粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

動機の純粋性について

2012-05-14 12:20:51 | 原発事故関連

池田信夫氏の5月13日のブログを読むと、日本人のひとつの価値観に付いて考えさせられる。池田氏が指摘する「動機の純粋性」だが、戦中の特攻隊を例に挙げている。軍上層部の命令でなしに、現場の隊員が「自発的」に申し出たために上官としても拒否できなかったという。「ここでは何のために戦闘を行なうのかという目的合理性が欠如し、命を捧げて全体に奉仕するという動機の純粋性が自己目的化している。」というわけだ。

要は目的よりも行動の熱意それも純粋なほどよいという価値観だ。しかし、与えられた目的が正しい場合にはすばらしい力を発揮するが、全体戦略を考える指揮官がいないと、暴走を止めることができない、ということになる。こうした情緒を重んじ空気は日本人特有のもので、現在も生きているとして橋下大阪市長の言動などその例に漏れないという。「(再稼働を求めるのは)守銭奴であって政治ではない」という発言だ。「エネルギー確保という目的よりも悪の象徴である原発と戦う『動機の純粋性』が重視され、他地域に電力を求める本末転倒の要求が出される。」

池田氏は橋下市長を例に挙げているが、もちろん最近の特に脱原発の風潮などをみると、随所にみられる。瀬戸内寂聴さんらの原発再稼働反対のハンガーストライキなど、作家としてあるいは宗教家として純粋性が前面に出過ぎていて違和感を覚える。核兵器も原発も同類の悪で許しがたいという動機ばかりが目につく。

あるいは山本太郎反原発活動家なども、レベルは低いがその典型だろう。反原発を唱えて芸能プロの退社を余儀なくされ、収入も10分の1になったと、半ば自分の決断を自慢げに吹聴している。あるいは以前雑誌のインタビューで最近テレビを見ても感動しないですね。彼ら彼女らの演技を見ても、歌を聞いても。そんなスタンスの人たちに愛が歌われても響かないですよ。本当の愛を歌っていない」(週刊金曜日)と答えている。まるで「おまえら、狭い芸能界でしがみついている場合か」と行動?しない芸能人を軽蔑するかのようだ。彼の現在はそうした「動機」のなせるわざといえるだろう。しかし彼が実際やっていることは「福島差別」以外の何ものでもない。池田氏のいう「動機の純粋性」の暴走は今も止まらない。