心の免疫力~書とことばから

もっと暮らしに書やARTを~
雲のように水のように あっけらかんと自在に生きるヒントを
求めて~ by 沙於里

いろは歌

2007-08-31 | つれづれ


いろはにほへと ちりぬるを  
わかよたれそ  つねならむ  
うゐのおくやま けふこえて  
あさきゆめみし ゑひもせすん      (T様所蔵)

この47文字は、1文字も同じものを使わず、実はふかーい思想を
詠みこんだ歌だそうです。
平安時代末期に流行したと言われ、涅槃経の
「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」を表すと言われていて、
改めて意味を調べてみると・・・

色は匂へど 散りぬるを
 色美しく香を放ち咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。
  →諸行無常(しょぎょうむじょう)

我が世誰そ 常ならむ
 この世に生きる私たちも、永遠に生き続けられるものではない。
  →是生滅法(ぜしょうめっぽう)

有為の奥山 今日越えて
 この無常の、迷い多き奥山を今日乗り越えて
  →生滅滅己(しょうめつめつい)

浅き夢見じ 酔ひもせず
 悟りの境地に辿りつけたなら、もはや儚い夢を見ることなく、
 現世に酔うこともなく、安らかな心境である。
  →寂滅為楽(じゃくめついらく)

とありました。

書では手習いの手本として身近な存在であり、魅力的なモチーフでもあります。
北大路魯山人、高村光太郎、棟方志功、勅使河原蒼風、上田桑鳩、桑田笹舟、
大澤竹胎・・それぞれに個性的で、何度見ても、いいなあって思います。

さてと。
この八月一日から毎日、一日一書を目標に一ヶ月、頑張ってきましたが、
明日からは早くも九月。
夜は虫の音に変わり、少しづつ秋めいてきました。

九月は書的に、まずは大好きな木簡のことを綴ってみたいと思っています。
時々のぞにきてやって頂ければ幸いです。












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山(照明)

2007-08-30 | つれづれ



和紙に書いて、市販の照明器具のパーツを組み立てて作ったもの。
「山」という文字を遊んでみました。裏には「林」の文字。(K様所蔵)

書というと展覧会場で観るものと思っていたり、何が書いてあるか
よくわからないし、部屋に飾るには、色味もなくてピンとこない・・
という方も多いと思います。

でも書も表具や題材を選べば、洋間にもマッチする作品にもなるんです。

子供教室では、まずは墨や筆に慣れてもらいたくて、100円ショップでも
売っている部品を使って時計や、籠に和紙を張って張子にしたものに文字を
書いたり、うちわ、レターセット、Tシャツやカレンダーなどなど季節ごとに
使えるものを作ったりしています。

書の道も奥は深く、終わりなき、果てのない道。
毎日の半紙のお稽古は、自分は本当に進歩しているのか不安になったり、
学べば学ぶほどに自信がなくなったり、地味で根気と集中力のいる作業です。

なので、たまにはこんなお遊びをしてみると、書の楽しみ方が変わるかも。

今日はすっかり秋の気配。
自分で作った照明で、秋の夜長を楽しむのもいいもんですよん。
自画自賛、日本人の美徳に反するかもしれませんが、意外といいもんです。






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忙中閑(ぼうちゅうかんあり)

2007-08-29 | 漢詩


忙しい中にも一時の閑(しずけさ)を という意味。
ふと思いついた習作ですが。。

時は移り、世の中は変わっても、自然の中の青山はそのままで変わらない、
人は皆、忙しがっているけれど、自然の山はいつも閑(しず)かなり。

私の書の師匠が、よく言われたことばです。
私も含め、仕事が終わってから夜遅くに先生のお宅に伺う方も多く、
思うように勉強が進まず、つい忙しいから・・と言い訳やら弱音を吐くと
励ます意味も込めてか、ひとこと「忙中閑」と。

