当Blog初のスピリチュアルネタは、自称スピリチュアリストであるS氏と、硬派BlogerであるY氏との対話シリーズでお送りする「スピリチュアル対話シリーズ」と冠ってお送りしたいと思います。
相当脱線しておりますので、これは物語としてお読みください。
さて、復帰後第一発目ですが、当Blogのコメンテーターとしてご活躍のttosiさんのBlogをヒントにします。
Overcome past (ttosi's English Journal)
http://ttosi.blog.so-net.ne.jp/2009-09-25
人間の不自由さについて、坂口安吾の「堕落論」にこういう一説があります。
我々はあらゆる自由を許されたが、
人はあらゆる自由を許された時、
みずからの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。
人間は永遠に自由ではありえない。
なぜなら人間は生きており、また死なねばならず、そして人間は考えるからだ。
実に本質を突いた表現であると同時に、妙に納得させられます。が、しかし、不自由であることこそが人生の最大の意義なのです。 (このことの意味については後日) そうすると「真面目一辺倒よりも少しふざけて生きた方が気楽でよい」ということになるのでしょうか。いわゆる「人生楽しんだもの勝ち」というやつです。それも一つの有意義な人生哲学でしょう。しかし、私はそうは考えていません。
私は「人生の中で起きる出来る限り多くの物事について、真剣に解答を出していくこと」には、大きな意味があると考えています。欲をいえば、その一つひとつの取り組みについて楽しめる方がよいのですが、「楽しめるかどうか」というのは第一義的な意味ではありません。人生の中で起きることには楽しめないことの方が多いのが普通ですし、それを無理に楽しむ必要もないのです。楽しめないことを楽しむ処世術というのは有意義な技術ですが、それが真剣さをぼかす技術なのだとしたら不要なものです。病巣を手術することを恐れ、痛み止めで一時期に忘れることができても、いつか病気そのものと向き合わねばならない現実から逃げることはできないのです。最も重要なことは「一つひとつの出来事に真剣に向き合えるか」どうかです。
ここから先は、私の語彙と文才では表現しにくいので、問答形式で説明します。登場人物は2人です。先に説明した自称スピリチュアリストであるS氏と硬派BlogerであるY氏です。
(なぜ問答形式かって?それは後日)
真剣に向き合うことが重要なのは、なぜか。
それは、そのことが最も人生を有意義に過ごすために重要なことだからです。
なぜ、それが有意義だといえるのか。
それは、それが人生から求められていることだからです。
求められることに的確に解答すること、つまりそれがあなたの役割(生きるということ)だからであり、そこに目的を果たすという意味での生き甲斐があるのです。生き甲斐とはそういうことで、他に道はありません。
人生から求められている役割とはどういうことか。
自分自身が自分自身に与えたカルマを果たすということです。
急に論理が飛躍しているが、人生というのは自分自身に与えたカルマなのか。
そうです。
確証は?何らかの根拠があって言っているのか?
ありません。ありませんが、その気になれば理解することは可能です。
理解するためには、何らかの根拠が必要だろう。
それがあるのならば、人類は今日までの道を迷ってはいないでしょう。それに、理解することがあなたの目的ではなく、役割を果たすことこそあなたの目的です。
理解することが、重要なのではないのか。
真剣に向き合うことが最重要だと述べたのであって、理解することが最重要だと述べたのではありません。もちろん、理解度を深めることも重要ではあります。
根拠がない話を信じろというのは無理な話だ。
信じろと言った覚えはありません。信じるも信じないもあなたの勝手であり、好きになさったらよろしい。ただ、私は私の考えることを述べただけです。
・・・。理解を求めないのなら、主張をする意味も怪しくなるのではないか。
理解するかどうかはあなた方の自由です。ただ、私の述べたことが誰かの心に届くなら、私のやることにも意味があるというものです。
もう少し学際的な議論をすべきではないのかな。哲学ですら、あなたの議論より理論的だと思う。
あなたは根拠がある方が、それもより多く深い根拠がある方が信じるに値するというが、その根拠の根拠、またその根拠の根拠といって追求していけば、どこまでいっても際限がありません。あなたのいう根拠というのは、結局のところ、どこで妥協して納得するのか、という類の異なった表現でしかないと思います。
いや、あなたの話に反証可能性があるのかないのか、という問題提起だ。あなたの話は正しいのかもしれないが、正しくない可能性を十分にはらんでいる。そこを判断するためには反証可能性を基に議論をする必要がある。でなければ、いつまで立っても話が平行線だな。神学論争で終始するだけだ。
私には神学論争をするつもりはありません。私は、時がくればあなたにも理解できることを、ただ説明しているだけで、この話を聞けば理解できるとは述べておりません。ただ、理解するときがくれば、あなたは根拠など必要なく理解するはずです。この説明が正しいことは、あなたの人生経験が直感的に教えてくれるはずです。
