教育のもたらす利益について(内田樹)
私は内田樹のBlogを読むのが好きだ。
直接話して確かめたわけではないが、彼の考えと私の考え方は似ていると思う。
いつも自分の考えをなぞるように頷きながら読める。
さらにいえば、同じ時期に同じネタで盛り上がったりするのだ。
しかし、出てくる答えが違う。
考え方はほとんど同じなのに、なぜか出てくる結論が違うのだ。
そこで、彼の最近の記事を使って(引用をこえてほぼ全部コピペなのだが)、なぜそうなるのか考察してみよう。
(私は決して自惚れているわけではない)
自分以外にはほんとどうでもよいことなのだが、でもこれってみんなに共通の問題だと思う。
解り合えない原因は、実は非常に些細な問題なのだ。
-<>-<>-<>-<>-
彼は国家と教育の結びつきについての説明をする。
まずは彼の現状認識が述べられる。
この点については私は肯定も否定もない。
日本は、高等教育への財政支出対GDP比率が先進国最低の国である。
文科省はこれを5%にと要望したが、財務省に一蹴された。
教育は私事であるから、公的支援には及ばないというふうに考えておられるのであろう。
教育は自己責任で行え、と。
行政を頼るな、と。
つづいて、教育が国家に結びつく時代的背景が説明される。
いつの時代も、税金を払う側は税金の使われ方についてナイーブになるものである。
特に、国家を民主的プロセスによって創造してきたという自負のあるアメリカ人には、より一層、国家が公権力の下に税金を徴収するという行為そのものがリスクをはらんでいるように見えるのだろう。
年貢の時代から素直に徴収されていたのかは勉強不足で知らないが、日本人は伝統的に比較的従順であると思う。
(でも自分の力で稼いでいると自負している実業家やタレントなんかはすごいムカついているのだろうけど)
これは公教育という制度が発足した当初から、ずっと言われ続けてきたことである。
すべての子どもたちにできるかぎりの教育機会を提供するのは国家の義務である、という考え方を提示したのは、18世紀のフランスの啓蒙思想家たち、なかんずくコンドルセである。
理論ではフランスが先行したが、制度的に定着したのはアメリカが早かった。
しかし、そのときにアメリカの市民たちの中に、公教育制度につよく反対したものがいた。
ブルジョワたちである。
彼らはこういうロジックを立てた。
公教育を受けるのは貧乏人の子弟である(私らの子どもは高い授業料をとる私立学校に通っている)。
貧乏人が貧乏であるのは、能力がないか努力が足りなかったか、いずれにせよ自己責任である。
なぜ、自己責任で貧乏になった人間の子どもたちの面倒を私らが納めた税金でせにゃならんの。
ブルジョワたちはそう言って公教育制度の導入に反対した。
勉強したい人間は自分の金で勉強しろ。金がないならあきらめろ、と。
もろ正論とはいえ、教育格差が叫ばれる昨今、簡単にはそうだねとはいえない。それは彼も同じだ。
次は、「経済合理性とは何か」を基にした議論だ。
ミクロで損でもマクロで得するという論法は私もよく使うし、非常にまともに思える。
いや、どこまでがミクロでとこからがマクロかみたいな話を厳密にすると面倒なんだけどね。
でも人間ってそういう1次元止揚した物語に弱いんですよ。
これに対して公教育制度の導入を求めた思想家たちは苦肉の説得を試みた。
いや、それは短見というものである。
ちょっとお考えいただきたい。
みなさんがここでちょっと我慢して税金で公教育を支援してくだされば、文字も読めるし、四則計算もできるし、基礎的な社会的訓練もできている若い労働者がそのあとどんどん供給されるようになります。
高いスキルをもった若年労働者がこの先のみなさんのビジネスにどれくらいの利益をもたらすと思いますか。
ここで1ドル損して、あとで10ドルにして取り返す。それがイタチボリのアキンドつうもんでしょうが。
まあ、そういうふうなことを言ってブルジョワたちを説得したわけである。
さきゆき自己利益を増大させるという保証があるなら、公教育に税金を投じるにやぶさかではない。そういう経済合理性に基づいて、アメリカのブルジョワたちは公教育の導入を受け容れたのである。
その図式をわが国に適用すれば、どうして文科省が支援の増額を求め、財務省が反対するのか、そのロジックがわかる。
文科省は古典的な啓蒙理論の立場から「教育は公的な仕事である」と考えている(だから、あれこれわれわれのやっていることに口を出しもするのである)。
