平成22年1月29日、鳩山首相が施政方針演説を行った。
第174回国会における鳩山内閣総理大臣施政方針演説(鳩山由起夫)
http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/201001/29siseihousin.html
相変わらず「鳩山ブーメラン」は絶好調だが、細かい部分についての個人的見解はここでは述べない。
社会主義的政策に関する所感は池田信夫氏とほぼ同じである。
そのあたりは私より彼の方がずっと意見として洗練されているのでそのページを見てください。
ガンジーの遺産 (池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/907089.html
ガンジーはインドの独立を指揮した偉大な指導者ですが、彼の後継者であるネルーの指導した国民会議派は「道徳なき商業」を否定して社会主義をとり、インド経済は半世紀にわたって停滞と貧困に苦しみました。最近ようやくインドが新興国として高い成長率をみせるようになったのは、国民会議派に代わって政権をとった人民党などが自由経済を導入してITなどに重点を置いたためです。
首相は、これから日本をガンジーやネルーのような社会主義の道に引きずり込もうとしているのでしょうか。
ただ、メインテーマである「いのちを守りたい。」というスローガンが気になった。
私は、このスローガンが良いか悪いかという評価をしたくはないが、浅いなと思う。
発信者がこの「浅さ」に無自覚であるなら、これは単に古びたコミュニタリアニズムの域を出ない無知さで済む。
それなら、現実主義者に攻撃されて、いや、現実という最強の相手に十字砲火を浴びてあえなく撤退の道を歩むであろう。
だが、もし発信者がこの「浅さ」に自覚的なのだとしたら、これは相当に危ない。
この文章は鳩山首相自身も筆を取ったといわれているが、全文の整合性や文章表現についてのブレーンがいるはずだ。
内容と表現は担当者は異なるかもしれないが、これが意図的なのだとしたら、相当の策士、いや、むしろポストモダニズムを認識した上での世論扇動であり、その意図が読めるだけに恐ろしい。
なぜ「いのち」という表現を使わねばならなかったのか。
そもそも「いのち」とはどういう意味なのか。
ここで鳩山首相が述べる「いのち」とは「守りたい」という言葉から推測すれば「弱さ」のことであろう。
そう考えれば、彼が提唱する「新しい公共」も、「「弱者たる個人」を「共同体」という籠で守る」という意味で簡単に読み解ける。(理解に苦しむほど新しい考えでもないが)
「弱さ」を「いのち」という言葉に置き換えて強調するのは、「弱さを正当化するための論法」に他ならない。
「弱さ」には様々な意味が含まれ曖昧なものだから、「弱さ」を議論する時には、具体的な「弱さ」に意味を限定する必要がある。
具体化された「弱さ」には反論が容易である。
だが、「いのち」には反論しがたい。
誰にとっても「命」は大切なもので、トレードオフにかけられないものだからだ。
我々は「1人の命」と「100人の命」すら天秤にかけることができない。
時に「100人の命」を犠牲にして「1人の命」を守ることが美化されることすらある。
しかし、「命」は誰にとっても絶対的に具体的なもので、具体的な「弱さ」とは意味が異なるから、結びつけるには無理がある。
ここで一つのテクニック、レトリックが使われている。
具体的な「命」を、抽象的な「いのち」に意図的に呼びかえている。
読み手、聞き手が気づかないところで、「命」を「いのち」に呼びかえることで、「命」と「弱さ」を結び付けているのだ。
発信者は「いのち」という言葉を使うことで、「弱さ=命」という意味づけに成功し、反論を封じている。
だから批判者はひたすら「理念先行」だとか「財政が危ない」だとか「バラマキ福祉」だとかという批判に終始し、施政方針演説のメインテーマである「いのちを守りたい。」という核心部分について批判してない。
これは完全に鳩山首相側の土俵に乗っているのだ。
「経済がどうだ財政がどうだといったって、いのちが一番大事だろ?」といわれて反論できる人はいない。
「命」に反論する人間は頭がおかしいと思われるだけだ。
「命」をテーマにする限り「私は命なんてほしくない。」という類の反論しか有り得ないからだ。
いつの時代も一部の識者が訴える。
「「いのち」を守ろうとすることが、より多くの「命」を危険にさらすことになる。」と。
しかし、これまでの人類の歴史で見られたのは、「命」よりも「いのち」が優先される様であった。
それは、人間が「命(を連想させるいのち)」について合理的かつ論理的に判断する術を持たないという、致命的欠陥を持つが故である。
たとえ、10年後に日本国民全員が死のうとも、今日、家族や友人が死ぬことの方が重いのである。
「命」に見せかけた「いのち」の議論は大変に危険である。
反論を封殺してしまう可能性があるからだ。
私は鳩山首相の施政方針演説を読み聞きし、まず最初に村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチ「卵と壁」を思い出した。
「卵と壁」についての内田樹の解説がなんと心に染みようか。
壁と卵(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2009/02/18_1832.php(強調は私によるもの)
「それでも私は最終的に熟慮の末、ここに来ることを決意しました。気持ちが固まった理由の一つは、あまりに多くの人が止めたほうがいいと私に忠告したからです。他の多くの小説家たちと同じように、私もまたやりなさいといわれたことのちょうど反対のことがしたくなるのです。私は遠く距離を保っていることよりも、ここに来ることを選びました。自分の眼で見ることを選びました。」
そして、たいへん印象的な「壁と卵」の比喩に続く。
Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with the egg.