そういう説明は詐欺に近いと思う。後付バイアスともいう。
あなたが今、信じていることが詐欺ではないという保証はありますでしょうか。あなたがたはよく信じることを間違える。それはあなたの人生も、人類の歴史も証明してくれているではありませんか。
ニヒリズムに立脚した、哲学のフリをした詐欺である可能性がある。
私の主張が詐欺ならば、あなた方のみる夢というものも自分自身に対する詐欺になりますね。あなたは希望を抱かないのですか。詐欺と詐欺でないものの違いは何なのでしょうか。
騙す意図があるかないかというのも一つの指標だろう。
騙す意図がなくても、結果として騙すことがあることはあなたもよく知っているでしょう。あなたはあなた自身を騙していないとはいえないのではありませんか。私はあなたを騙すつもりはありません。
では言葉を返そう。あなたに嘘をつくつもりはなくても、あなたの勘違いである可能性はあるのではないか。
そうですね。それはあります。私の主張は勘違いであるかもしれません。
支離滅裂だ。だったらそこまで主張することないではないか。
あなたは自分が理解しているつもりのことを人に教えたりしませんか。あなたは理解しているつもりでも、本当は間違っているかもしれない。だが、あなたはその可能性を無視して説明する時があります。自分に間違っている可能性がある時、何も主張してはいけないのなら、誰も何もいえなくなります。
やはり平行線になってしまう。そんなことを言い出したら何もいえなくなるではないか。議論する際には、共有可能な知識を基にしたある程度のバランス感覚が必要だと思う。
見えている世界が違うのだから話が平行線になるのは仕方が無いが、お互いが真剣に向き合う中で少しずつでも相互理解を構築できると思います。
相互理解は今後の課題として、話を戻そう。人生の中で起きる一つひとつの出来事に真剣に向き合うことが、生き甲斐になるという話しであった。また、それが自分自身に与えたカルマを果たすことになると。そうすると、人の一生というのは、生前にある程度決まっていることにならないか。
そうです。決まっております。
身も蓋もない意見だな。その時点でもう議論にならない。
さきほどと同じことです。
では、また話を戻そう。カルマを果たすことが生き甲斐になるから、真剣に向き合うことに意味がある。そういうことか。
そうです。
だが、それは直感に反する。なぜなら、私はやり甲斐を感じるときにカルマなどというものを全く意識していないし、偶発的な出来事にやり甲斐を感じるときもあるし、何よりも私は些細なことに喜びを感じるときがある。人生の中では、カルマ以外に生き甲斐はないのか。
厳密な意味をお伝えすることは非常に難しいのですが、回答するとなると、ありません。という他ありません。全て人生の中で役割を果たすかどうかにかかっています。小さな役割もあれば、大きな役割もあります。それに、あなた自身の役割をあなた自身が自覚しているとは限りません。
それは、役割の定義次第で、なんとでもいえると思う。私が聞きたいのは、私が喜びを感じる瞬間は、必ずしも良いものとは限らないということだ。何らかの背徳的な行為や、非社会的な行為、貧欲的な行為に喜びを感じるときもあるだろう。それらも全て役割というのか。
非常によい質問をなされます。全てあなたがあなたに与えた役割です。あなたはカルマについて勘違いをしています。カルマというのは慈善事業のことをいうのではありません。あなたが学ばなければならないことです。あなたは一つの問題を解く度に喜びを感じることでしょう。
いや、人間の感情というのはそんなに単純なものとは思えない。私は、背徳的な行為をするとき、罪悪感を感じながら喜びを感じている。この相反する矛盾した感情は、人間の脳機能の進化過程に依存する問題であると理解している。「これをすれば、こう喜びを感じる」という単純なお題目設定に人間の感情が支配されているとは思えない。
それも非常によい質問です。あなたがおっしゃることは、脳機能を使った解釈の問題で、喜びそのものの説明ではありません。喜びを感じるための条件を述べたのであって、喜びをどう感じるかは、人それぞれ固有なのです。人間が顕在意識として喜びを認識するために脳機能を活用しているという点においては、おっしゃるとおりです。
喜びを感じるのは脳の機能ではないということか。
そうです。解釈をしているのが脳です。それは人間以外の生物においても同様です。
よくわからない。では解釈の元となる感情はどこからやってくるのだ。魂とでもいうつもりか。
なんと呼ぶかはあなた方の自由ですが、そういう呼ばれ方をするときもあります。
結局、これも神学論争ということか。
私は神学論争をするつもりはありません。
・・・。
・・・。
結局、何も明らかになっていないではないか。
初めから明らかなのですが、あなたが理解するかどうかの問題です。
本当は理解させる気がないのではないか。反証不可能な立場で議論すれば、議論に負けることがない。いくらか支持してくれる人がいれば、ある程度の満足感は得られるだろうね。どこかの宗教団体みたいに。
それは相当の偏見というものです。そんなことをいえば、科学史に燦燦と輝く科学者達はみな現在において詐欺師になるのでしょうか。そもそも、自分を理解させろ、理解させれなければそちらが悪いというのは実に都合のよい主張にも思えます。
今日はこの程度にしておこう。次回はまた違う視点で議論する。