進化する魂

フリートーク
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[スピリチュアル対話シリーズ][02]事前ネタふり

2009-10-05 00:05:58 | スピリチュアル
こびとさんをたいせつに(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php

今日も内田樹ネタです。


「ゼミとは何か」ということについてお話しする。
でも、実は私にも「ゼミとは何か」ということがよくわかっているわけではない。
だから、毎年言うことが変わる。
今回はふと口を衝いて「ゼミの目的は自分の知性に対して敬意をもつ仕方を学ぶことです」と申し上げてしまう。
言ってみてから、そういえばそうだなと思う。
ポランニーの「暗黙知」(Tacit Knowing)も、カントの「先験的統覚」も、フッサールの「超越論的直観」も要するに、「私は自分の知らないことを知っている」という事態を説明するためにつくられた言葉である。
古来賢人たちは必ず「どうして私はこんなに賢いのか」という問いに遭遇した。
遭遇するに決まっている。
自分の賢い所以をすらすらと自力で説明できる(「やっぱ、子どものときにネギぎょうさん喰うたからやないですか」とか)ような人間は「賢者」とは言われない。


彼(内田樹)がいつもいう「学力とは何か?」という説明と全く同じだ。
「人間が人間たらん所以はなにか?」という問いに対して、彼は時として「学力」という言葉を持って説明するし、違うところでは「暗黙知」や「先験的統覚」を使って説明する。
要するに、人間が賢くて、また人間の賢さを決めるのは「自分の知らないことを知る」ことに尽きるということだ。
(厳密にいえば人間以外にも当てはまるであろうが、人間が他の生物と比較して突出して優れているところは何かと考えると「自分の知らないことを知る」能力だということだ。
物事を1次元上の視点から捉える能力のことで「メタ認識」能力ともいう。
(メタファーを提示する能力というのは、西欧人に比べて日本人が不得手なところでもある。)

まず考えて欲しいのだがもしあなたが全てを知っているとしたら、世界はどんなふうに見えるだろうか。
おそらく(いや間違いなく)、非常につまらなくみえる。
全ての因果が見えて、全ての結果がわかるなら、あなたは何にも興味を持つことができなくなるはずだ。
人間は、知らないことがあるから、物事に興味を持ち、それを知りたいと思い、考え、悩み、発し、行動する
あなたが、冒険に出るとき、恋の告白をするとき、罪の告白をするとき、新たなチャンレンジをするとき、何を得ようと思うのだろうか。
何か物質的なモノを得ようとしているのか。
果たして「幸せになるため」なのだろうか。
そうではなく、何かを知りたいからではないだろうか
これはあなたが幸せを感じるときと深い関係がある。
(この話題は極めて深遠だ。簡単には語れないし理解もできない。当Blogで長い時間をかけて説明していきたいと思う。)

あなたが何かを始めたり挑もうとしたりするのは、知らないこと(=知りたいこと)があるからだ。
あなたは自分が無知であることを悲しむかもしれないが、それならあなたが賢いということを示している。
逆にいえば、もしあなたが何もしたくないような状態にいるとするならば「知りたいことがない(無知か傲慢かのどちらか)」か「知ろうとすることを諦めている」かのどちらかだ
人間社会を動かしてきたのは、いつの時代も「私はそれを知りたい」と思う気持ちからだ。
これは進化の基礎である。
そんなことを踏まえて続きを読む。


真の賢者は恐ろしいほどに頭がいいので、他の人がわからないことがすらすらわかるばかりか、自分がわかるはずのないこと(それについてそれまで一度も勉強したこともないし、興味をもったことさえないこと)についても、「あ、それはね」といきなりわかってしまう。


そして、賢い人は助けを得ることが出来る。
彼なりの解釈として「こびとさん」なるものが出てくる。


どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。
私たちは自分の知らないことを知っている。
自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。
私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。
なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。
それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。
私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。
「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。
暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。
それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。
「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。
けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。
「こびとさん」が餓死してしまったのである。
知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。
私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。


彼の言っていることは人間の知性を支えているものが何かということで、彼はそれを「こびとさん」と呼んでいるのです。
「こびとさん」に対して様々な意見があるでしょう。
次回のスピリチュアル対話シリーズではこの件について取り上げてみたいと思います。


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