心の免疫力~書とことばから

もっと暮らしに書やARTを~
雲のように水のように あっけらかんと自在に生きるヒントを
求めて~ by 沙於里

写経会

2007-09-30 | つれづれ


昨日は母と、東京新聞ショッパー社主催の写経会に初めて参加させて頂いた。
小雨の降る中、こんなところにあるの?と思いつつ、静かな雑木林を抜け、
奉納された赤い幟がはためく参道を行くと、ひっそりと佇む福王寺薬師堂が見えてきた。

写経会は、古くてりっぱな本堂で厳かに行われた。
丁度雨に湿った土と草の香りも心地よく、静寂の時と空間に、自然と正座をして
五感がゆっくりと深呼吸をしていた。

ご住職様から写経の進め方のご説明を頂く。
あたたかい笑顔のご住職様が、頭を深々と下げられる姿に胸が熱くなり、
なぜか目頭が熱くなった。

「速さや上手さは問題ではありませんよ。人は人、我は我ですからね、
焦らず自分のペースで、ごゆっくりどうぞ」と。
小さな丸硯の上で墨を磨り、下敷き代わりの般若心経が印刷された紙の上を、
丁寧に写経していく。

私は書の会に属していた頃は、毎年春に行われる写経会に参加していた。
そこではいつも、参考作品として、自由な般若心経作品を提出していた。
だから、こんな風にきちんと書いたのは、たぶん人生で二度目。緊張した。

書き終えた写経は、高野山に奉納して下さるとのこと。
そして、高野山に写経を送った枚数ごとに、10巻分で心経お守り1体、
50巻分で白檀片手念珠、100巻分で弘法大師御影軸が頂けるとある。
なんだか、子供の心のようにワクワクしてためてみたくなった。

今日は、高校時代ブラスの同級生だったはっちゃんの命日。
彼女は24歳の若さで天国に召された。 時を経ても、今日の日を忘れたことはない。
彼女はクリスチャンだったけど、今年も心を込めて、これからまた写経します。
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月白風清

2007-09-29 | 書の話

月白く風清し。

漢字のすごいところは、たったこの四文字だけで、温度や湿度といった空気、
明るさ、匂い、そこに流れる時間といったものを連想させ、人それぞれに情景を
思い描かせることができるということ。

一文字一文字にも意味があり、更にその一文字も人によって感じ方も千差万別。
「月」と言うと、まずどんな月を思うか・・。今の季節はやっぱり満月だけど。
雲は出てる? 星は? 都会の空か山里の空か、まわりの景色は・・?

今回は、半月くらいのお月様が、秋の清かな風にちょっと照れながら
「あ、こんばんは」って白い笑顔で微笑んでいるイメージで書いてみた。

そう考えると、自分の引き出しに、いろんな経験や感激を持っていないと、
想像力も乏しくなり、つまりはこの四文字から広がる世界も、狭くなる。

どんな「月」をどれだけ思い浮かべることができるか、
そしてそれをどう表現していくのか、そこに書の無限の面白さがあると思う。

今日は生憎の雨。
でも、月の姿は目に見えなくても想うことはできる。
こんな日は、月もどこかで一杯やってるのかな。

無限の書の可能性と、人との関わりの妙も似ているような気がする。



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李白の詩

2007-09-28 | 漢詩


兩人對酌山花開  両人対酌すれば 山花開く
一杯一杯復一杯  一杯一杯、また一杯
我醉欲眠卿且去  我酔うて眠らんと欲す 卿(きみ)しばらく去れ
明朝有意抱琴来  明朝意有らば 琴を抱いて来たれ

だいたいの意味はこうだ。
友と二人向かい合って酒壷から酒をくんで飲んでいると、山の花々が開いた。
一杯、一杯、また一杯。
私は酔って眠くなってしまったから、きみはもう帰れ。
明日の朝、気が向いたら琴を抱いてまた来たまえ。

李白は、中国はもとより世界においても、東洋人の詩人の中ではもっとも
ポピュラーな詩人なのではないだろうか。
彼の詩は大きく分けると、花、月、鳥、山といった自然を題材にしたものと、
人生について書かれたものとに分けられる。

李白は、人生が有限であることを愁いていたのに、どこか人生観は明るかった。
酒を愛し、友を大事にし、仙人を慕い、人生を夢想していた。

そんな彼の人柄を感じるこの詩は、どこか人生に哀愁を感じながらも、
また気が向いたら、一緒に飲んで語り合おうという人なつこさと、
実現しなくても絶望したりしないところが、おおらかで微笑ましい。

