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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

台風による鉄道網混乱をネタにトレードオフについて考える

2009-10-09 00:03:45 | 経済
JR最大規模の運休…風速の規制強化が一因
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091008-OYT1T01106.htm?from=main2

台風18号の影響で首都圏の電車網が混乱し、多くの人々に大きな影響を与えた。
(なんと296万人に影響があった!)
ある程度予想されていたこととはいえ、主要路線が軒並み運転見合わせになり数百万人に及ぶ電車通勤者に影響を与える様子をまざまざと見せつけられると、JRや私鉄会社に文句の一つもつけたくなる。

私は学生の時、ネットワーク理論(鳩山首相の専門分野的なあれ)を少しかじっているのだが、その視点から今回の問題について軽く考えてみたいと思う。
(交通革命の必要性についての続き的なお話だ)
(あくまでも素人視点で)
結論としては、結局「トレードオフ」に行き着くのだが、文句ばかり言わずに考えてみることが重要だ。
(あらゆる問題について同じなのだが、文句を言うだけでは解決策に結びつかない。まず「なぜ」を考えてみよう。)

まず、首都圏で電車を使っている人ならよく経験することだが、ある路線で起きた事故や問題はその路線に限定されずに他路線に影響を与えることが多い
例えば、横浜方面で京浜東北線が人身事故で停止すると、振替え輸送で東海道線や横須賀線、京浜急行に人が流れるので、これらの路線に影響を与える。
振替え量がこれらの路線の輸送キャパを超えてしまうと、今度は東海道線も遅延したり、ひどい場合には停止してしまう。
他にも連結乗入れが行われている鉄道会社同士では、ある鉄道会社の事故が他の鉄道会社の運行に影響を与えることもある。
例えば、電車を使用しない人には笑える話かもしれないが、大雨で地下鉄が運転見合わせる場合もあるのだ。
地下鉄と連結乗入をれしている地下鉄以外の路線の影響を受けているからだ。
また、首都圏に張り巡らされた鉄道網が複雑に関係しているため、リスケジュールが困難だという点もある。
一部の遅延を局所的に押さえ込むことができず、影響範囲が拡大してしまうのだ。

このような問題に対処するため、多くの場合に用いられるのが利用制限(輸送制限)である
あらゆるシステムにいえることなのだが、システムは当初想定していたピークを超えた入力が行われると思わぬ挙動をすることがある
これは鉄道でもコンピュータでも銀行の受付でも、あらゆる仕事において同じである。
そのため、想定していたピークを超えた入力を制限し、想定外の問題の発生を回避する施策をとるのだ。

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思わぬ挙動というのは、想定外の動作や問題が発生するということだ。
あらゆるシステムは、設計時に入力を処理して出力するプロセスを定義するのだが、このプロセスは想定内のことしか処理できない。
当たり前のことであるが、想定外の問題を適切に処理できるのであれば、最初からシステムを構築する必要(プロセスを定義する必要)がない
何らかの問題を処理するためにシステムを構築するのだが、その時に問題だと思っていないことが起きた場合に、どう処理するかは、あくまでも「想定できる想定外」の範囲でしか想定できない
(ブラック・スワンは想定できないからブラック・スワンなのである。)
ゆえに、システムを設計する者は、初めに要求仕様をある意味で割切って(妥協して)決める
「これこれこういう場合にこういう処理をするシステムを構築する」と決めるのだ。
しかし、「それ以外のこと」が起きる可能性については十分に考慮することはできない。
この宇宙には人間の期待通りに動くわけではない。
(詳細はニコラス・ナシーム・タレブ著「ブラック・スワン」を熟読ください)

問題が発生した後で、さも事前に問題が起きることがわかっていたように思えるのは「後付バイアス」と呼ばれる。
その後付バイアスをもとに「なぜ、そのことを想定していなかったのか?」と言われても設計者は「想定外でした」としか答えようがない。
「なぜ想定できなかったのか?」を考察するのは意義深いが「なぜ想定しなかったのか?」を問うのは時間の無駄だ。

