当ブログでは小泉進次郎氏を今後が期待される政治家として応援しています。
小泉進次郎氏、自民党のヤジに苦言…所信表明演説(スポーチ報知)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091027-00000049-sph-soci
小泉進次郎衆院議員(28)は、鳩山首相の所信表明演説中、ヤジを飛ばし続けた自民党の先輩議員たちに苦言を呈した。「今の自民党がやらなくてはいけないことは民主党を批判することではなくて、民主党を検証すること。そのための臨時国会だと思います」と話した。
鳩山首相の言葉に黙って耳を傾けていた進次郎氏は「言葉遣いは平易で分かりやすかったが、言葉の先にあるビジョンが分からなかった」と厳しく採点。遊説局長代理らしく、あくまでヤジらずに理路整然と指摘した。
惨敗した参院補選を終えて、この日19日ぶりに再開した自身のブログには「民主党が進めようとしている政策が国益に沿うなら協力すべき」と記した。非難中傷合戦は28歳の新人議員の望むところではないようだ。
率直に見て現時点で彼が他の政治家に比して何らかの能力に秀でているとは思わないが、私は彼の資質に大きな可能性をみている。
保守的な日本人が実績を重んじるのはよくわかる。
(保守については日を改めて議論する)
役割に適した人材が必要なのは確かであろう。
しかし、役割が人を育てるという一面もまたある。
我々は未来への投資として、将来性のある若者に役割を任せるコストを受け入れるべきだと考えている。
(できる人を配するのは容易いが、できるよう人を配するのは難しい。)
このことは、内田樹のいう「教育=贈与論」ともつながってくる。
教育=贈与論(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/22_1155.php
教育の目的はただひとつである。
それは人を成熟に導くことである。
誰も人間を他動的に成熟させることはできない。
人間を成熟させるのは自分自身である。
そのためには主体の側に「成熟しなければならない」という強い決意が必要である。
ひとが「私は成熟しなければならない」と思う理由はひとつしかない、それは「成熟しなければ、理解できないことがある」からである。それが理解したいからである。
教育の「謎」は「どうしてこの人は私にこのようなものを贈与するのか?」という問いのかたちで構造化されている。
もし、その贈与が対価とつりあうものであれば、それはすこしも「謎」ではない。
なるほど、私がこれだけのものを支払ったのだから、これが手渡されたのだなということに納得がいけば、それは「謎」ではない。
それはただの等価交換である。
等価交換をどれほど積み重ねても人は成熟しない。
「私が今使っている価値の度量衡では計測できない価値」について知りたいと思うことはない。
私たちは、「それが何を意味するのかが、今の私には理解できない贈り物」が手渡されたときにのみ、その意味を解明するためには「成熟しなければならない」と思い始める。
教育はだから「教える側がまず贈り物をする」ところからしか始まらない。
教育を市場の言葉で語ることが虚しいのは、凡庸なビジネスマンたちはまず「ニーズ」が存在し、それに対して「サプライ」があるという継時的なかたちでしか需給関係を構想できないからである。
真に優れたビジネスマンは、経済活動においてさえ、その本質は「贈与」にあることを知っている。
「最初の一撃」はつねに「なんだかよくわからないものの贈与」としてしか始まらない。
あるいは、「なんだかよくわからないものを贈与された」という自覚(または勘違い)からしか始まらない。
そこから交換が始まる。
反対給付を動機づけるのは、「贈与された」という事実ではない。「なんだかわからないものを贈与された」という事実なのである。
当ブログのいつも主張の繰り返しなのだが、この宇宙に存在する限りトレードオフから逃れることはできない。
当然、教育にもコストがかかる。
そのコストを誰かが負担しなければならない。
政治家を育てるコストは、政治家が社会的存在であるという性質上、社会的な存在として位置づけられた国民が負担すべきものだと私は考える。
(本来的な意味で政治家が必要か?みたいな話までいけばまた異なる意見にはなるが)
隣の小泉進次郎(山本一太)
http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2009-10-27-1