そして、人生には悲哀はつきものだけど、そんなに捨てたもんじゃないさって
自分に言い聞かせつつ、私たちに語りかけてくれているような気がする。

昨夜の月も、まだまん丸で美しかった。
テレビもいいけど、たまには秋の虫を聞きながら、李白の詩を味わいつつ
一杯また一杯なんてのも、粋かも。

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秋風に 黙して揺れる 彼岸花

2007-09-27 | つれづれ



お彼岸の今頃、あちこちで彼岸花が咲いている。
子供の頃、彼岸花は墓地にしか咲かない何となくこわい花というイメージがあった。
あの朱色には尋常じゃない自己主張を感じ、姿も妖艶で、
魔界かどこかに連れていかれそうな気がしていた。

現に彼岸花の球根には、リコリンという毒があるそうだ。
かつてお墓は土葬だったので、その毒を利用して動物によって
掘り荒らされないようにと植えられていたらしい。
だから、墓地には一面の彼岸花という風景が広がっていたわけだ。

でも調べてみると、彼岸花の球根にはデンプンが含まれていて、
水にさらしてすりおろして食用にしたり、
炎症・腫れものに効く漢方薬や民間療法、そして防虫にも使われていたそうだ。

また別名が多いというのも、面白い。
「曼珠沙華」が一番有名だけど、他に、有毒だからかシビトバナ、
シビレバナ、ドクバナ、ユウレイバナ、キツネノタイマツ、キツネノシリヌグイ、
ハヌケグサ、ヤクビョウバナ、ステゴバナ、カエンソウ等々
1000余あるとも言われているそう。

彼岸花の知らないところで、勝手にいろんな呼び名を考えてくれるものだなあ。
人間が勝手に忌み嫌っているのをよそに、秋の風に揺られている姿は、
どこか凛として美しい。

ここで一句・・・
「秋風に 黙して揺れる 彼岸花」

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悠々(ゆうゆう)

2007-09-26 | つれづれ


所沢にあるポンデザールのアーティストたちというカフェギャラリーでの
二人展の時の出品作品(O様所蔵) (カップはちぎり絵:柿渋紙に彩色したもの)

お店で、挽きたての珈琲を淡々と入れていらっしゃる、ちょっと野武士の
ようなマスターと、月夜に遊ぶフワフワのうさぎさんのような奥様との、
隅々までにセンス溢れる空間は、なんとも居心地がよく、
時間の流れも悠々としていた。

やっと少し涼しくなってきたことだし、日々横着して忙しがってばかりいないで、
思い切っていらないものは捨てて、自分なりに居心地のいい空間を演出して
お気に入りのカップで、美味しい珈琲でも飲みたいなあ。。。

大好きだった書のお仲間の女性が私に下さったことばを、ふと思い出した。
「日常こそ、自分の未来を創るのよ」

誰も気にしないつまらない日常の積み重ねが、知らない所で自分を作っていく。
意識した自分は本物じゃなくて、無意識の中に自分の本質が見えてしまう。

どんな自分でもいい。我がままでも頑固でも、お人よしでも。
ただ、なんでもない日常が、自分の未来へと導いていくということ。

それぞれの日常。そしてそれぞれの未来。
私は怠け者だから、どんな未来が待っていることやら。。。 少々冷や汗。。
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「未起の者は放 起こせんことを要せざれ」

2007-09-25 | つれづれ


禅のことば。
「既に起きてしまった念や思いは、それ以上発展させないように心から放ち、
まだ起こっていないことをあれこれ心配しないこと」という意味。

つまり、考えてもしかたのないことは、くよくよ悩むでないってこと。
仏教では、本来私たちの心は太陽のようにキラキラしていると。
でも、色々な妄想を呼んで、せっかくの太陽のような心を傷つけるのは、
周りにいる誰かではなく、実は自分自身だと。

脳は実際、心を痛めたり暗い感情の中にあると、傷つけられるそうだ。
そして悩んでばかりいる人の脳細胞は、どんどん死滅して認知症になりやすいらしい。
心が傷ついたり悪いことに囚われると、思考能力は落ちてしまうってことかな。

禅では、「今」を大事にと説いている。
それは「今」を一生懸命まじめに生きよ、なんて言う重たい、
もっともらしい教訓ではなくて、「今」を受け入れ、楽に淡々と過ごしていれば、
不思議と悩みに暮れることもないのでは、という意味かなと、私は勝手に解釈している。

うちの猫が虫をくわえて自慢げに見せにくる時の顔は、虫には申し訳ないけど、
実に生き生きとしている。
まさか人間は、虫とは言え余計な殺生はできないから、たまたま散歩中に
実の詰まった美味しそうな栗を見つけたら、「おっ!めっけもん!」って、
ご機嫌になれたら、それでその日はしあわせってもんさね。

大事なことは、意外とそんな身近にあるのかも。
そんなしあわせを探す、日々是好日。
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望雲(ぼううん)

2007-09-24 | つれづれ

望雲は、故郷の父母を想う気持ちを意味する。

故郷がある人は羨ましいなぁと思う。
お盆やお正月には故郷に戻り、親戚や幼なじみに会いお墓参りをしたり。
変わらない人や風景に和み、癒され、普段とは違う自分を感じたり。

