。そっちなの。
沢田知可子さんのコンサートに行ってきた。歌セラピーという副題で楽しみにしていたコンサートだ。
改めて、『歌手』とはこういう方のことを言うのだと思った。声そのものも神様からいただいたであろう女性らしい優しさや寛容さを含んだ美しい声で、その声を魂レベルまで昇華されているような歌声になっていた。
ピアノ伴奏がご主人ということで、24時間いつもいっしょにいるため、仲よくするということを意識しているとのこと。なぜなら、歌セラピーだから。もし、コンサート直前に夫と夫婦げんかでもしてしまったら、歌セラピーどころではなくなるからって。
そりゃそうだね。不協和音で歌われたら、セラピーどころではないもの。
夫婦で、いつも仲よくすることを意識することって素晴らしいことだなって思った。
夫婦で一つのものを作り上げるということって、実は、夫婦円満の秘訣なのかもしれない。
夫婦で農家をしている方たちって、仲いいもん。
いっつもいっしょにいて、すごいな、偉いなって思っていたけれど、いっつも一緒にいて、目的が一つだからいいのだろうなぁ。
いろんな家庭で育つ。
これは、人間の宿命。
『あなたは、お母さんとお父さんを選んで生まれてきたのよ。』と言われても、思春期の子どもに、それは通じない。
そんな余裕はない。
男性は、人に相談しないという。夫をみていても長男をみていても、自分の信念というものはしっかり出来上がっていて変わることはなさそうに見える。私なんか、30にしてやっと人間らしくなってきたな、さぁ、今から、寛容さを手に入れるためにもっと豊かな心になりたいっていう感じで、それは、今も変わらない。つまり、人間的成長の目標が寛容さだったり、太陽のような存在だったりするので、エンドレス。でも、どうも、男性ってやつは、それがないように思える。20歳までに人間性は確立しちゃって、あとの人生は、攻略とか戦術とかそんな世界でゲームに挑む時間・・・のように見える。それは、あくまでも彼らの20歳以降の人生の目標設定という意味で・・・・。
ただ、結婚という濃厚な距離感の人間関係で多少は変化するものではあると思うけれど、人間性の成長という目標で生きていないので大幅な変更はないような気がする。まだ、23歳の息子もしっかり相談相手になってくれてびっくりすることがある。私が50年かけてすったもんだしながら、やっと手に入れたものの見方を、すでに手に入れている。夫と長男の二人だけで判断するのも危険だけれど、男性って、20歳でものの見方って出来上がっている感を否めない。
だとしたら、結婚して、全然白馬の騎士でなかったという現実を突きつけられた時、『こんなはずじゃなかった。でも、私がどうにかして夫を人間的に成長させよう・・・・なんて思ってはいけないのかも。この価値観の人といかに〝生活”をうまく楽しくやていくか・・・。』というテーマで生きるか、離婚するかの2者択一で人生を歩んでいくしかない・・・のかなぁ。
沢田知可子さんの夫婦円満の秘訣は、残念ながら、『夫の忍耐』だった。場内が笑いの渦に巻き込まれた。
ほんとうはそうじゃないのかもしれな。
さんまや関根勉さんなど芸人さんの多くも、そんな風に表現することが多い。
『夫の忍耐』なんて我が家にはどこ探しても見当たらないないので、非常に羨ましいかぎり。
忍耐してくれる夫と結婚できた方は、感謝しよう。
西高東低?
女性の忍耐の気圧配置図は、西高東低。
男性の忍耐の気圧配置図は、東高西低?
