進化する魂

フリートーク
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亀井金融相が浮き彫りにする「マクロvsミクロ」の構図

2009-09-30 22:24:01 | 政治
亀井静香が金融相に抜擢されたことが鳩山内閣最大のサプライズ人事であると当Blog(鳩山政権のサプライズ人事)で述べたが、就任当初から彼の言動に世間が振り回されているようだ。

亀井金融相は、現代における徳政令「モラトリアム制度」を実施すると強硬な姿勢を貫いているのだ。
下記Blogを読めば今回の騒ぎの理由についてだいたい理解できるだろう。

迷走するモラトリアム議論(池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/761526.html

亀井金融相にレッドカード!(Gucci Post)
http://guccipost.jp/cgi-bin/WebObjects/12336a3d498.woa/wa/read/sq_123fce2c05d/

金融音痴を露呈した民主党(JBPress)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1824

みんな亀井静香を甘く見ない方がいい(金融日記)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51590683.html

まず、モラトリアム制度が実施された場合に起きると思われていることを簡単に説明しよう。

資金繰りに詰った中小企業の元本および利子の支払いを猶予
-> 金融機関は収益悪化が予想されるので「貸し剥がし」「貸し渋り」を行う
-> 資金繰りに困る中小企業が増え、雇用問題などの深刻化
-> 政府はこの事態を回避するために金融機関の不良債権を補填する
-> 政府が公的に不良債権を補填するために財源が必要になるので国債を増発する
-> 国民新党は200兆円国債発行することを主張している
-> (ハイパー?)インフレ

これが皮肉にも「亀井金融相によるリフレ政策」と言われる所以である。

これとも別に次のようなシナリオも囁かれている。

資金繰りに詰った中小企業の元本および利子の支払いを猶予
-> 金融機関は収益悪化が予想されるので「貸し剥がし」「貸し渋り」を行う
-> 資金繰りに困る中小企業が増え、雇用問題などの深刻化
-> 政府はこの事態を回避するために金融機関の不良債権を補填する
-> ゆうちょ銀行を国営化し、ゆうちょ銀行に債権を一本化させる
-> 国民新党が常々主張している「国民の資産」を使って中小企業を延命

ゆうちょ銀行に預けられている国民の資産を使ってハイリスクな取引はできませんというなら、国民の税金を使ってハイリスクな取引もできないはずなので、彼らの思想に基づいて考えると、国債を発行してやれることならゆうちょ銀行を使ってやれるはずだ
(ゆうちょ銀行にそんなことはさせないと思うが。税金のことを自分の金だとは思っていないから200兆円も国債発行などといえるのだ。)

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そんな中、少し引き気味の視点で本件を見ているのが公認会計士の磯崎氏だ。

亀井大臣の「モラトリアム」は実はあんまり使われないんじゃないか?
http://www.tez.com/blog/archives/001463.html

先のBlogではマクロの議論ばかりだったのだが、モラトリアム制度を利用する企業側の視点に立って考えてみることも重要だ。
モラトリアム制度の利用普及度が低いと、企業側にとってモラトリアム制度を利用することは「経営不振のシグナル」を世間に周知するに等しく企業の信用を著しく毀損してしまう。
短期的な延命のために長期的な存在可能性を削ることになってしまうのだ。
(もちろん、今日・明日を生存するために躍起になっている経営者の心にこの言葉が届くことはないだろうが)


この「モラトリアム制度の適用を申請をした」という事実は、明らかに「ダメな企業」のサインです。

また、金融機関にとっても、このモラトリアム制度利用企業への貸付けがどのくらいあるかというのは、金融機関経営の不良度を図る指標になってしまいかねません。

普及の可能性があるとすれば、多くの人が使っている事実が広く知れ渡って「みんなで渡れば怖くない」ということになるケースです。しかし、中小企業は制度を使った事実を必死で隠そうとするはずですし、金融機関も、どの程度の企業がこれを利用したかは個別には開示できないはずです。

つまり、この制度を普及するにあたっては、「他の人がどう行動するか」というのが重要になり、利用が少なければますます利用したくない度合いが高まるので、しきい値(キャズム)を超えるのが非常に大変で、ことは「線形」には進まないのではないかと思います。


そもそも、モラトリアム制度を利用することになるであろう企業とは、経営改善計画など建てても見込みのない企業に限定される。
もう先が無い企業」ということになる。


銀行員は、相談に来た中小企業に対して以下のように行動するはずです。

A.モラトリアム制度を適用するほどでない優良な企業に対しては、「この制度を使ったら、後々ろくなことにならないかも知れませんよ」という趣旨のことを、あうんの呼吸で伝える。

