心の免疫力~書とことばから

もっと暮らしに書やARTを~
雲のように水のように あっけらかんと自在に生きるヒントを
求めて~ by 沙於里

あなたの生命が今あるためには

2008-01-31 | 
 
          

一昨日の絵手紙教室は、早々に終えて楽しいランチ新年会。
なので、何となく皆さんソワソワ。

そんな中、Hさんがどこかを整理していたら出てきたという、1枚の小さな
メモ書きを取り出され、そこには・・


  あなたの生命が今あるためには
  父母の生命が二つ
  祖父母の生命が四つ、
  祖祖父(母)の生命が八つ
  わすが三代前まで
  十六もの生命が必要でした


ということばが。たぶんお寺でのお話では・・と思うけれど、そして、
「だから今の自分を大事にしましょう」というようなことばが続き。

今の時代、核家族化で、祖父母と同じ屋根の下に暮らす家庭も少なく、
両親でさえ、仕事が忙しく家族の実感を味わえないなんてこともあるかもしれない。

当たり前のことのようではあるけれど、改めてこのことばを読んでみると、
続く生命の重さを感じ、たったこの事実だけを、なんとなく孤独を感じている時に
知ることができたら・・と。

自分は何のために生まれてきたんだろう・・と、答えを探して見つからず
途方にくれたり、無気力に悲観的になったり、破滅的な行動に走りたくなる衝動を
抑えられずに、悲しいことに他人や自分を傷つけてしまう人もいるかもしれない。

でも・・ 
きっと人は、何かの目的を持って生まれてきたというより、生まれてきたことに
意味があって、日々の出来事はおまけって位に思えたら、も少し楽になれるかな・・。

うちの猫やインコを見ていると、ふとそんな風に思えてきます。
毎日、朝起きたら「ごは~ん」「もっとおいしいのないの~」
昼間はほとんど寝ていて、夕方また「ごは~ん」。
時々、狂ったように部屋中かけ回り、気が済んだらまた寝て 

     

 


猫と人間は違う!って?
うんにゃ・・似たようなものでない ?って、私は思います。
・・っていうか、根っこはそれでいいんでない?ってね 






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時間を表現する文化

2008-01-30 | つれづれ
                          「賞花釣魚」
                     花を賞で(めで)魚を釣って楽しむ
 


日本の文化は、時間を表現する文化である。
~どこかで読んだ本の一節。

その本を読んだとき、西洋の文化との比較も書かれていたけれど、いまひとつ
理解まで到達しなっかったので、では西洋画には時間が流れていないのか?と
聞かれても、今はなんとも答えが見つからないけど・・。

でも確かに俳句にしても、日本画にしても、そこには四季折々の風景があり、
自然があり、日本人は自然と共に生きる民族とも言われている。

また、茶道や華道、香道、武道、書道・・と「道」のつく世界にも、「時間」は
重要な意味を持っている。

そこにある時間は、「結果」よりも「過程」が大事ということ・・かな。

茶道は、最後にお茶を頂くという目的があるけれど、お茶室の狭い空間で、
茶花を愛で、茶器を鑑賞し、所作の美しさに心を動かされ、
お茶をたててくださる方と、お茶を頂く側との間で共有する時間を楽しむもの
でもあり、きっとその時間を大事に思う気持ちが、日本の文化なのでしょう。

書道も同じです。書は本来、一次元のものであると。
油絵などは、1枚のキャンパスで何度も色を重ねては戻る、という二次元の世界。

書は、いつも一発勝負というか、一度紙に筆を置いたら、元には戻れない。
戻ったとしたら、それは「不自然」と表現される。

つまり書の魅力は、その瞬発力だったり、元には戻れないという時間の流れを
表現しているところ。
流れの中にいて、計算ではなく、偶然や必然のまま、前へ前へと進んでいるところ。

「賞花釣魚」の句は中国は宋史の句だけど、やはり日本の文化の元は中国。
同じように、自然の中で流れる時間を愛し、表現した文化だと思う。

こんな何でもない、たった四文字で、ゆったりとした時間を表現し、
またそれを受け取り、豊かな気持ちになれる文化の中に生まれたことに感謝 
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我は我 人は人にてよく候 ~山頭火

2008-01-29 | 山頭火・放哉・良寛
                          (はがき) 
         


最近ふと気がつくと、山頭火の句集をめくっています。
きっと今の自分に響くものがあるのでしょう。

生きていればとりとめのないことで悩んだり、自分から逃げ出したいことが
あったり、何もかもをリセットしたくなったり・・。

・ ・・な~んてこと、あります? 