「忙しい」という字は、「心」を「亡(うしなう)」と書きますが、
忙しい時こそ、心静かに閑(しずけさ)を大切にしたいものです。

友達と喧嘩をした時、いやなことがあった時、信じていた人に裏切られた時、
悲しくてたまらない時、悔しくて苦しい時、弱った追い詰められた心は
ついマイナス思考になりがち。
考えれば考えるほど、ぐるぐると思考はどんどん悪い方に向っちゃう。

そんな時に、このことばを思い出してみて下さい。
本当に心を失ってしまう前に、ふと我にかえって自分の心を呼び戻せるように。



*作品中の赤い四角は、ここら辺に雅印を押す のしるしです。
 教室では時々、この四角まで習って書いてくる大らかな方もいて・・和みます。
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三省(さんせい)

2007-08-28 | 論語


論語の「吾、日に吾が身を三省す」より。
一日に三度、人に忠、友に信、学に習の三点を反省しましょっ という意味。

そうは言っても、なんだか毎日気ぜわしくてなかなかできないもんです。
でもふと思いました。
反省することも大事だけど、一日に三度反省しようとするほんの短い
その「時間」が大事なのかもって。

絵手紙教室と書道教室どちらにも、遠路はるばるいらして下さっている
Eさんは「一日に百回、声に出して感動する」がモットーだそうです。

Eさんとの出会いは、有難い不思議なご縁でした。
以前私が、ある雑誌に紹介されたことがありました。
たまたまその雑誌をご覧になったEさんは、私ごときに会いたいと念じて下さり、
巡り巡って偶然、年に一度しかないある写経会でお会いしたんです。

その時、初対面にもかかわらず「あ~あなたにお会いしたかったのよ~」と
言って抱きしめて下さいました。
その出会いをきっかけに、もう12年のおつきあい。感謝感謝です。

一日に三度の反省もよし。
一日に百回の感動もよし。

どちらにしても、改めて心に決めて実行してみると、よき出会い、
思わぬ発見や感動にも出会えるかもしれませんね。


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憎まれっ子世にはばかる

2007-08-27 | ことわざ

本来の意味は「人に憎まれるような人間が、かえって世間では威勢を
振るうものだ」とある。(大辞林)

今の日本の政治や企業倫理にも、まさにこのことばが当てはまる。
いや・・時代劇を観ていると、昔から政(マツリゴト)と民(国民)の関係は
ちっとも変わってない。
憎まれっ子が世にはばかるのは、世間がそれを許しているからでもある。

それにしても現代は、残念なことにごく自然に人を信じる、許す、
さりげなくいたわる、思いやるといった古きよき時代の日本の文化が、
どんどん失われて行っているような気がする。

個人情報ということばだけが先走り、信頼という何にも変えがたい人と人の財産が
奪われていく今、私たちは何を一番大事にすべきなんだろう。
変わらぬ歴史を変えていくには、憎まれっ子をただ漫然と世にはばからせて
ばかりではいかんのだ。

だけど、はてな。
では何をすればよいのか?

まずは知ること。自分で考え、選べるだけの知識と技術を持つべし。
それは何も政治に限ったことではないわけで。
マンネリ化した自分を変えるにも、まずは自分に関心を持つべし。

自分がわかれば、他人も見えてくる。
自分を大事にできれば、他人も大事にできる。

世の中は共存し、関係しあっている中で成り立っているということを信じて、
一人一人がお互いを大事に、信じる心を持っていられたら。
憎まれっ子にはない、あっけらかんと底抜けの明るさを携えて。

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阿吽(あうん)

2007-08-26 | 禅語・般若心経



梵字の最初の阿と最後の吽。
「阿」は口を開いて出し、「吽」は口を閉じて出す音声であり、
密教ではこのニ字を、万物の初めと終わりを象徴するものとしていて、
悟りを求める菩薩心と、そこに到達する涅槃のことでもある。
仁王様や狛犬など、相対する二つのものを言ったりする。

子供の絵や書がすごい力を持っているのは、この阿吽の呼吸が
自然と本能的に発揮できているからだと思います。
大人の書は学べば学ぶほどに「恥ずかしくない」を意識するから、
心が緊張して自分からどんどん離れていく。

