粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

流行さえも見つからない

2013-06-09 12:14:02 | 一般

今年もAKB選抜総選挙なるものが、一部の熱狂の中行われた。今回はAKB以外のメンバーがトップに選出されてその点では意外性があった。やくみつるさんが「一種のねじれ現象みたいなもの。営業的にはうまくできたなという印象だ。」と語っていた。国民的関心事などと喧伝しても所詮営業でしかないということではないか。

CDが売れない時代にAKBは出す曲全てが、百数十万枚の大ヒット、同系列の地方ユニットも常にオリコンの上位を占める異常事態だ。しかし、これがヒット曲といえるだろうか。一部若い熱狂的なファンが選挙票の入ったCDを複数枚買って、贔屓のメンバーに投票する。こうしたファンの異常な熱気で選抜総選挙がヒートアップする。それが結局「営業的な成功」へと繋がる。

流行歌という言葉が死語になってからどれくらい経つのだろうか。今はベストテン番組というものが成立しない。聴く音楽が世代によって違うし、同じ世代でも趣味趣向が違い、好む曲が細分化している。好きな時にスマホやパソコンでダウンロードして一人で楽しむことが日常のライフスタイルになっている。家族で共通の曲で話題になることもない。

テレビドラマにしても、これは一緒だ。昔は30%を超えるドラマが多数あって、ドラマの展開が家族や友達の間ばかりでなく、メディアを通じて国民的な関心事になることさえあった。しかし、今は20%を超えるドラマは皆無に近い状態になった。これも趣味嗜好の多様化といえるだろう。

趣味の多様化とともにコミュニケーション手段の変化が大きいだろう。自分自身たまに電車に乗ると、車内やホームでスマホを見たり操作している姿ばかりが目につく。しかもそれが若者ばかりでなく働き盛りの40代50代にも及んでいる。

そういう点では電車内も静かになってきた。普通の会話をしている人たちが少ないのである。電車以外でも普段の会話というものが少なくなってきているのではないか。さらに電話さえもしない。相手に伝えたいことはメールで済ませる。言いたいことを入力しても直しが効く。また面と向かって話すよりも抵抗なく、簡単に発信できる。

家族や仲間内で直接会話もせず、メールで済ませると、聴いた音楽や見たドラマの感動を生身の感覚で相手に伝えることもない。感動を共感することがなかなかできない時代になってしまったのではないか。かくいう自分も同様で言えた義理ではないが。

一つの感動は直接の対話がないので濃密な共感とならず、共感が広がって一つの流行にもなっていかない。最近は年末になって今年は何が流行ったのか考えても思い出せないことが多い。事件事故は絶えず、頻発しても流行そのものがはっきりしない。あるのは営業的な成功ばかり、なんてことになってしまいそうだ。