私はどちらかと言うと、人の悩みは聞く方だけど、自分の悩みは人に言えない
タイプです。愚痴とかなら、日々言っちゃったりしますけどね。

外では普通に明るく振舞って、家に帰ると、自分で落ちるところまでとことん
落ちて、そこからじっと這い上がってくるのを待ってるって感じです  
そういう時って、元気のいい音楽は聴けないし、テレビもうるさく感じたり。

ただ待つというのも、ひとつの手です。
でも、やっぱり人間の命の本能として、どこかに救いを求めるっていうか、
暗闇に細く垂れるくもの糸みたいなものを、手探りで探してしまうってのもあり。

そうやって手繰り寄せたのが、私の場合、たまたま禅のことばでした。
す~っと気持ちにしみ込んできて、気持ちの色まで変えてくれたっていうか。

思えば、大学の頃のノートにも禅のことばは書き留められていて、
行き着くところに、辿り着いたのかもしれません。

悩んだら、人に相談するもよし。ぐるぐる悩み続け答えを求めずもよし。

けれど、自分にあった、自分が求める答えを導いてくれる世界を、自分で探す、
そうすると、目の前の悩みだけではなく、モヤモヤしていた全てが、
エアコンを入れると車内のフロントガラスの曇りがとれていくみたいに、
しゅるしゅるっと消えていくんです。

そしてひとつの答えが見えてくる。
我は我、人は人にてよく候。

頑なな世捨て人になるわけじゃなく、あっけらかんと悠々と。
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想(意識)の層

2008-01-28 | つれづれ
             
          

日曜日、常福寺での餅つき大会の後は、新年会でした。
ほとんど座禅会には参加していないのに、こういう時は喜んで参加  
Sさんが朝、市場で選んだアジ、イカ、ブリを調理。

 My包丁数本を使って、手際よくお刺身に(by S氏)


アジはたたきにして味噌少々とあえ、わけぎ、茗荷の千切り、そして頂く前に
卵の黄身と混ぜる。残念ながら、私は魚が苦手なので、目で食するばかり。。
ブリはプリプリの身で、和尚さんはじめ、口々にこれはすごい!旨い!
そのことばに誘われて、ブリの刺身初体験。 臭みも全くなく、これなら 

運良く和尚さんの隣の席が空いていたので、たくさんお話できて

何の話からか、和尚さんは 中川一政 の書が大好きだと。
ひょえ~! 私は中川一政さんの書展を見て、仕事も辞め書を始めたんです!
なんというご縁・・。
そして、中川一政氏の雅印(陶印)全てを焼かれたいう、小泉淳作氏 の話になり。

宴会をしていた和室の床の間には、時々に趣のある掛け軸が掛けられていて、
今はその小泉氏の、迫力ある龍の軸が飾れられています。

和尚さん、じゃあ特別に・・とおっしゃって、上棚から何やら箱を取り出され。
その小泉氏作の獅子の香炉でした。その表情はなんともかわいく。
(ほんとは写真撮りたかったけど、恐れ多く・・)

今年で84歳を向かえられる小泉氏の、作品集にあった写真を拝見すると、
白髪で、まさに天も地も地獄までも睨みつける龍のような風貌であられ・・。

けれど箱書きの「香炉 小泉淳作」の文字は、同じ人が書かれたとは思えない、
ストンと抜けていてしなやかなもの。  そこに作者の思いを感じました。

小泉氏は建長寺の天井画の龍を書かれたご縁で、和尚さんともご縁があり、
その先に大好きな中川一政氏がおられ・・。

そんな不思議なご縁のお話になり。
人には「意識の層」というのがあり、それはどこかで繋がっているものなのだと。
そして、どんどん好きなことだけをすればいいんだ、そうすると、
どこからともなくご縁が巡ってくる・・・と。

なるほど。意識の層が同じ人とは、説明しなくてもすぐに通じる想いがある。
どんな層にいるかを問題にするのではなく、それぞれに居心地のいい「層」が
あるということ。

そっか・・自分を信じて、ありのままに好きなものだけを選んで歩んで行けば
いいんだ・・って思えた。

今までは、どこかで人の目を気にしたり、何か違うって想いながらも無難なものを
選んできたけど、和尚さんのこのことばに、すごく勇気をもらいました。

また新たな一歩が踏み出せそうな予感。。
日々是感謝。

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煙の香り ~餅つき大会 at 常福寺

2008-01-27 | つれづれ
    

昨日は座禅会にお邪魔する常福寺で、餅つき大会と新年会でした。
寒いながらも快晴で、車で向かう途中、うっすらと雪化粧した丹沢山景が
空の青さに引き立てられて、堂々と佇んでいました。

