「テイキング サイド(加担する、味方する)」は英劇作家ロナルド・ハーウッド原作で、1995年のロンドンでの初公演で話題作となり、以来ブロードウェイでも上演され、その後フランス・ドイツ・オーストラリアでも上演されています。
舞台だけでなく、2001年にはハンガリーの映画監督によりイギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・ハンガリーの共同制作で映画化され、翌年のベルリン国際映画祭では銀熊賞を受賞したそうです。映画の脚本もロナルド・ハーウッド自身が担当したとのこと。
大阪では2月23・24日の2日間3回の公演日程でした。
途中の道で一部工事渋滞があったものの、およそ45分で劇場に到着。
劇場ロビーの様子です。
今回の席は前から5列目の下手よりの良席でした。
ということは、あまり売れていなかったということです。(笑)
実際、当日も客席後方はかなりの空席がありました。今回は観客の男率がかなり高かったです。年齢層も高めでした。
公演は5分以上遅れて開始しました。時間に正確なタカラヅカになれていると、遅れが気になりますね。(笑)
舞台は敗戦後のドイツ、連合軍の空爆で瓦礫となった建物の一角。パンフレットでは米軍司令部施設の一室のようです。
そこで米軍将校が、ナチスに協力した人物を調査する「非ナチ化審査」に従事しています。
その将校、スティーヴ・アーノルドという米軍少佐で、戦前は保険会社で保険金支払いの査定業務をしていました。
演ずるのは筧利夫。ほとんどしゃべりっぱなしの役で、本当によくあれだけの台詞を覚えられるものです。
話は指揮者フルトヴェングラーの尋問をめぐって展開していきます。
尋問には記録係として秘書のエンミ・シュトラウベ(福田沙紀)が同席しています。少し遅れて尋問の補佐役としてウィルズ中尉(鈴木亮平)も登場。
アーノルド少佐は、どうやって大物指揮者フルトヴェングラーの化けの皮を剥いで、彼がナチスの協力者であったことを証明しようかとあれこれ策を練ります。
やがて当の指揮者フルトヴェングラー(平幹二朗)が出頭。さすがに存在感があります。
しかし少佐は、大物指揮者に気圧されまいと保険金の査定と同じような事務的で手厳しい調子で指揮者を問い詰めていきます。
その過程で、夫がユダヤ人ピアニストだったザックス夫人(小島 聖)や、以前はナチスの協力者で今は米軍に媚を売る二流のバイオリン奏者ローデ(小林 隆)も参考人として登場し、指揮者を追い詰めていきます。
少佐を駆り立てているのは、戦争中に見たナチスのユダヤ人に対するジェノサイド政策を目撃した衝撃体験による悪夢。
それ故のナチスへの憎悪からくる過酷な尋問に、エンミやユダヤ人であるウィルズ中尉さえたまりかねて制止しようとしますが、矛先はとまりません。
そこで焦点となるのは、政治と芸術の関係、芸術家としてのフルトヴェングラーの功績の評価、ナチスの独裁下での彼の行動や言動、さらに国外に亡命しようとすれば出来たのにとどまって音楽活動を続けたことの是非などの評価です。
フルトヴェングラーは「私は政治と芸術は別物だと考えている。私が指揮してきたのはナチスのためではなくドイツ国民のためだ」と主張するのに対して、アーノルドは「お前は単に保身のためにナチスに協力してきただけだ」と切って捨てます。
そして少佐は、指揮者をただの一人の人間に還元して、その利害や打算、倫理面での問題からナチスとの関係を暴こうとします。最後には指揮者の私生児の数などにも言及して、丸裸にしようとします。このやり方は古今東西の尋問の際の常道ですね。
「お前は芸術家などではない、好色で嫉妬深く計算高いただの一人の男に過ぎないんだ」と思い知らそうとするわけです。
舞台で筧利夫は、偉大な指揮者を追い詰めていくアーノルド少佐を頑張って演じています。
ただし、気になったのは彼の台詞。