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真っ当なシステムは設計当初にピーク設計が行われているはずである。
入力量が定常的に一定である場合にはさほど重要性はないが、入力量が変動する、それも大きく変動する場合には、平均値のほかに最大値や最低値を想定することが非常に重要である。
しかし、このときに設計者は現実の壁とぶつかる。
ピークを想定できる最大値に合わせると、非常に高コストなシステムになってしまう場合があるのだ。
理想的にはピークに合わせて設計すべきなのだが、例えばその最大値が100年に1度しか発生しないというような頻度である場合、ピークに合わせると99年間は使われない能力を浪費することになってしまう。
これは経済合理性に基づいて考えると非常に無駄で、高コスト構造の温床になってしまう。
もちろん、生命や国家に関わるような非常にセンシティブな事項については低頻度の問題にも配慮しなければならない(100万年に1度しか発生しない問題にも配慮すべきものもあろう)が、全てにおいてそのように設計してしまうと、高コスト構造になってしまい、それは結局、消費者や使用者に跳ね返ってくる

例えば、ある鉄道会社が設備投資をして車両を増設し、便数を増やしたとして「わが社の電車はいつ乗っても席に座れます。グッバイ・ラッシュアワー」とうたったとしよう。
しかし「ただし料金はこれまでの3倍です。」と言った場合に、どれだけの利用者が喜ぶのか。という問題がある。
(もちろん中にはウェルカムな人もいようが、負担する通勤費が3倍になると困る人も多い。)

そこで設計者はあるところで割切る必要性に迫られる。
ここまでは対応するけれど、これ以上は諦める」といった具合だ。
利用者は時々困る事態に遭遇するが、その代わり低コストで便益を享受することができるのだ。
これが「トレードオフ」というものである。
極論すれば「この宇宙に絶対的な解は存在しない。あるのはその時点での最適解だけ。」なのだ。

さて、上記を踏まえた上で「輸送制限」について考える。

今日のように台風によって鉄道網に設計当初に想定したピークを超える入力が起きた場合、どう考えるべきだろうか。
設計者が「ピークを超えているので鉄道網は機能停止します。」といってもよいが、運用者はそういうわけにはいかない
(でも競争が緩いので微妙にそんな雰囲気もあるので、鉄道会社の株主にはがんばってもらいたいが)
運用者は「ピーク設計した範囲内で機能させなければならない。」のだ。
そこで有効なのがシステムにピークを超える入力をさせないことである。


特に、ボトルネックとなるような接続点(主要駅)だけで実施するのではなく、そこに向かう輸送量を制限することが効果的だ。
混んでいるところだけで制限するのではなく、混む要因となる前段で制限することで、全体としてのパフォーマンスは向上する。
(ボトルネックを解消するために、ボトルネックだけに着目するのは目先の短期的な視点なのだ。これはどの問題にも適用できると思う。)


ピークを超えると想定外の問題が発生する可能性があるので、ピークを超える入力を制限し、鉄道網の機能性を確保するということだ。
だから鉄道会社は乗降客に罵詈雑言をあびせられようとも駅のホームへの入場制限を実施し、ピークを守ろうとする。
乗降客からしてみれば目の前の電車に乗れないのだから損失に思えるかもしれないが、しかし鉄道網が完全に停止すれば移動することすらできないのであるから、短期的にはマイナスでも長期的にはプラスなのである。
鉄道会社は、自分達のためだけでなく乗降客のためにもがんばっているのだ。

が、しかし、ここにもしっかりと「トレードオフ」がある。
ピークを超えるからといって入場制限をしようにも、追加人員が必要だ。
しかも電車が遅延している状態では、駅は人で溢れるし、質問客は増えるしで相当の人員追加が必要になる。
が、そんな予備の人員をかかえるのもまた経済合理性を基に考えると無駄なのである。
(鉄道会社が赤字になって、料金が上がり、サービスの質の低下が起きたらほとんどの人が嫌なはずだ。)
非番の職員を全員出社させて対応できるならよいが、全駅に十分な追加人員を配するのは無理だ。
やはり輸送制限にもピーク設計が必要なのである。