隣の席には小泉進次郎衆院議員。 少し会話を交わしただけで、スグに分かる。 この若手政治家はただものではない、と! ブランドも、能力(中身)も、容姿も、若さも、オーラも持っている。 14年間も政治家をやっているが、ちょっと見たことない、な。 こんな20代の政治家!!(ワクワク)
小泉純一郎氏を嫌いな人たちは進次郎氏のことをよく見ていないだろうが、山本一太氏の表現は彼について誰もが思う率直な意見だと思う。
(山本一太氏の表現はいつも大げさだけど)
確かに今は物足りないかもしれないが、可能性を感じるのだ。
小泉進次郎氏、自民党のヤジに苦言…所信表明演説(スポーチ報知)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091027-00000049-sph-soci
小泉進次郎衆院議員(28)は、鳩山首相の所信表明演説中、ヤジを飛ばし続けた自民党の先輩議員たちに苦言を呈した。「今の自民党がやらなくてはいけないことは民主党を批判することではなくて、民主党を検証すること。そのための臨時国会だと思います」と話した。
鳩山首相の言葉に黙って耳を傾けていた進次郎氏は「言葉遣いは平易で分かりやすかったが、言葉の先にあるビジョンが分からなかった」と厳しく採点。遊説局長代理らしく、あくまでヤジらずに理路整然と指摘した。
惨敗した参院補選を終えて、この日19日ぶりに再開した自身のブログには「民主党が進めようとしている政策が国益に沿うなら協力すべき」と記した。非難中傷合戦は28歳の新人議員の望むところではないようだ。
率直に見て現時点で彼が他の政治家に比して何らかの能力に秀でているとは思わないが、私は彼の資質に大きな可能性をみている。
保守的な日本人が実績を重んじるのはよくわかる。
(保守については日を改めて議論する)
役割に適した人材が必要なのは確かであろう。
しかし、役割が人を育てるという一面もまたある。
我々は未来への投資として、将来性のある若者に役割を任せるコストを受け入れるべきだと考えている。
(できる人を配するのは容易いが、できるよう人を配するのは難しい。)
このことは、内田樹のいう「教育=贈与論」ともつながってくる。
教育=贈与論(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/22_1155.php
教育の目的はただひとつである。
それは人を成熟に導くことである。
誰も人間を他動的に成熟させることはできない。
人間を成熟させるのは自分自身である。
そのためには主体の側に「成熟しなければならない」という強い決意が必要である。
ひとが「私は成熟しなければならない」と思う理由はひとつしかない、それは「成熟しなければ、理解できないことがある」からである。それが理解したいからである。
教育の「謎」は「どうしてこの人は私にこのようなものを贈与するのか?」という問いのかたちで構造化されている。
もし、その贈与が対価とつりあうものであれば、それはすこしも「謎」ではない。
なるほど、私がこれだけのものを支払ったのだから、これが手渡されたのだなということに納得がいけば、それは「謎」ではない。
それはただの等価交換である。
等価交換をどれほど積み重ねても人は成熟しない。
「私が今使っている価値の度量衡では計測できない価値」について知りたいと思うことはない。
私たちは、「それが何を意味するのかが、今の私には理解できない贈り物」が手渡されたときにのみ、その意味を解明するためには「成熟しなければならない」と思い始める。
教育はだから「教える側がまず贈り物をする」ところからしか始まらない。
教育を市場の言葉で語ることが虚しいのは、凡庸なビジネスマンたちはまず「ニーズ」が存在し、それに対して「サプライ」があるという継時的なかたちでしか需給関係を構想できないからである。
真に優れたビジネスマンは、経済活動においてさえ、その本質は「贈与」にあることを知っている。
「最初の一撃」はつねに「なんだかよくわからないものの贈与」としてしか始まらない。
あるいは、「なんだかよくわからないものを贈与された」という自覚(または勘違い)からしか始まらない。
そこから交換が始まる。
反対給付を動機づけるのは、「贈与された」という事実ではない。「なんだかわからないものを贈与された」という事実なのである。
当ブログのいつも主張の繰り返しなのだが、この宇宙に存在する限りトレードオフから逃れることはできない。
当然、教育にもコストがかかる。
そのコストを誰かが負担しなければならない。
政治家を育てるコストは、政治家が社会的存在であるという性質上、社会的な存在として位置づけられた国民が負担すべきものだと私は考える。
