あなたを苦しめ、あなたをなぶり、あなたを混乱させ、あなたを困らせる人は、みんな、あなたの先生です。
彼らが賢いからではなく、あなたが賢くなりたいと思っているからです。
と最近読んだ本に書いてあった。
え~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。
つづく
確かに、人として寛容でありたい・・と願ってきたけれど・・・・・。
去年、胃がんとわかる前の頃、神様は、これ以上、私に試練をお与えはならないだろう・・・・とマジ、思っていた。それくらい、試練続きであった。なのになのに、去年の夏に胃がんと宣告され、胃を切る羽目になったとき、いくらなんでも、もう、もう、マジ、これ以上、試練はお与えにならないはずと思った。
が、しかし、四男のことで、校長室から強力な磁石が我が家に向けて発せられ、挙句の果てに例の事件。
そして、最大の大打撃は、夫という存在。
夫に関しては、もう、これは笑ってごまかすしかないというほど、たぶん、くじ運が悪い。
結婚してからというもの、自分でいうのもなんだが、悲劇のヒロインかと錯覚してしまうほど、私は幸せからは遠い世界の住人だった。今までは、それを、しょうもない夫のせいだとしていた。実際、まぁ、そうなんだけれど、本日から、夫を私の先生だと思い、賢くなるぞ!
どうやって、賢くなるか・・・・。
私は、私の夢を実現させるべく、閃きに向かってアクションを起こすことにした。
夫は、夫で、しょうもないけれど、夫なりに精いっぱい生きている。
それは、それで、事実である。
世間一般から言えば、全然、父親として夫としての責任を果たしているとは思えないけれど、もういいや。
夫は、きっと、夫なりの人生の課題と向き合っているのだ。
最低限、夫としてこうあるべき、父親としてこうあるべき・・という概念を、本日、私は、捨てます。夫は、夫で勝手にしてください。もう、夫のことで、私の大事なハートがじくじくなるのはごめんです。夫として、父親として、せめて、これくらいのことはしてほしいと訴えるくらいいいような気もするけれど・・・・。
私は、この困った夫を、私が賢く(寛容になりたい)なりたいと思ているから、神様がよこしてくれた先生なのだと腹を据えて受け入れる覚悟を決めた。
もう、惑わされないぞ!
と宣言した瞬間から、目の前をウロウロされると、心が揺れるし、疼くし、マイナスの感情が脳裏を駆け巡る。
弱いな、私。
私は、人からこうあるべきだと強要されたら、窒息してしまうと思う。
なのになのに、私は、夫にこうあるべきだ(一家の大黒柱として稼ぐべきだ。あるいは、共働きなんだから家事はそこそこしてもらってもいいはずだ。)という概念で夫に強要している。稼がない夫、共働きなのに洗濯物を干してごみを出す以外は何もしない夫を無視できず、悶々としている。理想の夫なんて微塵も望んでいないけれど、今の夫は、そりゃないだろうレベル。せめて、これくらいは・・・と求めてしまう。
私が、こうあるべきだという概念をあっさり捨てて、あてにせず、じゃあ、『私がやる』ときっぱり断言できたらいいのだけれど、すっぱりあきらめきれたらいいのだけれど、あと一息。
たぶん、本気であきらめきれたら、全てが変わるんじゃないだろうか、何かがいい循環で動き出すんじゃなかろうかという予感がする。予感がするんだけれど、一切の未練もなく夫を夫として父親としてあてにしないという心境までなるには、もう一歩。それが、難しい。
不妊症の治療をしていて、5年も10年も頑張ったけれどできなくて、もう、ほんとうに心底あきらめて、夫婦二人用の家を建てたとか自分の趣味に打ち込んでいたら、授かったという女性は多い。
心底あきらめて、もういいやと悟ったとき、カラダがココロから解放されて、ストレスがなくなり、自由にのびやかになり、その結果、ホルモンのバランスがよくなって妊娠するのかなぁ。
私も、夫に対して、夫として父親として・・・なんてもうどうでもいいやとあきらめて、心底、当てにせず、期待しないから何もしてくれなくて心がざわめかなくなり、ココロがのびやかになり、その結果、何かいいことが起きそうな予感はするのだ。
あ~~~~。あと、一歩。あと、一歩なんだけどなぁ~。
つづく
ふっきれる・・・・。
そう、ふっきれた時、何かが動き始める。
そんな気がする。
『こだわりを捨てる』という本をひろさちやさんが出されている。
こだわりか~~~~。
そうかもねぇ。
こだわりが、諸悪の根源なのかもねぇ。
こだわるから、悩む。
他人が関わること(つまり、他人が自分の思うとおりにならないこと)にこだわるのをやめて、ただただ、自分の夢にこだわる(焦点を当てる)。
他人は他人で、その人の価値観に照らし合わせればせいいっぱい生きているはずなのに、自分の価値観と合わないと、そのせいいっぱいを受け入れられず、なぜだか、自分がまっとうで、相手がおかしいという感覚に陥ってしまうのは、なぜ?