他方、これとは違った輸送制限の方法もある。
問題が起きて入力がピークを超えようとしている時に、料金を跳ね上げる方策である。
異常事態時に通常通りサービスを提供するためにはコストがかかるわけであるから、同じコストで最悪のサービスを提供するよりも、コストをかけてサービスの質を維持する方がよい場合がある。
例えば、料金を10倍にする代わりに確実な運行を保証することである。
しかし、これも「トレードオフ」なのである。

結論として、どんな場合にも鉄道網の混乱を回避するのは不可能だ
結局のところ、ピークを超えてサービスを提供することはできない
ということなのだ。

これらは当Blogの下記エントリに繋がる話なのである。
費用負担のない便益など存在しない

(突然飛躍するが、)
やはり我々がこの相対的な宇宙に存在する限り「トレードオフから逃れることはできない」のである

ただ、人間が創ったシステムは不完全なのでトレードオフからの抜け道がある
例えば「コネ」や「賄賂」、「バックドア」といったものだ。



ブログ近況情報(2009/10/07)

2009-10-07 23:55:14 | ブログ情報(News Release)
少し忙しくてまとまった時間がとれず更新が滞っています。

それでも更新せねばと思い限られた時間内で書こうとするのですが、文才がないためどうしても乱暴な文章になりがちです。
見苦しいところをお見せして申し訳ございません。
(特にスピリチュアル系のネタを仕上げるには、都合上かなりまとまった時間が必要で滞りがちになってしまいます。)
数少ない(少数精鋭?)とはいえ、読者の皆様にはご迷惑をおかけしております。
(誰も期待していない?)

理想は1日1エントリ更新なのですが、現状は難しいようです。
多少内容を犠牲にしてでもエントリしていきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。

責任論から脱却せよ

2009-10-07 22:56:33 | 社会
セーフティーネット・クライシス - 子どもの貧困は社会の損失、子育ては「自己責任」ではない(すくらむ)
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10358230900.html

時間がないので詳細は省くが、この手の議論が迷宮入りする(コンセンサスが得られない)のは、結局のところ「誰の責任か?」みたいなことが本質的な問題ではないからだ。
(社民や共産の人達の主張に全く説得力がないのはこのためだ。)

まず、貧困問題を社会的(道義的)責任として取組むのはナンセンスだと思う。
ましてや憲法に定める権利がどうのこうのっていうのは論外だ。
なぜなら、何をすることが正しいのかというのは誰にもわからないから。
憲法なんてものは人間が勝手に作ったものでしかない。
社会にとってメリットがあるから社会としてそれに取組む」というのは論理としてわかりやすいが「それをすることは正しいからそれに取組む」というのはかなり危険をはらむ発想だ。
正しさなんていうアヤフヤな旗印を立てると、思わぬ方向に進むともかぎらない。
正しさの認識が人によって異なるし、いつの時代も正しさの追及が暴力を生んできたのだ。
(フランス革命的な感じ)
対投資効果を基に積極的社会政策を肯定する方がよっぽどよい

これは非常に基本的なところだけれども、自分に意味がないなら自分としてやる必要はないように国家として意味がないなら国家としてやる必要はない

そもそも、「責任」というのは「そうでなければならないという認識」のことであって、実態のあるものではない。
無自覚な人に「責任とれ」って言ったって無駄なように、責任論は中身が伴わなければ意味がないのだ。
それを契約的に拘束力を持たそうというのは人類の知恵だが、無自覚を懲罰によって自覚に変えようとする発想は非常に暴力的なものである。
最も重要なことは論理的かつ合理的に納得することであるので、正しいとか正しくないということではない。
何が正しいか(誰の責任か)みたいな議論を続けるからいつまで経っても多くの人の納得を得ることができんのだ

まとまりがなく言葉足らずで、かなり乱暴な文章なのだが、書かずにはいられなかった。

[スピリチュアル対話シリーズ][02]事前ネタふり

2009-10-05 00:05:58 | スピリチュアル
こびとさんをたいせつに(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php