気持ちいいなぁ。
やっぱり山が見える生活っていいものです。
今の家を探す時の条件の一つが、家からも山が見えること、でした。
朝、山並みが見えると、それだけで胸がす~っとして、元気に過ごせるんです。

実は、去年の餅つき大会以来、座禅会はご無沙汰だったのに、ちゃっかりまた
参加しちゃいました。
一年ぶりの再会にもかかわらず、緊張することも誰に気を使うこともなく、
親戚みたいな親しみやすさは、居心地がよく、楽しいひと時でした



    もち米10kgを釜で炊き→こね師匠のSさん→米をつぶし→
    交代でつき→きな粉、大根おろし、あんこ、納豆にまぶして。


にぎやかな声に誘われて、どこからともなく人も集まり、つきたてのお餅を
ほおばる、そのしあわせ感に、ついあれもこれもと、食べ過ぎ・・

途中から火守りをしていた私は、頭から鼻の中から全身、煙の香に包まれながら、
あ~こういう生活がいい・・ 地域の中で、生活の中で、生きていることを
実感しながら、体感しながら過ごせたらなぁ・・・と。

煙草のにおいは苦手なのに、煙の香はいいにおい!って思うのは不思議です。

1時に始まり4時過ぎまで楽しみ、その後は部屋での新年会の準備に。
今回は、お鍋と、Sさんご持参の豪華お刺身料理もあり、盛大に。
そのお話はまた明日・・・。

今日まだ鼻の奥から、煙の香・・。 何度も深呼吸してます 
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‘栗ご飯の素’が入っていた籠の一閑張り

2008-01-26 | つれづれ
                


いつか何かに使えるかも・・と、なかなか捨てられない私です。
お土産に頂いた、‘栗ご飯の素’のパッケージだった籠も、そのひとつ。

以前Eさんから頂いた一閑張り(←作り方が紹介されています)に感激し、
私も作ってみたくなりました。

一閑張りとは、竹篭などに和紙をちぎって何度もはり合わせ、その上から
柿渋を塗り重ねていくもの。 その後天日干しして出来上がり。
 

 ←こんな籠が→  
 
   左は以前「めかいの会」で習って作った竹篭。
   右は使い終わったネパール紙のカレンダーを使って作ったEさんの一閑張り。
   お盆として使ったり、お茶菓子や冬はミカンを入れたりしています。



水にぬれても安心で丈夫、味わい深く、柿渋は防虫効果もあるんです。
昔の人の知恵なんですね。

ただ、柿渋をたくさん塗ると黒っぽくなって、模様が見えなくなるので、
私は柿渋や塗らず、和紙をちぎって貼り、好きな中国は高啓の詩を。


「(渡水復渡水 看花還看花) 春風江上路 不覚到君家」

 水(川)を渡り、復(また)水(川)を渡り 
 花を看(見)、還(また)花を看(見)
 春風のそよ吹く川沿いの路を歩くうちに
 いつの間にかあなたの家に着きました


捨ててしまえばそれまでだけど、こんな風に生まれ変わって、生活の中でまた
使えるのも、なかなかいいものです 

そういえばこれ、あの方のお土産の・・なんてことも思い出したり。
ありがたいなぁって気持ちが、いくつも増える感じです。

わりと簡単にできるので、この週末にでもいかがですか~?
籠は100円ショップでも、和紙はちょっと大き目の文具店ならあるかも。

柿渋は、ホームセンターのペンキ売り場あたりでも売っています。
独特のニオイがしますけど。 500mlで1000円はしなかったと思います。


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お礼状~結心さんへ

2008-01-25 | つれづれ



高校3年間は、ブラスバンド部一色の生活だった。

そのクラブが、全国大会で連続金賞受賞とは知らずに、音楽がやりたいという
思いだけで、勧誘されるまま入部。私はクラリネットをやることに。

早朝練習に始まり、選択科目でブラスというのもあって、放課後はもちろん、
土日も、春・夏・冬休みも、朝からほぼ毎週、毎日、練習、練習だった。
家族よりも長い時間をブラスで過ごし、毎日、「音楽」の中で暮らしていた。