B.見込みはまだあるが、確かに今までの返済スケジュールではキツいという企業に対しては、モラトリアム制度を利用するのではなく、合理的な経営改善計画を建てた上で、金融機関・中小企業双方の合意によって、返済スケジュールを変更する。

C. 「もう先が無い」と思われる企業についてはモラトリアム制度を使わせる。
(法律では、経営改善については求められないんでしょうか??「返済を猶予する代わりに雇用をカット」なんて法案が通るとも思えませんので、求められないのかも知れません。)


初めに挙げたBlogの方々はマクロに与える影響を憂慮しているのに対し、磯崎氏は少しミクロの部分に光を当てている。
これが今回のテーマだ。
私は、政治的紛争を解決するためには、皆がもう少し「マクロvsミクロ」という構図に着目すべきだと思っている。
今回の案件についてもいえることだが、いわゆるマクロ重視派は合理的な全体最適を指向しているが、ミクロ重視派は全体最適よりも個別最適を指向しており、両者の意見は一致することがほとんどない
政策が個別的案件に深化すればするほど全体最適から遠のく可能性が高いからだ。
両者の違いの理由は簡単で、前者は何らかの特定の物事に利害関係を持たないので全体最適指向を持つことができるが、後者は利害関係を持っているので個別最適指向になりがちだ。
前者は学者に多く、後者には政治家や弁護士、活動家などに多い。
これは、それぞれの立場(役割)から必然的に導かれる特徴であり、単純には正誤をつけられる問題ではない
完璧な政策を立案できない以上、両方のバランスをとるのが最適解だろうと個人的には考える。

そこで、亀井金融相の立場からの考察も必要ではないかと考え、続ける。

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亀井金融相がモラトリアム制度の導入を推進しようとする背景には、「義理人情がなくなったら日本は終わり」という彼の政治哲学がある。
今、目の前にいる生活の困窮する(企業中99%を占める)中小企業事業者を救うためで、そのことが日本の古き良き文化を荒廃から守り、それが日本国民の幸せに寄与するという考えだ。
直近数年を耐えれば、いずれ景気が回復し、中小企業は復活すると。
(景気が回復したとしても中小企業が利益を上げられる保証はどこにもないが)
今は100年に1度の経済危機であり、しかもそれは市場原理主義者達によって引き起こされた人災で、中小企業は被害者なのであるから、国家はこの善良なる中小企業を救うべきなのだ。
という考えである。

私は、苦難の最中を必死に生きる人々を救おうとする気持ちを肯定したいと思う。
その気持ちこそが人間の素晴らしさであり、非常にサバサバとした自然の中に置かれた我々にとって唯一の救いであると思う。
だが、ここで我々が注意を払わなければならないことがある

「救おう」とする気持ちは尊いが、「救う」とはどのようなことなのか、それは明確にしておく必要があるだろう。

まず、なぜ亀井金融相がモラトリアムを用いて人を救おうとしているかといえば、零細企業のオーナーは倒産を前にして自殺を図るケースが多々あるからで、これをモラトリアムによって短期的とはいえ回避することができるからだ。
この背景には、日本では個人資産を担保にとられたり、厳しい取り立てが行われたり、連帯保証人を犠牲にしたり、また経営と個人的付き合いが結び付けられているので築き上げた人的ネットワークが破壊されるなどし、倒産コストが非常に高いことがある。
さらにいえば、倒産=壊滅的破産を避けるため、無理な資金繰りに手を出すケース(家族が風俗で働くや闇金に手を出すなど)があるため、零細企業オーナーは劣悪な環境に身を置くことになり、これが生きる自身を喪失させる。
ここに倒産が畳みかけると決定打となる。

見方によっては様々な意見があるだろうが、このような凄惨な状況を目の前にしたら、たとえマクロ経済に対するネガティブな影響をわかっていたとしても、誰もが(自分が政治家ならなおさら)政治的介入による解決策を模索するだろう。
だから私は亀井金融相の人を救おうとする気持ちは肯定したいと思う。

だが、今述べたように、ここで重要なことは人を救うことであり、モラトリアムではない
モラトリアムは数ある政治的介入方法の中の一つでしかない。
政治家としての彼の役割は人を救うために最善の方法を模索することであるはずだ。
しかし、ここに亀井金融相がサプライズ人事たる最大の理由がある。
それは、モラトリアムが彼にとって模索した結果だという点だ。
我々にとってまだまだ改善の余地のある最善から程遠い劣悪な政策が彼にとっての最善であり、また彼がそのことに気付こうとしないことに我々は失望し、そして怒るのである。
私は、公権力をふるう立場にある政治家にとって最も重要な資質は無知の知を理解することだと思っている。
それは何度も当blogで述べてるように、政治というものは誤った結論を出してしまうことが多いからだ。
日本の政治を硬直化させた主な要因は無謬性にあると考えている。
過ちて改めざる、これを過ちという」である。