今日も内田樹ネタです。


「ゼミとは何か」ということについてお話しする。
でも、実は私にも「ゼミとは何か」ということがよくわかっているわけではない。
だから、毎年言うことが変わる。
今回はふと口を衝いて「ゼミの目的は自分の知性に対して敬意をもつ仕方を学ぶことです」と申し上げてしまう。
言ってみてから、そういえばそうだなと思う。
ポランニーの「暗黙知」(Tacit Knowing)も、カントの「先験的統覚」も、フッサールの「超越論的直観」も要するに、「私は自分の知らないことを知っている」という事態を説明するためにつくられた言葉である。
古来賢人たちは必ず「どうして私はこんなに賢いのか」という問いに遭遇した。
遭遇するに決まっている。
自分の賢い所以をすらすらと自力で説明できる(「やっぱ、子どものときにネギぎょうさん喰うたからやないですか」とか)ような人間は「賢者」とは言われない。


彼(内田樹)がいつもいう「学力とは何か?」という説明と全く同じだ。
「人間が人間たらん所以はなにか?」という問いに対して、彼は時として「学力」という言葉を持って説明するし、違うところでは「暗黙知」や「先験的統覚」を使って説明する。
要するに、人間が賢くて、また人間の賢さを決めるのは「自分の知らないことを知る」ことに尽きるということだ。
(厳密にいえば人間以外にも当てはまるであろうが、人間が他の生物と比較して突出して優れているところは何かと考えると「自分の知らないことを知る」能力だということだ。
物事を1次元上の視点から捉える能力のことで「メタ認識」能力ともいう。
(メタファーを提示する能力というのは、西欧人に比べて日本人が不得手なところでもある。)

まず考えて欲しいのだがもしあなたが全てを知っているとしたら、世界はどんなふうに見えるだろうか。
おそらく(いや間違いなく)、非常につまらなくみえる。
全ての因果が見えて、全ての結果がわかるなら、あなたは何にも興味を持つことができなくなるはずだ。
人間は、知らないことがあるから、物事に興味を持ち、それを知りたいと思い、考え、悩み、発し、行動する
あなたが、冒険に出るとき、恋の告白をするとき、罪の告白をするとき、新たなチャンレンジをするとき、何を得ようと思うのだろうか。
何か物質的なモノを得ようとしているのか。
果たして「幸せになるため」なのだろうか。
そうではなく、何かを知りたいからではないだろうか
これはあなたが幸せを感じるときと深い関係がある。
(この話題は極めて深遠だ。簡単には語れないし理解もできない。当Blogで長い時間をかけて説明していきたいと思う。)

あなたが何かを始めたり挑もうとしたりするのは、知らないこと(=知りたいこと)があるからだ。
あなたは自分が無知であることを悲しむかもしれないが、それならあなたが賢いということを示している。
逆にいえば、もしあなたが何もしたくないような状態にいるとするならば「知りたいことがない(無知か傲慢かのどちらか)」か「知ろうとすることを諦めている」かのどちらかだ
人間社会を動かしてきたのは、いつの時代も「私はそれを知りたい」と思う気持ちからだ。
これは進化の基礎である。
そんなことを踏まえて続きを読む。


真の賢者は恐ろしいほどに頭がいいので、他の人がわからないことがすらすらわかるばかりか、自分がわかるはずのないこと(それについてそれまで一度も勉強したこともないし、興味をもったことさえないこと)についても、「あ、それはね」といきなりわかってしまう。


そして、賢い人は助けを得ることが出来る。
彼なりの解釈として「こびとさん」なるものが出てくる。


どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。
私たちは自分の知らないことを知っている。
自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。
私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。
なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。
それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。
私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。
「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。
暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。
それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。
「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。
けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。
「こびとさん」が餓死してしまったのである。
知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。
私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。