マクロといっても人間の知性が完全ではない以上、どこまでをパラメータに含めた上で経済合理性と言うのか、これは非常に難しい問題だ。
これに対して、投資対効果を基準に経済合理性を再考する。
効果がないんだから、経済合理性がないんじゃないかと。
マクロは、それを裏付けるミクロの基礎固めができていないと説得力を持たないぜということだ。
こういうドンデン返しはよくある。
夢のある大物語を聴かされた後、ある質問者が「でもそれだとこの場合の説明ができません」と言われるのだ。
これで回答につまるようなら一流の論者とはいえない。
(少なくても今後の課題なんかでまるめてはいけない。その時点で信用は地に堕ちる)
財務省は財界の言い分を代弁して、「教育は私事であり、教育目的は自己利益の増大であるなら、『受益者負担』の原則を貫くべきで、公的資金を投じるべきではない」と考えている。
この言い分もそれなりに筋が通っている。
教育にこれまでずいぶん国費を投じてきたけれど、その結果が「このざま」じゃないかと言われると、われわれはつい絶句する。
学力も先進国最低レベル、校外学習時間も最低、高等教育まで受けたが、英語が読めない、四則計算ができない、漢字が書けないという「学士」が現にたくさんいる。
あれだけ税金使って、これかよ。
そんなものにこれ以上金は出せん。
勉強したければ自己責任でやりなさい。
自分の金で学校に通うようになれば、少しはまじめに勉強するようになるであろう。
そう言われると、それなりに筋が通っている。
そもそもの最初に「公教育にいま金を出しておくと、あとでがばっと回収できますよ」というロジックで納税者を納得したのであるから、「『がばっ』とならないじゃないか」と言われるとプラグマティックな公教育論者は立場を失う。
次に、彼は一つの可能性を示唆し、反論をする。(これは可能性を示唆しているのであって彼の持論ではない)
現時点でこの意見は反証不能なため、正誤の判断はできない。
実験してみれば答えは出るだろうが、やってみてダメでした系のトンデモの可能性もある。
もちろん、反論は可能である。
「出し方が足りないから、『こういうこと』になったのである」という反論である。
高等教育は予算逓減のせいで、「勝ち組・負け組」の二極化が急速に進行し、危険水域に向かっている。
これは事実である。
いまここで教育に投資しなければ、わが国の明日はない。
というのも、かなりほんとうである。
それに対して、さらにその可能性についての反論を述べる。
実はこのような神学論争的議論はビジネスの世界でも政治の世界でも、科学の世界でもよくある。
我々はどうしても一般化という呪縛からは逃れられない。
これは特殊事象かもしれないが、他の事象と照らし合わせて一般化を行う癖があるのだ。
しかも、賢いと言われる人は、この一般化能力に秀でている場合が多い。
また、困ったことに我々は一般化された情報に弱くもある。
財務省の反論は「おい、それは破産する前の企業の言い分だろ」というものである。
「おたくが融資してくれないから潰れかけている。潰したくなかったら、追加融資してくれ」という言い分を許してどれほどの不良債権を抱え込んだか、おいらは忘れていないぜ、と財務官僚は悪夢のバブル崩壊を思い出して目の前が怒りで暗くなっている。
そしてようやく彼の持論だ。
読み手をぐっと惹きつける。
私も思わず「そうだそうだ」と心の中で頷く。
どちらの言い分も私には理解できる。
しかし、これはこの「教育はペイする」というロジックそのものが内包していた背理であると私は考えている。
教育をビジネスの語法で語ってはならない、というのは私の年来の主張である。
公教育導入のときにも、ほんとうは「教育を国家的な事業として行えば、あとで私人の自己利益が増大する」という利益誘導型ロジックを利用すべきではなかったのだ。
このロジックを使う限り、「オレは公教育制度から何の利益も受けていない」と言いだした人間がいて、「オレ的には公教育なんか要らないね」と言いだしたときに、これを抑止することができなくなるからである。
教育は私人たちに「自己利益」をもたらすから制度化されたのではない。
そのことを改めて確認しなければならない。
そして、話の革新へ。
そうではなくて、教育は人々を「社会化」するために作られた制度である。
私人を公民に成熟させるために、自己利益の追求と同じくらいの熱意をもって公共の福利を配慮する人間をつくりだすために、マルクスの言葉を使って言えば、人々を「類的存在」たらしめるために作られた制度なのである。
全く同意、彼は私の心の代弁者だ。
しかし!