話が少しそれたので元に戻す。


全体最適の方が効果は高い。
だが個別最適を無視した形で政策を進めることもまた難しい。
この両方のバランスをとることが、政治そのものなのである。


変なまとめ方な上、結論がぼけてしまったが、長くなったのでこれで終わりにする。
(いや、書いてるうちに疲れたので・・)

民主主義の凄み

2009-09-30 01:37:06 | 政治
当Blogの記事(河野太郎の夏)についてttosiさんから実に核心をえぐる鋭いコメントをいただきました。


本日、電車の中で老夫婦が総裁選の結果について以下のような話しているのを耳にしました。

「谷垣さんは誰だったか前の首相(“麻生さんでしょ”と奥様)とは違って礼儀正しいし好感が持てるよ。河野は先輩を“腐ったリンゴ”と例えたり、あんなのはダメだ。谷垣さんになって自民党は良くなるよ。」

もちろん人格も判断の一つですが、自民党が負けた意味を考えれば、古いものを切り捨てなければ国民には受け入れられないはずです。ただ、こうした心に訴える手法(?)でまた昔のままの自民党が復活してしまうのかもしれないと思うと、少し残念です。


そうなのです。
一言で言ってしまえば価値観ということになるのですが、物事の価値判断の基準というのは人それぞれなのです。
このことは当Blog記事(費用負担のない便益など存在しない)でも少し触れました。

例えば「何が正しくて、何が悪いのか」といった判断は、相対的価値に基づくもので、絶対的価値に基づくものではありません。
人によって異なるのです。

多様な人が存在するのが人間社会です。
世代、性別、宗派、学派、文化、etc...などによって異なる相対的価値基準を持つ人々が同じ場、同じ国の中で共存しているのです。
あるコミュニティでは正しいことが、他のコミュニティで正しくない場合などは多々あることでしょう。
民主主義制度を導入する国では、そのような多様性の中で多数決というシステムをとるのです。
混乱しないはずがありません。
デモクラシーのコスト」です。

日本政治の部分についていえば、「人柄」による投票行動をとる高齢者は多いと思います。
(具体的な統計データを持っているわけではないです)
「人物本位で選ぶ」なんていわれたら、有効な反論なんてできなそうです。

この背景には、戦後日本政治の中で「人柄」で選ぶことに問題がなかったことがあります。
政治理念や政策構想よりも、人柄重視で問題のない時代があったのです。
そんな時代の価値観を持っている彼らに言わせれば「自民党・政府がどうあるべきか」よりも「政治家がどうあるべきか」ということの方が重要なのです。
だから麻生太郎の漢字の読み間違い失言ブレばかりに注目が集まるのです。

極論を言ってしまえば、私なんかは政治家の人柄なんかよりも政策的有用性の方を重要視します。
政策的に有能であればひらがなしか読めなくても問題ないと思います。
女性問題があろうが借金問題があろうがスキャンダルがあろうが、結果として国家・国民にとってプラスならそれでよいではありませんか。
また、ブレること自体は問題ないことです。
孔子の言葉が実に本質的です。

過ちて改めざる、是を過ちという (論語)

君子豹変することは政治家には必要なことだ。

真に、ひとかどの人物であれば、変化、変革を恐れない。
必要であれば、あるいは過ちとわかれば、
がらりとやり方、態度を変えたりもする。

ところが小人は、表面上、それを受け入れる素振りをしつつも、
旧来のやり方やメンツにとらわれ、古いやり方や、
いったん口にした自説にこだわってしまう。
(『易経』革・上六 (先奏))


政治家に対して聖人君主たらんことを求める理由はどこにあるのでしょうか?
私には、聖人君主とかけ離れた国民が政治家にそれを求めるのは奇妙にしかうつりません。

少しは話が脱線しましたが、重要なことは、我々はそのような多様な考えが共存する社会に生きており、その社会は多数決というシステムを採用しているということです。
民主主義は全く不完全なシステムで誤まることの方が多いのにも関わらず、我々は民主主義を採用しています。
なぜなら、民主主義では多数派が入れ替われることによって、結論を変えることができるからです。
君子豹変できなかったら、民衆豹変することで実質的に君子豹変を可能にすることができるのです。

我々は、確かな結論を提供するシステムではなく、確からしい結論を出し、さらにその結論を変えることができるシステムを選んでいる。
こう考えると「民主主義はくそったれだが、でも他に比べればマシ」という言葉に妙に納得するのです。