彼の言っていることは人間の知性を支えているものが何かということで、彼はそれを「こびとさん」と呼んでいるのです。
「こびとさん」に対して様々な意見があるでしょう。
次回のスピリチュアル対話シリーズではこの件について取り上げてみたいと思います。

失敗を認める社会に舵を切ろう

2009-10-03 01:15:15 | 経済
エンフォースメントに関する補足--池尾和人(アゴラ)
http://agora-web.jp/archives/763918.html#comments

上記サイトのコメント欄がヒートアップしていたので、議論を落ち着かせるために、勇気を出して私もコメントしてみたのだが、まるで反応がなかった・・。
いや、私のコメントのレベルが低いから反応なしなのかもしれないけれど、それにしても残念です。
コメントで書いたことをこちらにも転記しておきます。


借り手が高金利でも借りるのは資金需要があるからではありますが、その内訳として一過性の資金繰り危機への対応よりも、延命的な(その後の成長可能性の少ない)資金繰りのためが多ければ、上限金利の引き下げは経済活動に本質的な影響を及ばさないという指摘には説得力があります。

話を単純化しすぎかと思いますが、高速道路の法定速度を無制限にすべきか100kmか150kmか、というような議論と類似していると思います。
(隠れて飛ばす人もいますし)150kmで得する人もいますが代わりに事故も増えます。
損失を被る人がいても皆が安心して走れる速度として100kmにしようとする行為は多少社会主義的でも納得できればよいと思います。
(エクイティとの住み分けもありますし)

得する人も損する人もいますが、そこはトレードオフ前提で答え出さなきゃいけませんから。
どのようにバランスをとるかで対立軸を明確化するためか二元論的な議論が目立ちます。

経済規模を見せ掛け上大きくみせるよりも、持続可能性の低い資金繰りを可能な限り抑制することは、淘汰を推し進めるという意味で環境さえ揃えば実はマクロ的にみて正の効果を期待できはしないのでしょうか。
そもそも、なぜ多重債務者が存在するかといえば、これは金利によるものだけではなく、無理な延命せざるを得ない状況が発生しているからです。
つまり資金繰りせざるを得ない環境に個人が置かれてしまうことが根本的な問題です。この問題に対する解決策は、月並みな意見なのですが、債務不履行に伴う倒産コストの引き下げと効率的な破綻処理の構築になるかと思います(再起機会の構築はここでは省略)。

ただ、これは言うは易く行うは難しの問題で、「良いリタイア」のモデルの構築はまだまだ模索段階にあるという認識です。
特に日本の場合は破産すると無形の人的・生活ネットワークも破壊されるという悲惨な状況に身を置くことになります(一方でタコツボ社会のメリットもありますが)ので、余計に難しいというのもわかります。
そういう中で、現状として上限金利の引き下げは、一つの方策として有り得るのだと思います。こういう考えがスピード狂の心に響かないのも知っていますが。


誤解を恐れず言えば、私の主張は「みんな無理してがんばり過ぎずにダメな時はリタイヤしようよ。」ということです。
延命措置ばっかりして生き延びることにどれだけの意味があるのか、それはここでは明確にしないけれど、「新たな命を生きようよ。」私はただそれだけなのです。

ちょっとくだけた表現をしましたが、この問題は、本質的に雇用柔軟化と同じものです。
守ろうとすればするほどシステムは硬直化し失敗者は弾かれるが、守ろうとせずに開放すればシステムは柔軟化し失敗者を許容できる環境が生まれるのです。

多重債務者が多重債務者になる前に解放してあげましょうよ。
他人の作った借金で苦労させられたり、娘を風俗にいれてまで借金返したり、借金返せないから自殺とか、そういうの止めるために必要なのはさ、亀井さんの徳政令なんかじゃなくて、失敗を許容する広い心をもった社会なんだと思います。

もちろん、貸し倒れ増えるかもしれませんね。
貸して責任は今よりも増すことになります。
住宅ローンなんかも金利高くなるかもしれません。
死ぬ気で借金返す日本人の姿見れなくなってしまうかもしれないから。
貸し渋りも増える懸念もありますが、倒産増える分だけ起業が増えれば新陳代謝で経済が活発化されるのではないかと期待もできます
そうするとエクイティ・ファイナンスが増えるのではないかと思います。
株式会社の本来の意味も問い直されるはずです。