忍耐とは危険な感情だ。
特に、女性にとっては・・。
夫婦関係において、男性の忍耐と女性の忍耐は、その忍耐の持つ意味合いが違うような気がする。
男性の妻への忍耐は、ある種あきらめの感がある。あきらめて、それだけ。害がない。
でも、女性の忍耐は、そこに恨みを抱えているような気配を感じる。いつ何時反旗を翻すかわからない怖さがある。
だから、沢田知可子さんの夫の忍耐は、明るい。笑いが出る。
これが、沢田知可子さんの方の忍耐だと心配になる。
わが町では、80代の女性の自殺者数が結構多い。一人暮らしではなく、同居家族がいる。
どうして?って思っていた。
ある女性が、『もう限界だったのよ。』と一言おっしゃった。
そう。忍耐への恨みつらみが溜まって、我慢の限界に達した末、復讐のニュアンスのある自殺を選んでしまった・・・・のかもしれない。
ベストパートナーの本にも書いてあった。
女性は、幼ければ幼いほど、尽くす・・・・と。
80歳を過ぎて、尽くしすぎて(我慢しすぎて)その限界で死を選ぶ女性は、それまでに、『それはできないわ。』という『NO!』をのびのびと言えなかった人生だったのかもしれない。そして、恨みに変質したがまんの限界にきて、恨みの極め付けの表現を選んでしまったのかもしれない。
尽くすという言葉は、一見、女性らしいいい言葉に聞こえるけれど、そこに、見返りを求める下心が潜んでいる限り、報われないと恨みに代わる魔物でもある。だから、尽くすという言葉にはご用心。
そんなこんなで男性の忍耐と女性の忍耐は、違うような気がする。男性は、基本、女性に尽くしていないもん。かいがいしく身の回りの世話をしていないもん。見返りを求めていないもん。そんな人種だもん。
男性の忍耐は、奥さんの好き勝手を許してあげる・・・みたいな忍耐。家事をしてくれないので自分でするっきゃない・・・的忍耐。一人で暮らしていたら、当然、自分がやらなきゃいけないことを奥さんの身勝手で自分がやらなきゃ仕方ない・・・というような忍耐。見返りという打算がそこにない分、男性の忍耐の方が単純で、そこに、恨みという感情は発生しにくいかもしれない。
多くの女性の課題は、『それはできないわ』とただ、できないというメッセージをさらりと相手に伝えられるようになれることかなぁ。わたしなんか、心の中では拒否しても、NOと言った後の相手の反応に敏感に反応してしまう。相手が否定的な感情をチラッとでも見せると、心が揺れる。そのストレスより、がまんして自分でやった方が気が楽という、その場しのぎ人間で生きてきた。
ほんとうは、否定的感情の持ち主は相手方なのだから、相手の問題であるはずなのに、その場で自分が傷つきたくないがゆえに、相手の問題までも自分が引き受けてしまって、波風を立てないことを最優先してしまう。そこに、がまんという不協和音が生じる。
それもこれも、小さい頃から、自己主張することに慣れていなかったせい。イヤなことはイヤだといえなかったせい。ケンカって素晴らしいことだということを親から学んでこなかったせい。
女の子は、ちゃんとけんかしてこなかったから、派閥を作りやすい。仲間の中で、がまんしている。仲間でもケンカしてスッキリ仲直りできる仲間ならいいけれど、仲間になった途端、表面上、なかよしこよしになるから、衝突しない道を選んでしまう。そうするとがまんの感情が発生する。そうすると、Aさんのいないところで、Bさんの悪口を、BさんのいないところでCさんの悪口を・・・という誰も信用できない渦に巻き込まれていく。
だからこそ、女子のお仕事の場では、公のテーブルで議事録を作成することを前提として、言いたいことを言える環境を用意し議論というケンカの場を設けることが、職場では有効だと思う。あえて、公でけんかをする場を設定する。その仕事がスムースに効率よく効果的に実施できるよう、そして、みんなで協力し合って仲よく無理なく遂行できるような目的意識を持って協議するというスタンスを身に着けていくよう支援していく進行役が必須だ。そういうことをしないでいると、各人が不満を陰でこそこそいうという泥沼に陥ってしまいやすい。女子は・・・。皆、がまんしている状況では、仕事の能率も下がる。前向きな仕事も前に進まない。男子は、チガウ。仕事と割り切っている。個人的感情は、しっかりあるけれど、仕事と割り切っているので、仕事中にその人のないところでその人の悪口を言うことはそんなにないように見える。しかし、女子は、仕事に感情が侵入しやすい。おまけに幼い頃からケンカに慣れていない。だからこそ、公というテーブルで、議論というケンカのプロセスを踏んで、仲直りする術を身に着けていくように仕掛けていくことは、意外と大事なことじゃないかなと思う。
結婚したての頃は、尽くしたくて尽くしているんだと思う。それが、自然な感情だと思う。それが、いつしか『こんなに尽くしているのに、どうして・・・・してくれないの?』となってくる。たぶん、子どもを産んでから、育児や家事のいろいろをしてくれない状況が重なってくるとそう感じるようになる。
尽くす・・・・とは、なんぞや?