(本来的な意味で政治家が必要か?みたいな話までいけばまた異なる意見にはなるが)
隣の小泉進次郎(山本一太)
http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2009-10-27-1
隣の席には小泉進次郎衆院議員。 少し会話を交わしただけで、スグに分かる。 この若手政治家はただものではない、と! ブランドも、能力(中身)も、容姿も、若さも、オーラも持っている。 14年間も政治家をやっているが、ちょっと見たことない、な。 こんな20代の政治家!!(ワクワク)
小泉純一郎氏を嫌いな人たちは進次郎氏のことをよく見ていないだろうが、山本一太氏の表現は彼について誰もが思う率直な意見だと思う。
(山本一太氏の表現はいつも大げさだけど)
確かに今は物足りないかもしれないが、可能性を感じるのだ。
「亀井入閣サプライズと郵政人事を結ぶ点と線」
> しかし、人を変えるために必要なものは、人に対する役割(枠組み)を変えることである。
> 役割が与えられなければ人は何者にもなれず、役割が与えられて人は初めて何者かになれる。
> そして人は何者かになることで、何者かであることから学ぶ。
本論と少し離れてしまいますが、教育に関して言えば、被教育者の姿勢も共に重要になると思います。
「それが何を意味するのかが、今の私には理解できない贈り物」をもらったとき、
贈られた人がそれに興味を持つかどうか。知りたいと思うかどうか。
あるいは、それは、その贈り物を贈った人に課されることなのかもしれません(相手に知って欲しいと思うのであれば)。
それでも、受け取った人次第ではあると思いますが・・・
いつもありがとうございます。
ご指摘の通り、2つのエントリでは教育を受ける側について言及しておりませんでした。
実は内田樹の「教育=贈与論」では、まさにそのことについて説明がなされておりますので、そちらからコピーする形で私からの返信とさせて頂きたいと思います。(他力本願)
"贈与"というところがミソなのだと思います。
----ここから----
同窓生たちの中には億単位の寄付を遺贈する方が少なくない。
それは別にスーパーリッチな卒業生が多いという意味ではなく、彼女たちが「教育というのは本質的に『教える側の持ち出し』である」ということをご存じだからである。
(中略)
昨日お話しした同窓生の方は大正15年生まれ、私の母と同年であったが、その方が「年を取るにつけて、母校がほんとうにいい学校だったんだなという感がだんだん強くなるんです。ふしぎですね」と言われた。
「贈与を受けた」という原体験をもつ人しか「反対給付の義務」を感じない。
ただ、この「贈与」ということを「価値あるものを受け取った」というふうに解してはならない。
そうではなくて、「どういう価値があるのかよくわからないものを受け取った」というのが「贈与」の本義なのである。
贈与されたものが何を意味するのか、何の役に立つのか、それを知るために、長い時間とさまざまな経験を要するようなもの、そのような贈り物だけが「贈与」の名に値する。
学校教育の目的は、学ぶ側に「十分に努力したので、努力にふさわしいだけの報酬を得た」という合理的な達成感を得させることにあるのではない。
そうではなくて、そこで自分が「求めていた以上のもの」「求めていた以外のもの」を受け取ってしまったのだが、それが何であるかがよくわからないので、それを知るために、そのあと長い時間を生き、さまざまな経験を経巡らなければならなかった・・・という行程の全体をふくむものが教育なのである。
私はよく「卒後教育」という言葉を使う。
もちろん、そんな言葉は教育学の用語には存在しない。
しかし、教育のアウトカムというのがいつどういうかたちで教育を受けた人において物質化するのかは誰にも言うことができない。
卒業後数十年して、臨終の床において、「ああ、なんて幸福な人生だったのであろう。今にして思えば、私が幸福であったのは、はあの学校で学んだことのおかげだった」と述懐した場合、その人において「卒後教育」は臨終の際まで継続していたことになる。
というのも、彼女が受けた教育の「適切さ」は、学校そのものに内在していたのではなく、教育を受けた彼女自身がみずから幸福になることによって、事後的に、実存的なしかたで証明したものだからである。
自分が受けた教育の適切さを、自分自身が愉快に、気分よく人生を送ったという事実によって遡及的に証明すること、それが「卒後教育」というダイナミックなプロセスである。
「卒後教育」の主体は学校ではない。本人である。
これは「自己教育」なのである。