人間は失敗をしてしまう生き物です。
日本社会はタコツボ型社会といわれ、失敗を極力抑制する仕組みを重視してきました。
これは病気をしないように生きるのと同じです。
しかし、病気にならないのは不可能です。
うまく病気と付き合っていくことが重要なのです。
同じように、人間社会は失敗とうまく付き合っていくことが重要なのだと思います。

日本は、失敗を極力抑制する文化から、失敗を許容する文化へと大きく舵を切るところに来ているのだと私は思うのです。

ブログ近況情報 (2009/10/3)

2009-10-03 00:51:22 | ブログ情報(News Release)
当Blogでは不定期で、今後のBlog運営方針や近況情報などを公開していきます。
今回はその1回目です。

当Blogは初めて3週間ほど立つのですが、最近アクセスが伸び悩んでいます。
シルバーウィーク前は300アクセス/日ほどあったのですが、現在では多くて150アクセス/日、他は100前後といった感じです。
当Blogは1000アクセス/日を目指しています!

(実質アクセス数の1割程度なのかもしれませんが)
読んでくれている皆様どうもありがとうございます!
当Blogではコメント&トラックバック歓迎ですので、どなたでも遠慮なくどうぞ!
ttosiさんいつもコメントありがとうございます。

gooブログでは、お金を払わないとアクセス分析情報を教えてくれないため、私の方でわかっているのはアクセス数(+ユニークIP数)だけです。
なので、どのようなところからアクセスされているのか等が不明で、アクセス向上のための施策を打ちにくいのです。
一体どのようなエントリの人気があったのかなど気になるところです。
アクセス数を増やすことだけが目的ではないのですが、コンテンツの充実を図る意味で200円/月を払うか悩んでいるところです。(多分払わない・・)

さて、アクセス数向上計画として、現在下記の施策を考えています。
・アクセス数の多いサイトにトラックバックを打つ
=> 池田信夫Blog等でコメントはしているのですが効果は限定的のようです。
・アクセス数の多いサイトにリンク張ってもらう
=> これ簡単にできたら苦労しないです。
・コンテンツの強化
=> かけれる時間が少ないので結構大変です。
・ブログの方向性を決める
=> 方向を間違えればアクセス数激減か

ぱっと考えた感じでは簡単な方法はなさそうです。
ただ、当Blogでは「スピリチュアル」と「恋愛」ネタには他に負けないOnly-one的存在感を示せる自信がありますので、今後これらのネタを強化してまいりたいと考えています。

みなさまどうぞよろしくお願いいたします。

「マクロvsミクロ」の解決に向けて

2009-10-01 22:25:19 | 政治
昨日のエントリ(亀井金融相が浮き彫りにする「マクロvsミクロ」の構図)は途中で書き終えてしまったので、少し中途半端だった。
なので少しだけ続きを書こうと思う。

昨日も書いたことだが、政策的紛争というのはたいてい立場の違いからくる衝突なのだが、その中でも「どう考えても劣悪な政策なのだが、どうしても推進したがる奴がいる」という種の衝突は「マクロvsミクロ」の構図から成っている場合が多い。


マクロ重視派は合理的な全体最適を指向しているが、ミクロ重視派は全体最適よりも個別最適を指向しており、両者の意見は一致することがほとんどない。
(中略)
両者の違いの理由は簡単で、前者は何らかの特定の物事に利害関係を持たないので全体最適指向を持つことができるが、後者は利害関係を持っているので個別最適指向になりがちだ。
前者は学者に多く、後者には政治家や弁護士、活動家などに多い。


昨日は上記のような説明がメインだったのだが、これだけでは少し説明が不足している。
なぜ利害関係を持つ者はミクロ重視派になってしまうのかという点についての考察を述べていなかった。

