進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

ブログ近況情報(2009/10/07)

2009-10-07 23:55:14 | ブログ情報(News Release)
少し忙しくてまとまった時間がとれず更新が滞っています。

それでも更新せねばと思い限られた時間内で書こうとするのですが、文才がないためどうしても乱暴な文章になりがちです。
見苦しいところをお見せして申し訳ございません。
(特にスピリチュアル系のネタを仕上げるには、都合上かなりまとまった時間が必要で滞りがちになってしまいます。)
数少ない(少数精鋭?)とはいえ、読者の皆様にはご迷惑をおかけしております。
(誰も期待していない?)

理想は1日1エントリ更新なのですが、現状は難しいようです。
多少内容を犠牲にしてでもエントリしていきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。

責任論から脱却せよ

2009-10-07 22:56:33 | 社会
セーフティーネット・クライシス - 子どもの貧困は社会の損失、子育ては「自己責任」ではない(すくらむ)
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10358230900.html

時間がないので詳細は省くが、この手の議論が迷宮入りする(コンセンサスが得られない)のは、結局のところ「誰の責任か?」みたいなことが本質的な問題ではないからだ。
(社民や共産の人達の主張に全く説得力がないのはこのためだ。)

まず、貧困問題を社会的(道義的)責任として取組むのはナンセンスだと思う。
ましてや憲法に定める権利がどうのこうのっていうのは論外だ。
なぜなら、何をすることが正しいのかというのは誰にもわからないから。
憲法なんてものは人間が勝手に作ったものでしかない。
社会にとってメリットがあるから社会としてそれに取組む」というのは論理としてわかりやすいが「それをすることは正しいからそれに取組む」というのはかなり危険をはらむ発想だ。
正しさなんていうアヤフヤな旗印を立てると、思わぬ方向に進むともかぎらない。
正しさの認識が人によって異なるし、いつの時代も正しさの追及が暴力を生んできたのだ。
(フランス革命的な感じ)
対投資効果を基に積極的社会政策を肯定する方がよっぽどよい

これは非常に基本的なところだけれども、自分に意味がないなら自分としてやる必要はないように国家として意味がないなら国家としてやる必要はない

そもそも、「責任」というのは「そうでなければならないという認識」のことであって、実態のあるものではない。
無自覚な人に「責任とれ」って言ったって無駄なように、責任論は中身が伴わなければ意味がないのだ。
それを契約的に拘束力を持たそうというのは人類の知恵だが、無自覚を懲罰によって自覚に変えようとする発想は非常に暴力的なものである。
最も重要なことは論理的かつ合理的に納得することであるので、正しいとか正しくないということではない。
何が正しいか(誰の責任か)みたいな議論を続けるからいつまで経っても多くの人の納得を得ることができんのだ

まとまりがなく言葉足らずで、かなり乱暴な文章なのだが、書かずにはいられなかった。