英語に尽くすという言葉はあるのだろうか?
国語辞典には、尽くすとは、『あるだけのものを出す。人のため(社会のため)に努力する。すっかり・・・・する。』と載っている。
女性は、知らないといけない。
尽くせば尽くすほど、多くの男性は感謝するというような機微な感情を持ち合わせていないらしい。彼女がそうしたくてやっている・・・・程度の認識だそう。
だから、女性は何かをするとき、特にパートナ―に対して、自分が好きでやっているという自覚のもとに尽くしてあげたほうが、恨みに変わらないので得策だ。巷では、『ありのままに・・・・・・。』という歌声が、あちらこちらで飛び交っているけれど、尽くすときも、この気持ちはありのままの気持ちかい?無理していないかい?好きでやっているのかい?見返りを求めていないかい?できないことはできないってきちんと伝えているかい?などなど、自分の気持ちを確認してみよう。
みんな、ありのままに・・・と平気で歌っているけれど、このありのままというのが、難しい。自分の気持ちすら到達しにくい
尽くす・・・という言葉一つにしても、ありのままの自分は、ほんとうに尽くしたいのか?それすら疑問だ。心の片隅のどこかに、見返りを期待していないだろうか?
よくよ~~~~~~~~~~く考えてみると、結婚するまでは、多分、ありのままな自分の気持ちは『○○してあげたい。』だったように思う。そして、結婚してもそうだった。長男が生まれてからもそうだった。でも、仕事に復帰した時から、家事育児をほとんど担おうとしない夫への恨み心が芽生えていったような気がする。でも、怖いので、言えなかった。そして、私も同じように働いているのに、どうして私だけが・・・・・という気持ちがどんどん膨らんでいった。当然、家事育児は半分ずつ分担ね!というような男女平等意識はなかったけれど、夕方、私が家事をしている間に一緒に遊んでくれるだけでも助かっただろうに、それすらしようとせずにいる夫に、かなり恨みという心の不良債権が蓄積していったと思う。
でも、問題は夫ではなく私にあったのだ・・・・と今なら言える。
『これ以上、できないわ。』と夫に面と向かって訴える勇気がなかった。悪代官に直訴する勇気が・・・・。まぁ、悪代官と言っても、夫は意地悪ではなかった。ただ、幼いころに愛されなかった不満をいっぱい抱えて、幼いころにわがままが言えなかった分の矛先を、無意識に私に向けていただけだったのだけれど・・。倍返しで。
なんだかんだ言って、今なら、悪代官にも平然とあしのままに自分の思いを伝えることができのだから、人間としては、勇気がないがゆえに卑怯になる戸いう残念さをしょい込む確率は減ったかもしれないという点で、感謝もしているところ。
よって、尽くすという気持ちは、常に徹底検証される必要のある気持ちに分類されると思う。
例えば、自分が尽くしていると思っている時、これが、もし、お金だったとしたら、100万円分の労力だとしたら、相手が100万円返さなくっても平気でいられるか?
そう。お金を貸すときに、この私にとっての大金をあげる覚悟でいられるか?
パートナーに尽くすことは、つまり、もし、今、自分の貯金が100万円あるとしたら『100万円、利子も何ももいらないわ。あなたのために全てをあげる。』と、まるで、100円をあげるような感覚であげることができる・・・ということなのだ。これは、とっても美談に聞こえるけれど、どうなんだろう。あるだけのものを出す、つまり、100万円全部を出すってなると、じゃぁ、あなたの生活はどうなるの?あなたはあなた自身で生きてゆけるの?って話になる。
ムリ・・・・。
人は、まず、自分の足でちゃんと立つことが最優先されるべき。自分を自分で支えられないのに、人を支えられるはずがない。
そして、もっと大切なことは、自分が尽くすことで、相手が一人で立てなくなる怖れはないだろうかということを意識することじゃないかと思う。
得てして、自分の足で立とうという覚悟のない人ほど、愛という名のもとに尽くすことを強要する男性が多いような気がする。つまり、小さい頃甘えられなかった人ほど、恋人に甘えてしまう。その甘えが、依存