時間がないので簡単に。
増子化対策(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/09/13_1040.php
一見すると、それぞれの人の自由意思の結果のようであるけれど、親族形成が類的宿命である以上、それに逆らう行動をとることには、個人の意思を超えた強い規制力が働いていると考えなければならない。
人口の増減はその社会の「キャリング・キャパシティ」によって決定される(これは人口社会学の古田隆彦さんに教えてもらった)。
carrying capacity というのは一定の環境の中に一種類の生物がどれだけ棲息できるか、その上限数のことである。「環境収容力」とも「環境許容量」ともいう。
グッピーの雌雄50匹を栄養の十分な養魚鉢に入れておくと、卵が孵化するたびに成魚が幼魚を食べ、個体数の増加を抑える。さらに成魚同士が共食いを始め、九匹になったところで個体数が安定する。(古田隆彦、『日本人はどこまで減るか』、幻冬舎新書、2008年、47頁)
人間もこの法則から自由ではない。
列島の環境収容力は1億3000万人で上限に達した。
だから、これから安定的な個体数になるまで減り続けるであろう。
私は上記の考えに同意するのであるが、しかし彼は一つ見落としている。
彼の主張が正しければ、我々は個人の意思を超えた環境条件に制約されているのだ。
であるならば、ある条件下では日本の環境収容力は1億3000万人かもしれないが、条件が変われば数値も変わるはずだ。
日本の人口が減ることが環境収容力に制約された事象であるならば、逆に環境収容力が増せば日本の人口が減るのではなく増える可能性がある。
いわゆる少子化問題への適切な取り組みとしての政治の役割は、環境収容力を制限しているボトルネックを発見し、取り除くことだ。
もし、生物学的限界により環境収容力が頭打ちなのだとしたら、それはそれで我々が成すべきは華麗なる撤退戦であり、少子化対策でも増子化対策でもない。
少なくても「グローバル資本主義」などというイデオロギーが本質的問題なのではない。
(でも何度も読み返しているうちにやっぱり彼と私は表現は違えど似たようなことを言いたいと思っている気がしてきました。)
彼が最初に主張しているように、個人の意思を超えた環境条件に制約されていることの結果なのだ。
本質的には、やる必要を感じなければやらないし、やらなければならないと思えばやる。
環境に適用しようとした結果なのだ。
ただ、それだけの話だ。
この話は単純そうに見えて、実はあらゆる問題について共通する本質的なことなのです。
問題の本質を、イデオロギーや個々人の資質的なものに求めると必ず誤まった道を歩むことになります。
これについては後日まとめます。
増子化対策(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/09/13_1040.php
一見すると、それぞれの人の自由意思の結果のようであるけれど、親族形成が類的宿命である以上、それに逆らう行動をとることには、個人の意思を超えた強い規制力が働いていると考えなければならない。
人口の増減はその社会の「キャリング・キャパシティ」によって決定される(これは人口社会学の古田隆彦さんに教えてもらった)。
carrying capacity というのは一定の環境の中に一種類の生物がどれだけ棲息できるか、その上限数のことである。「環境収容力」とも「環境許容量」ともいう。
グッピーの雌雄50匹を栄養の十分な養魚鉢に入れておくと、卵が孵化するたびに成魚が幼魚を食べ、個体数の増加を抑える。さらに成魚同士が共食いを始め、九匹になったところで個体数が安定する。(古田隆彦、『日本人はどこまで減るか』、幻冬舎新書、2008年、47頁)
人間もこの法則から自由ではない。
列島の環境収容力は1億3000万人で上限に達した。
だから、これから安定的な個体数になるまで減り続けるであろう。
私は上記の考えに同意するのであるが、しかし彼は一つ見落としている。
彼の主張が正しければ、我々は個人の意思を超えた環境条件に制約されているのだ。
であるならば、ある条件下では日本の環境収容力は1億3000万人かもしれないが、条件が変われば数値も変わるはずだ。
日本の人口が減ることが環境収容力に制約された事象であるならば、逆に環境収容力が増せば日本の人口が減るのではなく増える可能性がある。
いわゆる少子化問題への適切な取り組みとしての政治の役割は、環境収容力を制限しているボトルネックを発見し、取り除くことだ。
もし、生物学的限界により環境収容力が頭打ちなのだとしたら、それはそれで我々が成すべきは華麗なる撤退戦であり、少子化対策でも増子化対策でもない。
少なくても「グローバル資本主義」などというイデオロギーが本質的問題なのではない。
(でも何度も読み返しているうちにやっぱり彼と私は表現は違えど似たようなことを言いたいと思っている気がしてきました。)
彼が最初に主張しているように、個人の意思を超えた環境条件に制約されていることの結果なのだ。
本質的には、やる必要を感じなければやらないし、やらなければならないと思えばやる。
環境に適用しようとした結果なのだ。
ただ、それだけの話だ。
この話は単純そうに見えて、実はあらゆる問題について共通する本質的なことなのです。
問題の本質を、イデオロギーや個々人の資質的なものに求めると必ず誤まった道を歩むことになります。
これについては後日まとめます。