粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

福島除染と沖縄基地

2013-06-19 12:32:00 | 福島への思い

石井孝明氏の記事によれば、福島県内の除染で12年13年度の2年間で9000億円近くの予算が汚染地域の除染に計上されているという。当初13年度で除染を終了させる予定だったが、その実現はほほ不可能だ。これも除染基準を年間被曝1ミリシーベルト以上に設定したことに問題があったと石井氏は指摘する。

この基準が現実離れして、結果的に今の16万人いるという避難民の帰還を妨げ福島復興を停滞させるとしている。今年入ってからのWHOや国連科学委員会の報告あるいは東大教授らの内部被爆検査で、福島県民の被曝が軽微で将来にわたっても問題にならないレベルであることが明らかになりつつある。

しかし、行政は国から自治体(特に福島県内)にいたるまで1ミリシーベルト維持を堅持している。これを誰が設定したか細野環境省大臣と自治体では見解はことなるが、自治体の強い要請に抗しきれず細野大臣が応じたというのが真相のようだ。環境省は当初1ミリはおろか20ミリシーベルトをも想定していたようだ。しかし決められない民主党政権は行政指導という形でいつの間にか1ミリ基準が一人歩きしてしまった。

自民党政権になっても、この基準は石原現環境大臣自身改める意向はなく継承されている。これが参議院議員選挙控えての自制なのかはわからないが、現政権の動きは極めて鈍い。

反原発団体の試算では、1ミリ基準を厳格に履行すると28兆円という途方もない除染費用がかかるという。アベノミクスで日本経済再生を推進しようとしても、こんな過剰な除染では大きなブレーキになる。政府には1ミリ基準の見直しを早急に検討してもらいたいものだ。

環境省や福島の自治体がこの1ミリ基準にこだわっているのは、放射能による健康への影響を過剰に強調する一部の人々の強力な声がある。ただそれは情緒的なものが多くあまり医学的な事実が反映されているとは思えない。しかし、いまだ多くのメディアをこうした声を配慮してなか実態を検証しようという姿勢がみられない。

福島の自治体や政府もどうもいまだいわばこうした「危険廚」の意見に振り回されている感じがしてならない。結局この相互馴れ合いが福島の復興を歪め日本経済の再生を妨げているように思う。

ところでこれは今の沖縄の基地問題と大いに通じるところがある。オスプレイの危険性が一人歩きして今だ沖縄では反対運動が根強い。すでにイギリスでは同様のオスプレイが導入されてロンドンのビッグベンの上空を飛んでいるが、なんら反対運動は起こっていない。

今年沖縄の自治体の首長たちがオスプレイ導入反対や普天間基地県外移設を訴えて国に陳情し都内でデモ行進をした。この模様を中央のメディアは大きく取り上げて「いまだ差別されている沖縄」を印象づけた。そしてこデモこそ「沖縄の総意」であるとばかりに強調された。しかし、県外移設という現実的には不可能な要求に固執することは、結局普天間基地を固定化を容認するだけであり基地問題の解決には送らせるだけだ。

沖縄のメディアは特に反基地的志向が極端だ。その影響力は甚大であり、沖縄の為政者はこうしたメディアには逆らえない。しかし、基地反対の声が決して「沖縄の総意」といえない。普天間基県内移設を賛成する集会が反対集会以上に集まっていることも報告されている。しかしこれを沖縄のメディアは黙殺している。当然中央のメディアが取り上げることはない。一部過激な市民団体の活動はしばしば紹介されるのに。

福島でも反原発団体の活動は些細なことでもよく取り上げられる。そして放射能被害を過度に強調する声ばかりが盛んに伝えられる。ほんの一部の人の声でも声高に叫ぶと、これが「福島の総意」のごとく聞こえてしまう。福島の自治体もそうした声に引きずられてしまう。沖縄の自治体の都内デモ行進とどこかだぶって見えてくる。

沖縄の日本復帰後、日本政府は過去の悲惨な沖縄戦やアメリカ統治中の厳しい県民の苦痛に対して贖罪の意味を込めて政府指導で特別予算を組んで膨大な振興資金を沖縄に投入した。しかしこれが果たして沖縄の振興にどれだけ寄与しただろうか。目的自体は間違ってはいないが、中央のゼネコンばかりに資金が回っていったのは確かだ。結局県内の産業を活性化し雇用を促進し、県民所得を向上させるまでにはなっていない。福島に投入される復興資金も福島県民の雇用を促進し、県全体が活性化するものでなくてはならないと思う。

追記:高市自民党政調会長が「原発事故で一人の死者も出ていない」と発言。福島県党県連の抗議で発言を撤回。いまだだ鬱陶しい空気が日本を覆っている。沖縄の現状と変わらない。