でも辞めたいと思ったことも、辛いと思ったことも一度もなかった。

何の利害関係もなく、ただ、がむしゃらに夢中になることなんて、
あの時期にしか経験できないことなのかもしれないなぁ・・。

そして、人生の中で、濃厚で密度の高い時間だったなぁ・・と、最近つくづく。
仲間がいたから頑張れたし、明確な目標があったから、疑うものは何もなかった。

あのワクワクする思いは、どこへ置いてきてしまったんだろう。。
まっすぐ前だけを見て、信じられた気持ちは、年齢と一緒に年を取るのだろうか。

同期でフルートを吹いていた結心さん から、ある日、こんなの見つけたよ~!と
クラリネットのストラップが届いた。

「あっ」・・・忘れてた。 
私達には、あの時間があったね 

このストラップを見るたびに、あのまっすぐな思いを思い出せそうな気がします。
結心さん、いつもありがと。


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人生まだまだ楽しまなきゃね!

2008-01-24 | つれづれ
      
 

陶天真(てんしんをやしなう)
世を避けてその心を養える人をいう、とある。 「陶」は「養」の方言(中国語)

書も絵手紙教室も、平日の午前中が教室ということもあってか、
子育ても終わった女性、そして夫婦水入らずの生活をされている方も多い。

時々、日々のストレスの原因についての話題になることも。
たいていは「夫婦の気持ちのずれ」によって、イライラするというもの。

ゴタブンに漏れず、うちの父母を見ていても、同じようなことで
つまりは、どこも似たようなものってこと 
でも、吐き出すことで、なんだ・・私だけじゃないんだって思えて、
少しは楽になれるのかな・・。 しばし、みんなで大笑い。

年を重ねると、体力は落ちる。 そして、やさしさも年をとるらしい。
長年一緒に暮らしていると、お互い甘えもあったり。

住宅のCMのコピーじゃないけど、夫婦に「ちょうどいい距離」っていうのは、
確かにあるんでしょうね。。。  確か・・3mでしたっけ?

陶天真。
世を避けて暮らすわけには行かないので、ひとつ屋根の下で仲良く気持ちよく
暮らすには、お互いにとってちょうどいい距離を見つけるっていうのは、
ほんと、大事なのかもしれませんね。

お互い、こうあるべきだ!はやめて、干渉しすぎず、求めすぎず、聞き流す程度に。
普段は、それぞれ趣味や好きなことをして、困ったときに助け合える、
子育ても終わった夫婦水入らずには、その方がうまくいくような気がします。

無理に好きになる必要もないし、今以上にキライになることもなく。

それが、なかなかできないのよね・・って永遠に言っていたら、苦しいのは自分。
相手を変えようと思ったら、まずは自分が変わらなきゃ・・・ね。

人生は、自分を楽しませるもの。
自分で自分の首を絞めて、がんじがらめの自分にしないように、
もっと楽に、おおらかに、肩の力を抜いて、鼻歌でも歌いながら生きませう。

つい忘れちゃうから、「ま、いっか」「イライラするのはもったいない」って口にしてね!
人生、まだまだ楽しまなきゃね!
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片岡球子の熱き挑戦

2008-01-23 | つれづれ
              「めでたき富士」(1991) 72.7×161.7cm



2000年、横浜美術館で観た片岡球子展から8年。(写真は全て図録より)
片岡球子といえば、独特な富士山が有名。

当時でも95歳だった片岡さんの絵の画面からの印象は、ドッカーンという
とてつもない強さと、人間としての懐の深さだった。

作品の大きさも、おとといの書どころではなく、一番大きいもので、四曲屏風一隻
197.0cm×455.0cm!

そして、色彩の豊かさ、生き生きと躍動感溢れる造形、「自由」の持つ破天荒で
豪快なエネルギーに、ただただことばを失った。


     
    初期の頃の「炬燵」 (1935)        60歳の頃の「桜島の昼」(1962)
  

片岡さんは、女学校卒業後は小学校、中学、高等女学校の教師をしながら、
画家としての修行を始められたそう。

しだいに認められ始めた頃、日本画家の小林古径 は、「あなたの絵はゲテモノに
違いありません。しかしゲテモノと本物は紙一重の差です、あなたはゲテモノを
捨ててはいけません。あなたの絵を絶対に変えてはなりません」と語ったという。

さらに「手法も考え方も今のままで、自分の絵にゲロが出るほど描きつづけなさい。
何年かかるかわからないが、必ず自分の絵がいやになるときがきて、
そこから薄紙をはぐように絵は変わってくる」と。

  面構 足利尊氏 (1966)