阿吽は、むしろ無意識裡に発現され、無心の発現であると思う。
「私なんか・・」という心からは、阿吽の呼吸は生まれない。

どんな自分でも今ここに在るという真実を、自分自身が許すことから始めよう。
そこから新しい自分をつかみ直す、その感触が自信を生み、
逃げずに重ねていくうちに、阿吽の呼吸は自然と自分の中に芽生える。

人と人、相対するものにばかり気を取られて苦しむ前に、
自分の中の二つの自分と、吸って吐く、阿吽の呼吸を整えよう。
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無垢(むく)

2007-08-25 | つれづれ

無造作なものが好き。
物も人も。
必要以上に作られたものには、体温がないから。

どこかにコンプレックスを持っている方がいい。
そしてそのコンプレックスを自覚した上で、隠さず言える方がいい。

相手は自分の鏡らしいです。
相手の嫌な部分が見えるのは、自分にもそういう面があるってこと。
相手を信じられるのは、自分に疑うという心がないから。

無垢ということばは、もともとは仏教のことばです。
煩悩のけがれから離れ、純真でうぶなさま。

煩悩から離れるのは、一生かかっても無理そうだけど、
ずるい、弱い、怠け者、羨む気持ち・・等々、せめてそれらは自分にもある
という悲しい?事実を認めるくらいは、できるかな。。

無垢な心~
う~ん。いい響き。
あ~ん。大人になるともう、初心(うぶ)なさまは戻ってこないのかなあ。

無垢な心をもう一度・・・それには日々是精進あるのみですね。















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我逢人(がほうじん)

2007-08-24 | 漢詩


我、人に逢うなり。

今は残念ながら廃刊となりましたが、当時、文化出版局から創刊された、
季刊「銀花」別冊 手紙 という雑誌がありました。
その雑誌で初めて出会った、相田みつをさんのことばにも
「そのときの出逢いが人生を変えることもある。よき出逢いを」
ということばがあります。

その雑誌は、編集長の今は亡き細井富貴子さんや、スタッフの方々の
並々ならぬ熱い思いを感じる「ことばと字と絵の雑誌」でした。
最初の頁には、

みんな一生懸命生きているんだよなあ。
胸の中で、せつなく思っていること、字や絵や写真にして
それをあげたり、もらったり。
(あげなくてもいいの。自分で持っているだけでもいいのよ)
そんな人間の思いを、ほら、一冊の雑誌にしてみました。

と書かれていて、130頁以上もあるのに、その頁を表す数字は、ひとつひとつ
誰かの文字を使っていて、書いた人の名前が横に活字で印刷されていたんです。

そして最後の頁には、手紙ごっこをやりましょう とあり、読者からの
思い思いの手紙、はがきが掲載されていました。

その片隅には、字だけの手紙でもいいんです。手紙くださったら、編集者からも
必ずお返事書きます。じゃんじゃん書きます。印刷の手紙なんかじゃありません。
腕さすって、待ってます。 と。

なんだか半信半疑で、でも面白そうって思って、早速私も手紙、書きました。
ちょうど中川一政さんの書に出会った頃です。いわゆる絵手紙なんて、
まだない頃です。(この雑誌がきっかけにもなったんだと思います)

そしたら、ほんとにすぐに届いたんです。細井さんから。
「てがみごっこしましょ」の手書きの文字のはがきが。
更に更に、あなたの数字が次号の29頁に使われますとあり、ワクワク
ドキドキしたのを覚えています。

この手紙ごっこをきっかけに、私は下手くそな絵と文字を組み合わせた
いたずら書きを始め、書を本格的に習い始め、郵便局主催の書と、
当時ちょっとしたブームに成りかけていた絵手紙教室の講師として、
母と一緒に招かれ、その時の生徒さんとの関係は今も続いているわけです。

人生、本当に出逢いは大事。
でも、いい出逢いを~と言われてもどうやって?と思うかもしれませんね。

出逢うこと最初に求めても、いい出逢いはないんじゃないかなって思います。
自分の心にまっすぐに、「好き」を信じて、大切に探し続けたら、
自然と出逢いはやってくるように思います。