私たちの国の教育支出の対GDP比がきわめて低位であるのは、これを非とする人も是とする人もどちらも教育の意義を「利益」という語で語ろうとすることに由来する。
教育は利益をもたらさない。
教育はむしろ「利益」という概念の根本的な改定を要求するのである。
この結論が私と異なる。
「教育は人々を社会化するためにある。」
これは同意。が、
「教育は利益をもたらさない。」
これには不同意だ。でも
「教育はむしろ「利益」という概念の根本的な改定を要求するのである。」
には同意だ。
感のいい人ならもうわかるだろう。
彼と私では「利益」という言葉に対して込める意味が異なるのだ。
何を「利益」として捉えるのか、そこが違う!
彼はいつも「利益」を「金を儲ける」という意味で使っているが、私はもっと曖昧な意味で使う。
私は、単純には金に換算できないことも何かの役に立つなら、それを「利益」と呼ぶ。
つまり、便益だ。(私にとってプライスレスも利益なのだよ)
だが、彼は彼自身の意味でしか利益という言葉を解釈しないから、リバタリアニズムを批判をする。
しかし、リバタリアンの利益が「金の追求」とは限らない。
少なくても私は違うし、私の知るリバタリアンも違う。
(いきなりここでリバタリアン宣言をしているように見えるが、私は自分をリバタリアンだとは思っていない。リバタリアンって言われるけど・・)
さらにいえば、彼は違う場所でこうも述べる。
「新自由主義者」と呼ばれる人達は、自分達が全てを管理できると勘違いしていると。
これは、リーマンショック以降、主に金融関係者に向けて行われた代表的な批判であるが、これは相当大きな勘違いである。
なぜなら、(新自由主義者と等価ではないだろうが)リバタリアンはリスクを完全に管理することなどできないと考えている人達だからだ。
知性の不完全な人間に完全な計画や管理などが行えるわけがないという立場に立脚しているので、国家戦略や規制なんかで事が思った通り上手く進むわけないだろと考える。
だから、国家は余計な事はせず、規制緩和をして、人間の創造性を生かせと言わんとするのである。
最適なバランスは人間が決めることはできず、需要と供給のバランスで決まるのであるから、市場機能を使ってバランスを取ろうとするのだ。
それを市場原理主義や新自由主義などと呼ぶのはお門違いである。
その意味で
「教育はむしろ「利益」という概念の根本的な改定を要求するのである。」
は、彼が彼自身に求めている要求であるのではないか。そう私は思うのである。
国語の問題として彼が正しく、私が間違っているのかもしれないが、ここで重要な問題は、言葉の定義なんていうほんの些細な問題が大いなるすれ違いを生むことだ。
いわゆる「パラメータ問題」はヒューマンコミュニケーションにも適用できる。
シミュレーションする時なんかに入力変数を小数点4桁から5桁にするとロジックは同じなのに全く異なる結果が出てしまうあの問題だ。
ほんのわずかな認識の違いが、結論を変えてしまうのだ。
私は勝手であるがじっくり話合えば、彼とリバタリアンはきっと分かり合えると思っている。
初めに言うのを忘れたが、私は彼が好きだし、彼の考え方を尊敬している。
ただ、ちょっとした違いがあるといいたいだけだ。
私は内田樹のBlogを読むのが好きだ。
直接話して確かめたわけではないが、彼の考えと私の考え方は似ていると思う。
いつも自分の考えをなぞるように頷きながら読める。
さらにいえば、同じ時期に同じネタで盛り上がったりするのだ。
しかし、出てくる答えが違う。
考え方はほとんど同じなのに、なぜか出てくる結論が違うのだ。
そこで、彼の最近の記事を使って(引用をこえてほぼ全部コピペなのだが)、なぜそうなるのか考察してみよう。
(私は決して自惚れているわけではない)
自分以外にはほんとどうでもよいことなのだが、でもこれってみんなに共通の問題だと思う。
解り合えない原因は、実は非常に些細な問題なのだ。
-<>-<>-<>-<>-
彼は国家と教育の結びつきについての説明をする。
まずは彼の現状認識が述べられる。