「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」
このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。
たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。
こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。
それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。
そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。
『風の歌を聴け』にその最初の印象的なフレーズはすでに書き込まれている。
物語の中で、「僕」は「鼠」にこう告げる。
「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」
あらゆる人間は弱いのだ、と「僕」は“一般論”として言う。
「鼠」はその言葉に深く傷つく。
それは「鼠」は、「一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さについて「僕」よりは多少多くを知っていたからである。
「ひとつ質問していいか?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」
「ああ。」
鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。
「嘘だと言ってくれないか?」
鼠は真剣にそう言った。
(『風の歌を聴け』)
我々は政治が語るものが「弱さ => いのち => 正しさ」とならぬよう、注意しなければならない。
鳩山首相が述べた「いのち」と「安心」は全く別のモノだという認識を持つべきである。
※
鳩山首相の「新しい公共」とか「共同体」って内田樹のそれと似てるような気がする。
内田樹に比べるとかなり浅いけれど。
本も買ったそうだし影響を受けているのでは。
そういえば、首相側から内田樹に食事の打診があるとかないとか・・。
第174回国会における鳩山内閣総理大臣施政方針演説(鳩山由起夫)
http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/201001/29siseihousin.html
相変わらず「鳩山ブーメラン」は絶好調だが、細かい部分についての個人的見解はここでは述べない。
社会主義的政策に関する所感は池田信夫氏とほぼ同じである。
そのあたりは私より彼の方がずっと意見として洗練されているのでそのページを見てください。
ガンジーの遺産 (池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/907089.html
ガンジーはインドの独立を指揮した偉大な指導者ですが、彼の後継者であるネルーの指導した国民会議派は「道徳なき商業」を否定して社会主義をとり、インド経済は半世紀にわたって停滞と貧困に苦しみました。最近ようやくインドが新興国として高い成長率をみせるようになったのは、国民会議派に代わって政権をとった人民党などが自由経済を導入してITなどに重点を置いたためです。
首相は、これから日本をガンジーやネルーのような社会主義の道に引きずり込もうとしているのでしょうか。
ただ、メインテーマである「いのちを守りたい。」というスローガンが気になった。
私は、このスローガンが良いか悪いかという評価をしたくはないが、浅いなと思う。
発信者がこの「浅さ」に無自覚であるなら、これは単に古びたコミュニタリアニズムの域を出ない無知さで済む。
それなら、現実主義者に攻撃されて、いや、現実という最強の相手に十字砲火を浴びてあえなく撤退の道を歩むであろう。
だが、もし発信者がこの「浅さ」に自覚的なのだとしたら、これは相当に危ない。
この文章は鳩山首相自身も筆を取ったといわれているが、全文の整合性や文章表現についてのブレーンがいるはずだ。
内容と表現は担当者は異なるかもしれないが、これが意図的なのだとしたら、相当の策士、いや、むしろポストモダニズムを認識した上での世論扇動であり、その意図が読めるだけに恐ろしい。
なぜ「いのち」という表現を使わねばならなかったのか。
そもそも「いのち」とはどういう意味なのか。
ここで鳩山首相が述べる「いのち」とは「守りたい」という言葉から推測すれば「弱さ」のことであろう。
そう考えれば、彼が提唱する「新しい公共」も、「「弱者たる個人」を「共同体」という籠で守る」という意味で簡単に読み解ける。(理解に苦しむほど新しい考えでもないが)
「弱さ」を「いのち」という言葉に置き換えて強調するのは、「弱さを正当化するための論法」に他ならない。
「弱さ」には様々な意味が含まれ曖昧なものだから、「弱さ」を議論する時には、具体的な「弱さ」に意味を限定する必要がある。
具体化された「弱さ」には反論が容易である。
だが、「いのち」には反論しがたい。
誰にとっても「命」は大切なもので、トレードオフにかけられないものだからだ。
