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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
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リスクばっかり気にしていたら生きていけない

2009-09-14 23:07:04 | 経済
相関のファンダメンタルズ(投資の消費性)
http://d.hatena.ne.jp/equilibrista/20090911/p1

私はこのBlogのファンだ。
彼の主張には実務家特有のリアリズムの匂いが漂っている。

いわゆるリーマンショック以降、ありとあらゆるところから投資銀行を筆頭とする金融業界へ批判がなされた。
世間は、彼らが汗もかかず金を転がすだけで多額の利益を上げていると思い込んだ。
また、数学を応用した金融工学というツールを使ってリスクを覆い隠し消費者を騙したと。
確かに、一部では現実なのだろう。
麻生太郎が「株屋は信用ならない」という失言で世を騒がせたが、そういう一面もある。
金融業界に限った話ではないが、詐欺的なビジネスは何時の時代にも横行している。

ナシーム・ニコラス・タレブ著「ブラックスワン」を持ち出して、金融業界批判をする人もいる。
格付け会社が「AAA」を連発したことが問題だと。
だが、格付け会社の意見を聞けば、彼らは過去に起こったことからしかリスクを判断できないので、これまで通りなら安全(AAA)だと言うことしかできない。
予測できないブラック・スワンまで考慮にいれろというならば、「AAA」は存在できないことになる
いや、そもそも「AAA」=「最上級の安全で優良な格付けを意味」という言葉に前提をつければよかった。
予想外のことが起きない限りは最上級の安全で優良な格付けを意味します」と。
生命保険だってこういう場合は保証しませんとか書いてるじゃないか。
戦争による死亡は保証しないとか、自殺はだめとか。

まず社会の構成員全員が認識すべきことがある。
我々はリスクを完全に理解することはできない

リスクというのは考えれば考えるほど無限にあり、数えればキリがないものだ。
全てのリスクが見えていたら、我々は恐ろしくて街中を歩けないだろう。
それでも我々人間が普段の生活を前向きに過ごすことができるのは「どこまでをリスクとして捉えるか」という難しい判断を、無意識的に行っているからだ。
考えなくていいリスク」と「考えるべきリスク」の判断基準は人によって異なるだろうが、その判断を生活が成り立つ程度の合理性に基づいて行っていることが重要だ
(仕事ができるマネージャっていうとこの辺りのリスク感度が高かったり逆に自覚的に低めたりできる人ではないだろうか)

タレブは、人間が目先の利益を重視しがちな(長期的なリスクや頻度の低いリスクを軽視する)理由を、人類がそのほとんどの時間を費やした野生的生活の中で身につけた性格だからだと説明する。
極端なことをいえば、我々には、リスクを完璧に判断することはできない。
全ての情報を知ることはできないので限定合理性の中でしか判断することしかできないからだ。
人間というのは、無限の可能性の宝庫である宇宙を、鉄格子ごしにしか見ることのできない存在だ

そんな人間がリスクを過小評価したからって大騒ぎする方がどうかしている。
前述したことを前提とするならば、我々は間違えるということを前提として制度設計するのがセオリーではないか。
間違えたことを責めるのは心情的には理解できるが、論理的な解決策を導いてくれるとは到底思えない。

最も、わかりやすい例が、米国の運輸安全委員会のとる方法だ。
犯人探しが最優先なのではなく、問題の原因を解明し、次なる問題発生を防ぐことが最優先なのだ。
現実を明らかにするために関係者を罪に問わず、本音を聞きだす。

さて、前置きが長くなってしまったのだが、当記事の最初に貼ったリンク先を見ていただきたい。


システムおぢさんにコメントいただいた中で、気になった部分がここでした。
皆が一斉に資金を引き上げるとき、当然のことだが、どのリスク資産も一様に価格は下落するのだと。
それらの相関は高まるのだと。
そもそも相関を一定だと仮定するのが阿呆で、それらは常に変化するのだということを、我々は肌で理解する必要があるいう指摘は、金融危機後によく見られました。
他方で、なぜ相関は変化するのか、どのように変化するのか、その背景は何か、それらをどのように用いるべきか、といった問題について、具体的に言及されたものをあまり見たことがありません。
今日は、そのあたりに光を当ててみようかと。



例えば、トヨタ株と日産株を同時に買うとき、どちらか片方のみを買う場合と比べて、たしかに分散効果を期待できるはずです。
どちらかの経営陣にスキャンダルがあっても、もう片方には普通なら変化はありません。
もちろん分散効果をあまり期待できないような局面もあるはずです。
例えば自動車需要そのものが減退すると予想されるとき、どちらも下落を避けられません。



ポートフォリオの内容によって、意図しているリスクの内容によって、投資している個別のリスク資産の相関が高まることの影響は異なります。
まず、このことを頭に入れておく必要があります。


具体的な説明は本文を見ていただくとして、本質的な問題をあっさりと述べるあたりが彼がプロであることを示している。


あらゆるリスク資産を見渡して、そのすべてに共通するもの、一部に共通するもの、ほとんど共通しないもの。
世の中に動くあらゆる要素を、そのように捉えることができるはずです。
そんなふうに、あらゆる「共通項」を探し出して、大きいものから順に頭の中で階層に積み上げてみる。
それらを、それぞれに揺らしてみる。
相関にかかるリスク管理とは、本来そのようなものであるはずです。


最後は、全部コピペ。


大切なことは、「共通項」の認識に正解など存在しないということです。
今朝の乾いた風が、どのビジネスに影響して、どのビジネスにあまり影響しないのか、その見方は投資家の数だけ存在します。
あらゆるリスク要素にかかる異なる見方は市場で交換され、世界中の投資家の総意として収束するはずで、バーゼルの連中だけがリスクを定義できるだなんて、どうかしてる。
だって今は21世紀だぜ?
銀行ビジネスを見るときも、自分のポートフォリオを見るときも、リスク管理とは、結局のところそうして世界のすべてを見ることで、より具体的には、あらゆるリスク要素を、それが誰と誰の「共通項」なのかイメージしつつ、上下左右にゆさゆさと揺らしてみる。
すべての投資家がそうやってリスクを眺めるとき、世界はより安定するはずです。
少なくとも、僕はそう信じてる。

保守的なリスク管理をしたければ、そのとき悪影響を与えそうなものを探し出す。
ロングのポートフォリオなら、皆を一斉に揺らすリスクを念頭に置くこと、結果として各資産間の相関を高めに見積もることだし、ヘッジファンドなら、あまり共通項を持たない個別のリスクに着目すること、結果として各資産間の相関を低めに割り引いて考えること。



あらゆる相関には理由があるはずで、それらを探し出すことは実は投資の出発点なのだけれども、なぜなら、それらをすべて考慮して構成したポートフォリオのリスクに対して、投資家はプレミアムを要求するわけです。
それに値段をつける。
つまりすべてに。
ああ、またしてもCAPMに戻ってきた。
逆襲シリーズとして書いてもよかったのかもしれない。


彼は最近まで投資銀行でヘッジファンド運用をしていたらしいが、実際の現場の感覚っていうのは、世間で言われているよりずっとリアリズム指向だと思うんだ。

彼らは彼らにできることと、できないことがわかっていて、それでリスク管理している。
リスク管理に絶対があるかのような勘違いを流布しているのは逆の立場の人達なんじゃないか?


なんて記事を書いていたら極東ブログに似たような記事が。

[書評]脳の中にいる天才(茂木健一郎編・竹内薫訳)(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/09/post-cdde.html

う~ん、言わんとしているところはわかるけどむずい・・。