この点については私は肯定も否定もない。
日本は、高等教育への財政支出対GDP比率が先進国最低の国である。
文科省はこれを5%にと要望したが、財務省に一蹴された。
教育は私事であるから、公的支援には及ばないというふうに考えておられるのであろう。
教育は自己責任で行え、と。
行政を頼るな、と。
つづいて、教育が国家に結びつく時代的背景が説明される。
いつの時代も、税金を払う側は税金の使われ方についてナイーブになるものである。
特に、国家を民主的プロセスによって創造してきたという自負のあるアメリカ人には、より一層、国家が公権力の下に税金を徴収するという行為そのものがリスクをはらんでいるように見えるのだろう。
年貢の時代から素直に徴収されていたのかは勉強不足で知らないが、日本人は伝統的に比較的従順であると思う。
(でも自分の力で稼いでいると自負している実業家やタレントなんかはすごいムカついているのだろうけど)
これは公教育という制度が発足した当初から、ずっと言われ続けてきたことである。
すべての子どもたちにできるかぎりの教育機会を提供するのは国家の義務である、という考え方を提示したのは、18世紀のフランスの啓蒙思想家たち、なかんずくコンドルセである。
理論ではフランスが先行したが、制度的に定着したのはアメリカが早かった。
しかし、そのときにアメリカの市民たちの中に、公教育制度につよく反対したものがいた。
ブルジョワたちである。
彼らはこういうロジックを立てた。
公教育を受けるのは貧乏人の子弟である(私らの子どもは高い授業料をとる私立学校に通っている)。
貧乏人が貧乏であるのは、能力がないか努力が足りなかったか、いずれにせよ自己責任である。
なぜ、自己責任で貧乏になった人間の子どもたちの面倒を私らが納めた税金でせにゃならんの。
ブルジョワたちはそう言って公教育制度の導入に反対した。
勉強したい人間は自分の金で勉強しろ。金がないならあきらめろ、と。
もろ正論とはいえ、教育格差が叫ばれる昨今、簡単にはそうだねとはいえない。それは彼も同じだ。
次は、「経済合理性とは何か」を基にした議論だ。
ミクロで損でもマクロで得するという論法は私もよく使うし、非常にまともに思える。
いや、どこまでがミクロでとこからがマクロかみたいな話を厳密にすると面倒なんだけどね。
でも人間ってそういう1次元止揚した物語に弱いんですよ。
これに対して公教育制度の導入を求めた思想家たちは苦肉の説得を試みた。
いや、それは短見というものである。
ちょっとお考えいただきたい。
みなさんがここでちょっと我慢して税金で公教育を支援してくだされば、文字も読めるし、四則計算もできるし、基礎的な社会的訓練もできている若い労働者がそのあとどんどん供給されるようになります。
高いスキルをもった若年労働者がこの先のみなさんのビジネスにどれくらいの利益をもたらすと思いますか。
ここで1ドル損して、あとで10ドルにして取り返す。それがイタチボリのアキンドつうもんでしょうが。
まあ、そういうふうなことを言ってブルジョワたちを説得したわけである。
さきゆき自己利益を増大させるという保証があるなら、公教育に税金を投じるにやぶさかではない。そういう経済合理性に基づいて、アメリカのブルジョワたちは公教育の導入を受け容れたのである。
その図式をわが国に適用すれば、どうして文科省が支援の増額を求め、財務省が反対するのか、そのロジックがわかる。
文科省は古典的な啓蒙理論の立場から「教育は公的な仕事である」と考えている(だから、あれこれわれわれのやっていることに口を出しもするのである)。
マクロといっても人間の知性が完全ではない以上、どこまでをパラメータに含めた上で経済合理性と言うのか、これは非常に難しい問題だ。
これに対して、投資対効果を基準に経済合理性を再考する。
効果がないんだから、経済合理性がないんじゃないかと。
マクロは、それを裏付けるミクロの基礎固めができていないと説得力を持たないぜということだ。
こういうドンデン返しはよくある。
夢のある大物語を聴かされた後、ある質問者が「でもそれだとこの場合の説明ができません」と言われるのだ。