我々は「1人の命」と「100人の命」すら天秤にかけることができない。
時に「100人の命」を犠牲にして「1人の命」を守ることが美化されることすらある。
しかし、「命」は誰にとっても絶対的に具体的なもので、具体的な「弱さ」とは意味が異なるから、結びつけるには無理がある。
ここで一つのテクニック、レトリックが使われている。
具体的な「命」を、抽象的な「いのち」に意図的に呼びかえている。
読み手、聞き手が気づかないところで、「命」を「いのち」に呼びかえることで、「命」と「弱さ」を結び付けているのだ。
発信者は「いのち」という言葉を使うことで、「弱さ=命」という意味づけに成功し、反論を封じている。
だから批判者はひたすら「理念先行」だとか「財政が危ない」だとか「バラマキ福祉」だとかという批判に終始し、施政方針演説のメインテーマである「いのちを守りたい。」という核心部分について批判してない。
これは完全に鳩山首相側の土俵に乗っているのだ。
「経済がどうだ財政がどうだといったって、いのちが一番大事だろ?」といわれて反論できる人はいない。
「命」に反論する人間は頭がおかしいと思われるだけだ。
「命」をテーマにする限り「私は命なんてほしくない。」という類の反論しか有り得ないからだ。
いつの時代も一部の識者が訴える。
「「いのち」を守ろうとすることが、より多くの「命」を危険にさらすことになる。」と。
しかし、これまでの人類の歴史で見られたのは、「命」よりも「いのち」が優先される様であった。
それは、人間が「命(を連想させるいのち)」について合理的かつ論理的に判断する術を持たないという、致命的欠陥を持つが故である。
たとえ、10年後に日本国民全員が死のうとも、今日、家族や友人が死ぬことの方が重いのである。
「命」に見せかけた「いのち」の議論は大変に危険である。
反論を封殺してしまう可能性があるからだ。
私は鳩山首相の施政方針演説を読み聞きし、まず最初に村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチ「卵と壁」を思い出した。
「卵と壁」についての内田樹の解説がなんと心に染みようか。
壁と卵(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2009/02/18_1832.php(強調は私によるもの)
「それでも私は最終的に熟慮の末、ここに来ることを決意しました。気持ちが固まった理由の一つは、あまりに多くの人が止めたほうがいいと私に忠告したからです。他の多くの小説家たちと同じように、私もまたやりなさいといわれたことのちょうど反対のことがしたくなるのです。私は遠く距離を保っていることよりも、ここに来ることを選びました。自分の眼で見ることを選びました。」
そして、たいへん印象的な「壁と卵」の比喩に続く。
Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with the egg.
「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」
このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。
たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。
こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。
それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。
そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。
『風の歌を聴け』にその最初の印象的なフレーズはすでに書き込まれている。
物語の中で、「僕」は「鼠」にこう告げる。
「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」
あらゆる人間は弱いのだ、と「僕」は“一般論”として言う。
「鼠」はその言葉に深く傷つく。
それは「鼠」は、「一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さについて「僕」よりは多少多くを知っていたからである。
「ひとつ質問していいか?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」
「ああ。」
鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。
「嘘だと言ってくれないか?」
鼠は真剣にそう言った。
(『風の歌を聴け』)
我々は政治が語るものが「弱さ => いのち => 正しさ」とならぬよう、注意しなければならない。
鳩山首相が述べた「いのち」と「安心」は全く別のモノだという認識を持つべきである。
※
鳩山首相の「新しい公共」とか「共同体」って内田樹のそれと似てるような気がする。
内田樹に比べるとかなり浅いけれど。
本も買ったそうだし影響を受けているのでは。
そういえば、首相側から内田樹に食事の打診があるとかないとか・・。