そうだ・・そうなんだ!
描いて、書いて、もうこれ以上は何も出ないっていうくらいまで吐き出すと、
喉に詰まっていた飴玉がポロッとでるような瞬間を味わえるのかもしれない。

そんな風に、何かに情熱と命をかけられたら。。。
しかも片岡さんは当時95歳でも・・だ。


 どこか私の大好きな社長ちゃん に似ている・・


図録にあった、横浜美術館学芸副館長の武田厚氏の解説を抜粋してご紹介します。

 ~片岡作品の「強さ」の支持体は、「我の表現」以外何ものでもない。

「我の表現」とは言うまでもなく画家の「自由」を意味するもの。
その自由が画家の資質を発芽させ、醸成させたのである。 したがって「強さ」とは
強さの表現を意図したものではなく、結果として現れた「強さ」にほかならないのである。

つまり、資質の強さと、表現者として与えられた自由という特権を惑うことなく駆使してきた
精神力と、この二つの強さから、展開される「自由」が生じさせる結果の「豊かさ」なのだと。

自由でいるためには、強くなければならない。
そして強さとは、他を寄せ付けない頑ななものではなく、むしろ他をも許容し
解放するものなのだろう。

自由と勝手とは違う。
勝手とは、弱さの裏返しでもあり、本当の自由とは、強いということなのかもしれない。

片岡さんの絵を観ていて、自由とは・・「豊か」ということだと思った。

お会いしたかったなぁ・・
片岡球子さん、そして中川一政氏、小倉遊亀さん 三岸節子さんにも。

昨日の新聞で、知った。
1月16日、片岡さん死去。103歳だったそうです。
ご冥福をお祈りしつつ。。
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書展巡り③ 伝統の書と現代の書

2008-01-22 | 書展・展覧会情報
                   亀甲展 ~上野の森美術館
           


昨日のつづき。。
六本木から上野の東京都美術館で開催中の書海社展へ。


 
公募部門の受賞者名がはり出された
あたりは、すごい人・人・・
   
    
       宮山一琴さん               石川芳雲先生


これこそまさに伝統の書、基本的な書展・・。
縦書き・漢詩・行草(行書・草書)、行草!とにかくほとんどが行草・・!

右も左も、親戚同士のような作品の数にも圧倒されつつ、私達の教室の
展覧会には、超多忙の中いつもお越し下さる宮山さん、石川先生の作品は、
不思議と目に留まり。

1000回記念展ということで、創始者の松本芳翠展と回顧展もあり、母の最初の師
櫛淵蓬山、中平南谿両先生の作品も見つけた。
ただ残念なことに松本芳翠はじめ、物故者の作品の保存状態はあまり良いとは
言えないような・・。

         
  真ん中が櫛淵蓬山先生              中平南谿先生
  

この伝統の継承も、書のひとつの道なり。
鍛錬、修練、ひたすら臨書を学び、礼儀正しく綺麗な字を目指す会なり。

久々に伝統的な書を拝見した後は、歩いて10分程の上野の森美術館へ。
途中、丸々と太った猫に遭遇。凛とした美しさに思わずシャッターを 


 


猫としばし和んでから、亀甲展へ。

       
                        額ではなくパネルが効果的


こちらは主に甲骨文、金文などの古代文字を借りて、現代的に表現する会。
主宰の加藤光峰氏は、一度、書家の桃太郎氏の個展にお邪魔した時に
お目にかかったこともあり、お人柄の良さがにじみ出た笑顔が印象的。
以前、キリンビールのCMで高島政伸の義父役としても出演されていた方。

それにしても、今、書はこんなにBIGサイズになっているのか~?
でも、これなら鉄筋コンクリートの現代建築の空間にあっても、
その存在感といい、アートと言っても納得できる!

         
  

加藤氏の多くの作品には、古代文字にローマ字を添えることで、互いが共鳴し
よりインパクトを与えているよう。
興味のある方は「墨」156号/芸術新聞社 でも紹介されています。

加藤氏曰く「書は、作者の精神的響きの譜面、楽譜を読み取る目を養い、
音を奏でるために、臨書が絶対に必要」と。

こんな絵のような字だったら、私にも書けそう・・! さにあらず!
この造形力、表現力は、お習字の手習いではとても養われない。


一日に3つの大きな展覧会は、足腰にかなりこたえたけれど・・。

やはり、まずは臨書!臨書を重ねて重ねて、その上での自己表現ってことですね。

あ~。もっと勉強がしたい。しなきゃ・・・。
ひたすら臨書していられたらなぁ・・








   
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