これで回答につまるようなら一流の論者とはいえない。
(少なくても今後の課題なんかでまるめてはいけない。その時点で信用は地に堕ちる)
財務省は財界の言い分を代弁して、「教育は私事であり、教育目的は自己利益の増大であるなら、『受益者負担』の原則を貫くべきで、公的資金を投じるべきではない」と考えている。
この言い分もそれなりに筋が通っている。
教育にこれまでずいぶん国費を投じてきたけれど、その結果が「このざま」じゃないかと言われると、われわれはつい絶句する。
学力も先進国最低レベル、校外学習時間も最低、高等教育まで受けたが、英語が読めない、四則計算ができない、漢字が書けないという「学士」が現にたくさんいる。
あれだけ税金使って、これかよ。
そんなものにこれ以上金は出せん。
勉強したければ自己責任でやりなさい。
自分の金で学校に通うようになれば、少しはまじめに勉強するようになるであろう。
そう言われると、それなりに筋が通っている。
そもそもの最初に「公教育にいま金を出しておくと、あとでがばっと回収できますよ」というロジックで納税者を納得したのであるから、「『がばっ』とならないじゃないか」と言われるとプラグマティックな公教育論者は立場を失う。
次に、彼は一つの可能性を示唆し、反論をする。(これは可能性を示唆しているのであって彼の持論ではない)
現時点でこの意見は反証不能なため、正誤の判断はできない。
実験してみれば答えは出るだろうが、やってみてダメでした系のトンデモの可能性もある。
もちろん、反論は可能である。
「出し方が足りないから、『こういうこと』になったのである」という反論である。
高等教育は予算逓減のせいで、「勝ち組・負け組」の二極化が急速に進行し、危険水域に向かっている。
これは事実である。
いまここで教育に投資しなければ、わが国の明日はない。
というのも、かなりほんとうである。
それに対して、さらにその可能性についての反論を述べる。
実はこのような神学論争的議論はビジネスの世界でも政治の世界でも、科学の世界でもよくある。
我々はどうしても一般化という呪縛からは逃れられない。
これは特殊事象かもしれないが、他の事象と照らし合わせて一般化を行う癖があるのだ。
しかも、賢いと言われる人は、この一般化能力に秀でている場合が多い。
また、困ったことに我々は一般化された情報に弱くもある。
財務省の反論は「おい、それは破産する前の企業の言い分だろ」というものである。
「おたくが融資してくれないから潰れかけている。潰したくなかったら、追加融資してくれ」という言い分を許してどれほどの不良債権を抱え込んだか、おいらは忘れていないぜ、と財務官僚は悪夢のバブル崩壊を思い出して目の前が怒りで暗くなっている。
そしてようやく彼の持論だ。
読み手をぐっと惹きつける。
私も思わず「そうだそうだ」と心の中で頷く。
どちらの言い分も私には理解できる。
しかし、これはこの「教育はペイする」というロジックそのものが内包していた背理であると私は考えている。
教育をビジネスの語法で語ってはならない、というのは私の年来の主張である。
公教育導入のときにも、ほんとうは「教育を国家的な事業として行えば、あとで私人の自己利益が増大する」という利益誘導型ロジックを利用すべきではなかったのだ。
このロジックを使う限り、「オレは公教育制度から何の利益も受けていない」と言いだした人間がいて、「オレ的には公教育なんか要らないね」と言いだしたときに、これを抑止することができなくなるからである。
教育は私人たちに「自己利益」をもたらすから制度化されたのではない。
そのことを改めて確認しなければならない。
そして、話の革新へ。
そうではなくて、教育は人々を「社会化」するために作られた制度である。
私人を公民に成熟させるために、自己利益の追求と同じくらいの熱意をもって公共の福利を配慮する人間をつくりだすために、マルクスの言葉を使って言えば、人々を「類的存在」たらしめるために作られた制度なのである。
全く同意、彼は私の心の代弁者だ。
しかし!