他人の価値観を押し付けられることは、束縛されることと同じなので、それは不幸なことだけれど、ただ、自分と違う価値観の人と暮らしているというだけでなんだかイライラしたり不愉快になったりするのは、不幸ではなく、きっと、人間的に器がちっちぇ~・・・・んだと思う。
神様は、お試しになっているのだろうか。
かなり、想定外な夫と暮らす羽目になって、さぁ、どんだけ心が穏やかでいられる?っていう感じで、問われているような気がしてならない。そうでないと、天から災難がこんなに降ってくるわけがない。
事実、最近、少々の災難には、ちっとも動じない自分がいて、すごいなと自画自賛しちゃったりしている。
想定外に慣れてきた。
いいぞ。いいぞ。その調子。あともう一息で、夫の価値観へのこだわりからさよならできる。
つまり、幸せになれる(はず)。
グッドバイ!こだわり。
つづく
彼らが賢いからではなく、あなたが賢くなりたいと思っているからです。
と最近読んだ本に書いてあった。
え~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。
つづく
確かに、人として寛容でありたい・・と願ってきたけれど・・・・・。
去年、胃がんとわかる前の頃、神様は、これ以上、私に試練をお与えはならないだろう・・・・とマジ、思っていた。それくらい、試練続きであった。なのになのに、去年の夏に胃がんと宣告され、胃を切る羽目になったとき、いくらなんでも、もう、もう、マジ、これ以上、試練はお与えにならないはずと思った。
が、しかし、四男のことで、校長室から強力な磁石が我が家に向けて発せられ、挙句の果てに例の事件。
そして、最大の大打撃は、夫という存在。
夫に関しては、もう、これは笑ってごまかすしかないというほど、たぶん、くじ運が悪い。
結婚してからというもの、自分でいうのもなんだが、悲劇のヒロインかと錯覚してしまうほど、私は幸せからは遠い世界の住人だった。今までは、それを、しょうもない夫のせいだとしていた。実際、まぁ、そうなんだけれど、本日から、夫を私の先生だと思い、賢くなるぞ!
どうやって、賢くなるか・・・・。
私は、私の夢を実現させるべく、閃きに向かってアクションを起こすことにした。
夫は、夫で、しょうもないけれど、夫なりに精いっぱい生きている。
それは、それで、事実である。
世間一般から言えば、全然、父親として夫としての責任を果たしているとは思えないけれど、もういいや。
夫は、きっと、夫なりの人生の課題と向き合っているのだ。
最低限、夫としてこうあるべき、父親としてこうあるべき・・という概念を、本日、私は、捨てます。夫は、夫で勝手にしてください。もう、夫のことで、私の大事なハートがじくじくなるのはごめんです。夫として、父親として、せめて、これくらいのことはしてほしいと訴えるくらいいいような気もするけれど・・・・。
私は、この困った夫を、私が賢く(寛容になりたい)なりたいと思ているから、神様がよこしてくれた先生なのだと腹を据えて受け入れる覚悟を決めた。
もう、惑わされないぞ!