演出なのか、まるで洋画の吹き替えの声優のような一本調子で、普通の会話になっていないのです。彼以外の役者はすべて普通に自然に話しているので、その違和感が際立ちました。
ヨメさんも同意見でした。声だけ聴いていると、アメリカの裁判物のテレビドラマのような感じです。
でもこの芝居、よく考えたら、彼のキャラクターは実在の人間ではなく、芸術至上主義的な価値観の「ヨーロッパ」に対するプラグマティズムの「アメリカ」を体現しているのでしょう。
実際パンフレットで筧利夫は、「戦争が終わって今度は『アーノルド』が『ヒットラー』の代わりとなってフルトヴェングラーの前に現れてきたと思う」といっていますが、あたっているかもしれません。
そうだとすると、アーノルドがアメリカのステロタイプな吹替えTVドラマの登場人物を連想させたのは演出家の意図するところだったのかもしれませんね。
指揮者フルトヴェングラーの平幹二朗はさすがに貫録十分。
偉大な指揮者を演じて説得力があります。そしてその偉大な指揮者が、世俗的な「証拠」を突きつけられて、次第に動揺を深めていく姿を巧みに演じていました。少し台詞が滑ったところもありますが、年齢を考えたら驚異的な演技ですね。
秘書役のエンミの福田沙紀。私は初めて舞台を観ましたが、自然な演技が印象的でした。
ドイツ人のエンミが秘書に採用されたのは、父がヒットラー暗殺計画に参加したことで信用されたからです。
でもあまりの少佐の指揮者への執拗な尋問にたまりかねて、「私の父は信念で反ヒットラーになったのではない、このままではドイツが負けるということで計画に加わっただけだ」と言わずにはいられなくなります。
普通の女の子という設定ですが、ナチュラルさが光っていました。
同じように鈴木亮平のウィルズ中尉も好演していました。幼い彼は親戚を頼ってアメリカにわたりますが、残った両親はドイツで行方不明。当然ナチスに対する憎しみは強い。
そんな彼でも、少佐の常軌を逸した取り調べの手法には我慢できず、「反ユダヤ的発言をしたことがない非ユダヤ人がいたら見せてください。そうしたら至上の楽園にお連れしますよ」と叫びます。
素朴な青年という役柄がにじみ出ていてよかったですね。この人も初めて観ましたが大きいです。筧利夫が本当に小さく見えます。
嫌らしい役柄なのがベルリンフィル第2ヴァイオリン奏者だったローデ・小林 隆。
卑屈でその場その場の勝ち馬に乗る俗物根性丸出しな役回りですが、嫌らしさがリアル(笑)に出ていました。フルトヴェングラーと対極に位置する人物の設定です。
ただ彼は、フルトヴェングラーと違い、ナチに加担してしまった過去は痛切に恥じていて負い目を感じています。それは当時のすべてのドイツ人の共通した心情だったと思います。
出番が少なくて残念だったのがザックス夫人の小島 聖でした。演技は確かな感じでしたが、何しろ舞台の登場時間が短すぎで、もっと観たかったというのがすべてです。
この演劇、結末はありません。
どちらの側に立つのか、観客自身が結論を出すように、作者から問いかけられた形で終わっています。
余談になりますが、劇中で比較されているように、ナチス党員資格を二重に保有してもっとヒットラーの寵愛が大きかった世渡り上手なカラヤンと世渡り不器用なフルトヴェングラーの関係はなかなか意味深ですね。
よりヒットラーに近かったカラヤンは戦後すぐに復帰したのに、フルトヴェングラーはなかなか復帰が許されなかったということですが、その違いは音楽の指揮の違いとなって表れている感じですね。
観終わって、あちこちにアナクロながらも無視できない勢いの「プチ・ヒットラー」や「亜ヒットラー」が台頭し、それらに無批判に迎合する風潮や容認する傾向が目に付くキナ臭い時代に、この演劇の問いかけるものは重くて大きいことを感じました。
前回の「組曲虐殺」に続いて重いテーマの観劇が続きましたが、真剣に考えなければと思いながら劇場を後にしました。
ただ、井上ひさしだったらもっと面白く観せてくれたでしょうね。