人はどこかで、誰かとつながっていたいと思っているのかな。

命あるもの、形あるものはいつかはなくなる。
そうわかっていても、時々不安でたまらなくなることもある。
いつも行く街を歩いている時、ふとついこの間までこの通りを歩いていた人が、
今は居ないんだと思うと寂しくて、もっとお話がしたかったなって思ったり。

誰かが言っていた。
人の死は、その人が亡くなった時ではなくて、人の記憶からその人の思い出が
完全に消えた時なんだって。

故郷の父母を想う望雲だけじゃなくて、私たちはふとした時に、
それぞれの望雲の思いを抱いているもの。

そういえば、昨日はお彼岸。
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しんにょう五変化

2007-09-23 | 書の話

時々ふっと、こんな遊びをする。
分厚い書道辞典をぱっと無造作に開いて、今日は「しんにょう」遊び~って。
ハガキに細い筆で書いたから、ちょっと弱いけど。

左上から:遮 逃 中段:道 下段:遅 途

「遮」は、遮る感じだから、しんにょうは直線的に
「逃」は、まさに逃げてる感じに
「道」は、普通は長く伸ばすんだろうけど・・
「遅」は、遅れちゃってごめんなさ~いって
「途」は、道の途中で止まっちゃってる感じで

木簡や隷書、造像を見ると、しんにょうは実にたくさんの表情を持っている。
あれ?そんなところで終わるの?っていうくらい短いのから、
恨みでもあるの?っていうくらい、粘っこいしつこい長さのものまで。

え?そんなんでいいんだ?って思わせるのが、木簡や隷書、造像の文字たち。
見ていて、微笑んじゃう。いいね~君たち、自由で!って。
一人で、しんにょう如きに話しかけたりしている。

人はつい自分と似たような人を探したがる。
「同じ」ばかりを求めて「違う」を見つけると拒絶したり、時には非難したり。

それはもったいないって思っちゃう。
だって自分とは「違う」から、新しい自分にも出会える。

「同じ」を前提に人と向き合うのではなく、
「違う」を前提に、こんなに「同じ」を探そう。

しんにょうの美しい(正しい)と言われるポーズは、ひとつかもしれない。
でも短くても、踊っていても、しんにょうは、しんにょうなのだから。
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あとは野となれ 山となれ

2007-09-22 | つれづれ


「目先のことさえすんでしまえば、後はどうなろうとかまわない。」 (A様所蔵)
どちらかと元々はあまりいい意味ではないよう。
似たような意味に、旅の恥はかき捨て、明日には明日の風が吹くなんてのもある。

でも私は、この力が抜けた感じが好き。
投げやりにもうどうでもいいや~っていうんじゃなくて、何事もご縁、
来るもの拒まず去るもの追わず、なるようにしかならないんだしっ・・てね。
どこか開き直って、いいこともいやなことも受け入れられたら。。。
くよくよしてもどうにもならない事もあるし、考えれば考える程苦しくなることもある。

最近よくテレビでも聞く沖縄のことば「なんくるないさ」(なんとかなるさ)を
いつもどこかにぶらさげて、下駄履きで出かけたいものさね。
すれ違う人と、笑顔で挨拶を交わしながら。

なんくるないさ~。
あとは野となれ 山となれ~。

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心如鐡石(心鉄の石の如し)

2007-09-21 | つれづれ


心が鉄の石のように固いこと、という意味。
それは、それほど意志が強いととるのか、かたくなな心と解釈するのか。。

年を重ねるごとに、心は固くなりがち。
人の意見や批評をまともに受けると、吸収ではなく拒絶に入ってしまうこともある。
かく言う私も、できれば非難する人よりも褒めてくれる人のそばにいたいって思っちゃう。

もちろん、こうして書いているのは自分が正しいわけでもなければ、
その全てを実践しているものでもなくて、こうありたいなあという自分を、
日々書くことで自分自身に問い、改めて確認しているに過ぎないわけで。
完璧も完全もあり得ないもの。
結局はそれぞれが、自分に向き合って問うしかない。

心は生き物だから、日々変化する。
また相手によっても、優しい心になったり、冷たい心になったりもする。
お互いの波長が違う時、あるいは逆に近すぎる時、心は乱れることもある。

心が固くなる時、それはたとえば自分に自信がない時。
それを見透かされて指摘された時に、心の扉は一気に閉じてしまう。
時には相手に反撃を加え、さらに自信がなくなるってこともある。

だからこそ、自分を大事にしなければならないのかも。
自分を信じて、どんな生き方であっても一生懸命であれば、心は柔らかくいられる。

誰になんと言われようとも、心をかたくなな鉄の「石」にすることなく、
「意思」の強い、やわらかい心でいられるような気がする。

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