私たちの国の教育支出の対GDP比がきわめて低位であるのは、これを非とする人も是とする人もどちらも教育の意義を「利益」という語で語ろうとすることに由来する。
教育は利益をもたらさない。
教育はむしろ「利益」という概念の根本的な改定を要求するのである。
この結論が私と異なる。
「教育は人々を社会化するためにある。」
これは同意。が、
「教育は利益をもたらさない。」
これには不同意だ。でも
「教育はむしろ「利益」という概念の根本的な改定を要求するのである。」
には同意だ。
感のいい人ならもうわかるだろう。
彼と私では「利益」という言葉に対して込める意味が異なるのだ。
何を「利益」として捉えるのか、そこが違う!
彼はいつも「利益」を「金を儲ける」という意味で使っているが、私はもっと曖昧な意味で使う。
私は、単純には金に換算できないことも何かの役に立つなら、それを「利益」と呼ぶ。
つまり、便益だ。(私にとってプライスレスも利益なのだよ)
だが、彼は彼自身の意味でしか利益という言葉を解釈しないから、リバタリアニズムを批判をする。
しかし、リバタリアンの利益が「金の追求」とは限らない。
少なくても私は違うし、私の知るリバタリアンも違う。
(いきなりここでリバタリアン宣言をしているように見えるが、私は自分をリバタリアンだとは思っていない。リバタリアンって言われるけど・・)
さらにいえば、彼は違う場所でこうも述べる。
「新自由主義者」と呼ばれる人達は、自分達が全てを管理できると勘違いしていると。
これは、リーマンショック以降、主に金融関係者に向けて行われた代表的な批判であるが、これは相当大きな勘違いである。
なぜなら、(新自由主義者と等価ではないだろうが)リバタリアンはリスクを完全に管理することなどできないと考えている人達だからだ。
知性の不完全な人間に完全な計画や管理などが行えるわけがないという立場に立脚しているので、国家戦略や規制なんかで事が思った通り上手く進むわけないだろと考える。
だから、国家は余計な事はせず、規制緩和をして、人間の創造性を生かせと言わんとするのである。
最適なバランスは人間が決めることはできず、需要と供給のバランスで決まるのであるから、市場機能を使ってバランスを取ろうとするのだ。
それを市場原理主義や新自由主義などと呼ぶのはお門違いである。
その意味で
「教育はむしろ「利益」という概念の根本的な改定を要求するのである。」
は、彼が彼自身に求めている要求であるのではないか。そう私は思うのである。
国語の問題として彼が正しく、私が間違っているのかもしれないが、ここで重要な問題は、言葉の定義なんていうほんの些細な問題が大いなるすれ違いを生むことだ。
いわゆる「パラメータ問題」はヒューマンコミュニケーションにも適用できる。
シミュレーションする時なんかに入力変数を小数点4桁から5桁にするとロジックは同じなのに全く異なる結果が出てしまうあの問題だ。
ほんのわずかな認識の違いが、結論を変えてしまうのだ。
私は勝手であるがじっくり話合えば、彼とリバタリアンはきっと分かり合えると思っている。
初めに言うのを忘れたが、私は彼が好きだし、彼の考え方を尊敬している。
ただ、ちょっとした違いがあるといいたいだけだ。