と宣言した瞬間から、目の前をウロウロされると、心が揺れるし、疼くし、マイナスの感情が脳裏を駆け巡る。
弱いな、私。
私は、人からこうあるべきだと強要されたら、窒息してしまうと思う。
なのになのに、私は、夫にこうあるべきだ(一家の大黒柱として稼ぐべきだ。あるいは、共働きなんだから家事はそこそこしてもらってもいいはずだ。)という概念で夫に強要している。稼がない夫、共働きなのに洗濯物を干してごみを出す以外は何もしない夫を無視できず、悶々としている。理想の夫なんて微塵も望んでいないけれど、今の夫は、そりゃないだろうレベル。せめて、これくらいは・・・と求めてしまう。
私が、こうあるべきだという概念をあっさり捨てて、あてにせず、じゃあ、『私がやる』ときっぱり断言できたらいいのだけれど、すっぱりあきらめきれたらいいのだけれど、あと一息。
たぶん、本気であきらめきれたら、全てが変わるんじゃないだろうか、何かがいい循環で動き出すんじゃなかろうかという予感がする。予感がするんだけれど、一切の未練もなく夫を夫として父親としてあてにしないという心境までなるには、もう一歩。それが、難しい。
不妊症の治療をしていて、5年も10年も頑張ったけれどできなくて、もう、ほんとうに心底あきらめて、夫婦二人用の家を建てたとか自分の趣味に打ち込んでいたら、授かったという女性は多い。
心底あきらめて、もういいやと悟ったとき、カラダがココロから解放されて、ストレスがなくなり、自由にのびやかになり、その結果、ホルモンのバランスがよくなって妊娠するのかなぁ。
私も、夫に対して、夫として父親として・・・なんてもうどうでもいいやとあきらめて、心底、当てにせず、期待しないから何もしてくれなくて心がざわめかなくなり、ココロがのびやかになり、その結果、何かいいことが起きそうな予感はするのだ。
あ~~~~。あと、一歩。あと、一歩なんだけどなぁ~。
つづく
ふっきれる・・・・。
そう、ふっきれた時、何かが動き始める。
そんな気がする。
『こだわりを捨てる』という本をひろさちやさんが出されている。
こだわりか~~~~。
そうかもねぇ。
こだわりが、諸悪の根源なのかもねぇ。
こだわるから、悩む。
他人が関わること(つまり、他人が自分の思うとおりにならないこと)にこだわるのをやめて、ただただ、自分の夢にこだわる(焦点を当てる)。
他人は他人で、その人の価値観に照らし合わせればせいいっぱい生きているはずなのに、自分の価値観と合わないと、そのせいいっぱいを受け入れられず、なぜだか、自分がまっとうで、相手がおかしいという感覚に陥ってしまうのは、なぜ?
他人の価値観を押し付けられることは、束縛されることと同じなので、それは不幸なことだけれど、ただ、自分と違う価値観の人と暮らしているというだけでなんだかイライラしたり不愉快になったりするのは、不幸ではなく、きっと、人間的に器がちっちぇ~・・・・んだと思う。
神様は、お試しになっているのだろうか。
かなり、想定外な夫と暮らす羽目になって、さぁ、どんだけ心が穏やかでいられる?っていう感じで、問われているような気がしてならない。そうでないと、天から災難がこんなに降ってくるわけがない。
事実、最近、少々の災難には、ちっとも動じない自分がいて、すごいなと自画自賛しちゃったりしている。
想定外に慣れてきた。
いいぞ。いいぞ。その調子。あともう一息で、夫の価値観へのこだわりからさよならできる。
つまり、幸せになれる(はず)。
グッドバイ!こだわり。
つづく