当Blogの記事(河野太郎の夏)についてttosiさんから実に核心をえぐる鋭いコメントをいただきました。
本日、電車の中で老夫婦が総裁選の結果について以下のような話しているのを耳にしました。
「谷垣さんは誰だったか前の首相(“麻生さんでしょ”と奥様)とは違って礼儀正しいし好感が持てるよ。河野は先輩を“腐ったリンゴ”と例えたり、あんなのはダメだ。谷垣さんになって自民党は良くなるよ。」
もちろん人格も判断の一つですが、自民党が負けた意味を考えれば、古いものを切り捨てなければ国民には受け入れられないはずです。ただ、こうした心に訴える手法(?)でまた昔のままの自民党が復活してしまうのかもしれないと思うと、少し残念です。
そうなのです。
一言で言ってしまえば価値観ということになるのですが、物事の価値判断の基準というのは人それぞれなのです。
このことは当Blog記事(費用負担のない便益など存在しない)でも少し触れました。
例えば「何が正しくて、何が悪いのか」といった判断は、相対的価値に基づくもので、絶対的価値に基づくものではありません。
人によって異なるのです。
多様な人が存在するのが人間社会です。
世代、性別、宗派、学派、文化、etc...などによって異なる相対的価値基準を持つ人々が同じ場、同じ国の中で共存しているのです。
あるコミュニティでは正しいことが、他のコミュニティで正しくない場合などは多々あることでしょう。
民主主義制度を導入する国では、そのような多様性の中で多数決というシステムをとるのです。
混乱しないはずがありません。
「デモクラシーのコスト」です。
日本政治の部分についていえば、「人柄」による投票行動をとる高齢者は多いと思います。
(具体的な統計データを持っているわけではないです)
「人物本位で選ぶ」なんていわれたら、有効な反論なんてできなそうです。
この背景には、戦後日本政治の中で「人柄」で選ぶことに問題がなかったことがあります。
政治理念や政策構想よりも、人柄重視で問題のない時代があったのです。
そんな時代の価値観を持っている彼らに言わせれば「自民党・政府がどうあるべきか」よりも「政治家がどうあるべきか」ということの方が重要なのです。
だから麻生太郎の漢字の読み間違いや失言やブレばかりに注目が集まるのです。
極論を言ってしまえば、私なんかは政治家の人柄なんかよりも政策的有用性の方を重要視します。
政策的に有能であればひらがなしか読めなくても問題ないと思います。
女性問題があろうが借金問題があろうがスキャンダルがあろうが、結果として国家・国民にとってプラスならそれでよいではありませんか。
また、ブレること自体は問題ないことです。
孔子の言葉が実に本質的です。
過ちて改めざる、是を過ちという (論語)
君子豹変することは政治家には必要なことだ。
真に、ひとかどの人物であれば、変化、変革を恐れない。
必要であれば、あるいは過ちとわかれば、
がらりとやり方、態度を変えたりもする。
ところが小人は、表面上、それを受け入れる素振りをしつつも、
旧来のやり方やメンツにとらわれ、古いやり方や、
いったん口にした自説にこだわってしまう。
(『易経』革・上六 (先奏))
政治家に対して聖人君主たらんことを求める理由はどこにあるのでしょうか?