不思議と全てはつながっているんです。きっと。
私にとって、細井さんも、「手紙」も、相田みつをさんも、出逢うべくして
出逢った、我逢人 です。

感謝を込めて・・・














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游於藝(芸に遊ぶ)

2007-08-23 | 論語


孔子の「志於道 拠於徳 依於仁 遊於芸」の一節です。  (S様所蔵)
孔子曰く、正しい道を志し、徳を根拠とし、仁に依って芸(教養)のなかに遊べと。

孔子の言う芸とは教養であり、学問と礼儀作法、武芸も含まれていました。
そして人への愛情、仁を大切にしつつ、そういった教養(芸)のなかに遊んで、
人格の幅を広げよと。
「游」の字はもともとは「およぐ」という意味ですが、自由な気持ちで
その中に身を委ねるという意味もあります。

昨日は近所の大きな公園で、毎年開催される薪能を父母と鑑賞してきました。
今年は金春流の方々のご出演。
夕方6時半、ちょうど日も傾き周囲の森は大きく風にそよぎ、
蝉しぐれの中、静かに開演。
火入れの儀式は、観客席も少し緊張。そして無事火が入った瞬間、拍手。

山本東次郎家一門の狂言は若手も多く、声良し、歯切れ良し、
お囃子は、独特のリズムが心地よくなかなか楽しめました。

父は子供の頃から趣味で能に親しみ、還暦記念にと国立能楽堂を借り切って、
船弁慶を演じた経験もあり、最後の演目の船弁慶は楽しみにしていたようです。
生憎の雨で、後ジテ(後半)だけとなりましたが、
舞台を見つめながら、父はどんなことを感じているのかしらんと、
感慨深いものがありました。

芸事を習うということは、人として大事なものをたくさん学ぶ場でもあります。
師匠、諸先輩、同輩、後輩との関係の中で、芸だけではなく、尊敬の念、
謙虚な気持ち、感謝の気持ちを学ぶわけです。

今の教育の現場では、誰が教えるものでもない「常識」が通らない非常事態です。
それは、学校の勉強ばかりに集中して、日常の繰り返しの中で自然と身につく
教養を体得する機会が減っているからではないかな・・、そして教養とは、
学問ができることの以前に、さりげなく相手を尊重し思いやることのできる
心なのかなと、ふと思いました。

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寂しくない

2007-08-22 | つれづれ



人は仰いで鳥を見るとき、その背景の空を見落とさないであろうか。
                     三好達治 「鳥鶏」 

大学の頃に出会った、好きなことばです。

人は何かに集中している時、その周りにある物が目に入らなくなって
しまうことがありますよね。
たとえば悩み事があると、そのことばかり考えて暗闇から抜けられなくなったり。
でも、誰かにポンって背中を叩かれたり、ちょっとした一言で救われることも
あるのです。

結局、人は一人なんだと、ある友はいいます。
それは事実であるかもしれないけれど、寂しん坊の私はどこかで願っています。
人の、命の最小単位は、二人、二対であると。

それは男女に限らず、人も自然も生命も、与え合って響きあって育つものだと
思うからです。
たとえば美味しい、嬉しい、悲しい・・そして自分という人間、
そのどれをとっても、凡人の私なんかは一人では気づかないこともあります。

美味しくないものの味を知っているから、美味しいものもわかる。
誰かと一緒に食べるから、美味しく食べられる。
自分と違うタイプの人と向き合うから、自分が見えてくる。
全ては、響き合うことから悦びも生まれる。

人間一人だと思っていると、誰かが背中を押してくれたことさえ気づかない
こともあるかもしれない。

出会いとは、水面に何かが落ちた時に、幾重にも輪を描いて広がる波紋の如し。
そして人生、波紋の繰り返し。

波紋を楽しみたかったら、まず自分が波動しなければね。
もし今、寂しかったら、小さくても波を起こしてみてくださいね。

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