理由は「生存本能」と「自己投影」「限定合理性」だ。
順に説明してみる。

まず「生存本能」についてだ。
私はこの言葉が好きでない(人間にそんな本能はないと思っている)ので、本当は生存活動の優先度が高いという意味でバイアスという言葉を使って「生存バイアス」と書きたかったのだが、これだと既に他の意味として使われてしまっているので、誤解を生むので仕方なく「生存本能」を使っていることをあらかじめご了承いただきたい。(哲学のエントリを書くときは違う表現をしたいと思うが)

人間の判断基準においては、ワケあって生き残ることへの優先度が高い
(これは決して本能などではない。例外なら腐るほどある。あくまでバイアスである。)
人は生命が脅かされることや生活が脅かされることについて敏感に反応し回避行動をとろうとする。
これは、原始的な生物であった頃からの習性である。
(今でも十分原始的な存在だが)人間は進化した結果、若干の理性的な判断能力も追加的に手にしたので、今では、原始的な時代の判断と進化した時代の判断と同時に行い、それを最終的にひとつの判断に統合しているが、最終的な判断に及ぼす危険回避バイアスは大きい。

自分に危険性のある利害関係があるとき、人は全体最適よりも個別案件をより重視する
これが生存本能だ。

つづいて、「自己投影」だ。
人間は、自分だけで自己を認識することはできない。
他との関係性の中で常に自己を再定義(認識)し続けている。
誰もが人のフリ見て育っているのだ。
当Blogでいつの述べているように、人間は相対的基準を用いて認識することしかできない。
自と他があって初めて自が成立するのである。
これは、自と他の一体化作業と分離作業の際限のない繰り返しによって実現されている。
(自と他の差異の求め方というのは、結局のところ自と他の比較の連続なのである)
人は、他に自己を投影することによって否応無しに他人の気持ちになってしまうものなのだ。
(そういう意味で自分に興味のない人は他人の気持ちもわからない。要は無頓着な人ということだ)

「生存本能」と「自己投影」の2つで既に次のことが説明できる。
「人間は生活に困った人をほうっておくことはできない。」ということだ。

しかし、これは特に問題のあることではない。(これだけならミクロ派万歳だ)
困った人を助けようと思うのは、人間たる所以であり素晴らしいことだと個人的には思う。
私は、その考えを支持したいし、また唯一の希望だと思っている。
だが、最後のひとつ「限定合理性」が曲者だ。

限定合理性というのは、人間の知性は限られているので限定された範囲の中でしか合理的には振舞えないということだ。
人間は合理的か非合理的かという議論は別にあり、人によっては合理的選択理論(人は合理的に振舞おうとする)を否定する場合もある。
人間はそもそも非合理的な存在だと。
しかし、私はそもそも合理/非合理の判定自体が相対的なものなので、何が合理で何が非合理かを議論するかはあまり意味がないと思っている。
人間の知性が不完全な以上は全て非合理なのだから、全て程度問題でしかない。
(判断がバイアスに歪められることをもって非合理というのも結局のところ知性が限定的だからなのである)

ここで重要なのは、人間の知性は不完全だという点である。
人間は「困った人を救おう」と思っても「どう救えばよいのか」というところの判断を誤る場合が多いのだ。
動機は十分でも方法論がついてこない。
いわゆる精神論に陥りがちなのは、こういうところからきている。

この限定合理性が曲者なのは、それだけが理由ではない。
特に問題なのは、この限定合理性自体を認識していない場合が多いことである。
しかし、それもまた限定合理性の特性なのであって、人類最大の敵でもある。

拙速ではあったが以上で説明してたことで、なぜミクロ重視派が生まれるのかはだいたい理解していただけたと思う。
(あくまで個人的意見だが)

結論としては、「マクロvsミクロ」の問題を乗越えるためには、ミクロ重視派の動機となる部分の「生存本能」と「自己投影」に十分に配慮した上で、最大の要因である「限定合理性」の部分に解決策を提案することである。

このように考えると、永遠に平行線であった議論に解決の糸口がもたらされるのである。