私には、聖人君主とかけ離れた国民が政治家にそれを求めるのは奇妙にしかうつりません。
少しは話が脱線しましたが、重要なことは、我々はそのような多様な考えが共存する社会に生きており、その社会は多数決というシステムを採用しているということです。
民主主義は全く不完全なシステムで誤まることの方が多いのにも関わらず、我々は民主主義を採用しています。
なぜなら、民主主義では多数派が入れ替われることによって、結論を変えることができるからです。
君子豹変できなかったら、民衆豹変することで実質的に君子豹変を可能にすることができるのです。
我々は、確かな結論を提供するシステムではなく、確からしい結論を出し、さらにその結論を変えることができるシステムを選んでいる。
こう考えると「民主主義はくそったれだが、でも他に比べればマシ」という言葉に妙に納得するのです。
本日、電車の中で老夫婦が総裁選の結果について以下のような話しているのを耳にしました。
「谷垣さんは誰だったか前の首相(“麻生さんでしょ”と奥様)とは違って礼儀正しいし好感が持てるよ。河野は先輩を“腐ったリンゴ”と例えたり、あんなのはダメだ。谷垣さんになって自民党は良くなるよ。」
もちろん人格も判断の一つですが、自民党が負けた意味を考えれば、古いものを切り捨てなければ国民には受け入れられないはずです。ただ、こうした心に訴える手法(?)でまた昔のままの自民党が復活してしまうのかもしれないと思うと、少し残念です。
そうなのです。
一言で言ってしまえば価値観ということになるのですが、物事の価値判断の基準というのは人それぞれなのです。
このことは当Blog記事(費用負担のない便益など存在しない)でも少し触れました。
例えば「何が正しくて、何が悪いのか」といった判断は、相対的価値に基づくもので、絶対的価値に基づくものではありません。
人によって異なるのです。
多様な人が存在するのが人間社会です。
世代、性別、宗派、学派、文化、etc...などによって異なる相対的価値基準を持つ人々が同じ場、同じ国の中で共存しているのです。
あるコミュニティでは正しいことが、他のコミュニティで正しくない場合などは多々あることでしょう。
民主主義制度を導入する国では、そのような多様性の中で多数決というシステムをとるのです。
混乱しないはずがありません。
「デモクラシーのコスト」です。
日本政治の部分についていえば、「人柄」による投票行動をとる高齢者は多いと思います。
(具体的な統計データを持っているわけではないです)
「人物本位で選ぶ」なんていわれたら、有効な反論なんてできなそうです。
この背景には、戦後日本政治の中で「人柄」で選ぶことに問題がなかったことがあります。
政治理念や政策構想よりも、人柄重視で問題のない時代があったのです。
そんな時代の価値観を持っている彼らに言わせれば「自民党・政府がどうあるべきか」よりも「政治家がどうあるべきか」ということの方が重要なのです。
だから麻生太郎の漢字の読み間違いや失言やブレばかりに注目が集まるのです。
極論を言ってしまえば、私なんかは政治家の人柄なんかよりも政策的有用性の方を重要視します。
政策的に有能であればひらがなしか読めなくても問題ないと思います。
女性問題があろうが借金問題があろうがスキャンダルがあろうが、結果として国家・国民にとってプラスならそれでよいではありませんか。
また、ブレること自体は問題ないことです。
孔子の言葉が実に本質的です。
過ちて改めざる、是を過ちという (論語)
君子豹変することは政治家には必要なことだ。
真に、ひとかどの人物であれば、変化、変革を恐れない。
必要であれば、あるいは過ちとわかれば、
がらりとやり方、態度を変えたりもする。
ところが小人は、表面上、それを受け入れる素振りをしつつも、
旧来のやり方やメンツにとらわれ、古いやり方や、
いったん口にした自説にこだわってしまう。
(『易経』革・上六 (先奏))
政治家に対して聖人君主たらんことを求める理由はどこにあるのでしょうか?
私には、聖人君主とかけ離れた国民が政治家にそれを求めるのは奇妙にしかうつりません。
少しは話が脱線しましたが、重要なことは、我々はそのような多様な考えが共存する社会に生きており、その社会は多数決というシステムを採用しているということです。
民主主義は全く不完全なシステムで誤まることの方が多いのにも関わらず、我々は民主主義を採用しています。
なぜなら、民主主義では多数派が入れ替われることによって、結論を変えることができるからです。
君子豹変できなかったら、民衆豹変することで実質的に君子豹変を可能にすることができるのです。
我々は、確かな結論を提供するシステムではなく、確からしい結論を出し、さらにその結論を変えることができるシステムを選んでいる。
こう考えると「民主主義はくそったれだが、でも他に比べればマシ」という言葉に妙に納得するのです。
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