ギャラリー酔いどれ

売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

旧盆にⅢ

2018-08-13 10:13:03 | Weblog
 画は 松本 零士(れいじ) 1938年~ 。 日本の漫画家。
 代表作に『銀河鉄道999』など。
 SF漫画作家として知られるが、少女漫画、戦争もの、
 動物ものなど 様々なジャンルの漫画を描いている。      作


  「戦場まんが シリーズ」です。
   (合成しました)


☆曇り、蒸し暑い。


♪『出征兵士を 送る歌』
  
  一、
  我が大君(おほきみ)に 召されたる
  命(いのち)榮(は)えある 朝ぼらけ
  讚(たた)へて送る 一億の
  歓呼は高く 天を衝(つ)く
  いざ征け つはもの 日本(にっぽん)男児


  五、
  あゝ万世の 大君に
  水漬(みづ)き 草生(む)す 忠烈の
  誓(ちかひ)致さん 秋(とき)到る
  勇ましいかな この首途(かどで)
  いざ征け つはもの 日本男児


ついこの前、なんですよね、

◆https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/8891
長周新聞  2018年8月13日
遅すぎた目覚め(抄) 礒永秀雄  -
 73年目の 8・15に寄せて -



より抜粋、

320万人もの日本人が 中国や南方の戦場で、また原爆や空襲によって殺され、

国中が焦土と化した敗戦から73年目の8月15日を迎える。

実際に戦争を体験した人人が80代、90代となり、

直接話を聞くことが困難になろうとしているなかで、

次の世代に 二度と戦争の惨禍を味わわせないため、

戦争体験や被爆体験を さまざまな形で継承することがますます重要になっている。

山口県の詩人・礒永秀雄は 先の大戦で学徒出陣によって南の島へ送られ、

多くの戦友の死に直面し、九死に一生を得て日本の土を踏んだとき、

詩人として生きる決意を固め、生涯その姿勢を貫いた。

晩年には、国語教師として勤めていた山口県立光高校文芸部の『光芒』第26号
(1969年3月発行)に

「遅すぎた目覚め」と題するエッセイを書いている。

この作品から、戦後出発に関する部分を抜粋して 紹介したい。

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戦争のあったころ

人にはそれぞれぬきさしならぬ体験がある。

説明しても説明しきれぬ実感がある。

それは当人にとって人生の一つの節となることもあるのだ。

その体験が人生の上に支配的な影を落としているとき、われわれはそれを原体験と呼ぶ。

ぼくの場合、それは戦争であり、死に直面させられたことであった。

昭和十八年十二月、学徒臨時徴集で、文科系の学生の大半は駆り立てられた。

「大君に 召される」ことを光栄と受けとめ、

「醜(しこ)の 御盾」として出陣することが 日本男子の誇りである時代であった。

「死んで 還れ」が合言葉であり、敗戦の兆しのようやく見えはじめたそのころ、

出陣はすなわち死 を意味していた。

「身を鴻毛の軽きに 置いて」いさぎよく戦って死ぬことは

「悠久の大義に 生きる」ことで、決して「死」を意味することではない

と言い聞かされていた。

そこには いっさいの「なぜ?」は 許されなかった。

こうした死の美学をあえて否定する者は、非国民の名で糾弾される時代であった。

「ああ、立ったまんまで 死んでいくんだ」

灰色の青春には、なに一つ楽しい思い出もなく、

閉ざされた未来の前に立ちつくしているぼくには、言い知れぬ倦怠感だけがあった。

ぼくは生まれてはじめて詩を書いた。


  孤絶

  雪の夜を
  わたしの歌はどこえやら

  雪の夜を
  わたしの歌があったとて

  雪の夜を
  雪の夜を

  榾火(ほだび)のあかく
  立ちて崩るる ……


そのぼくにも、一つだけ救いがあった。

出陣の決まった十月、大学の壮行会で、文学部長はこう言ってくれた。

「きみたちは不幸にして学途半ばで出征するが、きみたちのあとには、

講師がおり、助教授がおり、教授がいて

学問の灯はしっかり護りつづけているから、後顧の憂いなく

大学の門を後にしてほしい。しかし、きみたちは 学途半ばで出征するのだから、

どんなことがあっても必ず 生きて還ってきてほしい……」と。

ぼくは感動した。

当時タブーである「生きて 還れ」という言葉で励まされたことは、

ぼくを勇気づけて十分だった。

「よし、生きて還ろう。死んでたまるか」


生の美学


「おのれを生かし、人を生かすために この世はあるのではないか」

裏返せば「おのれを殺し、人を殺すために この世はあるのではない」

ということである。


死を待つだけの戦場

軍隊では一兵卒で通すことにした。 幹部候補生の列外である。

死ぬのはごめんであり、人殺しは なおさらお断りである。

もし将校にでもなれば、いつどこで
人殺しの命令を下すことがあるかもしれぬではないか。

フィリッピンで「モノノ用ニ立チウベシトモ 思ワレヌ」

兵士たちが寄せ集められ、新しい一個聯隊が編成された。

そしてそのまま南の孤島に追いやられた。

ニューギニアの西北、赤道に近いハルマヘラという島である。

船舶工兵とは言いながら、舟艇をアメリカ軍の爆撃でやられてしまい、

生き残り組は、短い騎兵銃を持ったまま、

もと関東軍の歩兵の師団に転属させられ、連日にわたる敵機の猛爆撃の下で、

トカゲの鳴き声まで学んだ 斬込隊のゲリラの特訓を受けたりすることになり、

食うや食わずの一年有半が続いた。

ぼくはやがて中隊から四十キロも離れた山中の兵器監視小舎に取り残され、

労役だけは免れたものの、密林の中の自給自足生活で、

ただ死んでいくだけの毎日を送った。

人が死ぬ。つぎつぎにいとも簡単に死んでいく。

機関部に魚雷を受けた輸送船はまたたく間に沈む。

その渦に巻きこまれ、海の藻屑と消えた生命は

どれだけおびただしい数にのぼったろう。

戦わなくても殺されるのだ


その島でも、極度の重労働と栄養失調で 戦友はばたばた殪れた。

たった今、手を振って監視小舎を立ち去った友は、

ものの三十メートルもいかぬうちに敵戦闘機の銃弾であえない最期を遂げた。

密林の中でゲリラに毒矢で殺された斥候兵。

点火していないと思って湿った導火索に息を吹きかけたとたん、
ダイナマイトが爆発して木っ葉になった下士官。

飲まず食わずのところへ食糧が届き、流動食にしなかったばかりに

飯を食って死んだ召集兵。

郷里の沖縄の敗戦を知って気が狂い、脱走し、銃殺された初年兵、

病苦のあまり、みずから命を絶った学生兵。

まだある。 まだまだ ある、

みんな「テンノウヘイカバンザイ」とも言わず、「オカアサン」とも叫ばず、

南海の孤島に ひっそりと朽ちていった。


どうしようもない。 しかたのないことなのだ、死は。

それにはなにか順番のようなものがあって、

みんな早晩 そこへ追いやられるのである。


飢えの中で

食糧がない。

だから植物から虫にいたるまで 手あたりしだい採っては食べ、
下痢をすれば止すのである。

ようかんに似ているところから、黄色火薬まで食べた。

激しい腹痛を起こしたことはいうまでもない。 餓鬼の世界である。

ぼくは射撃に自信があった。

密林の中で、見通しの悪い梢にとまる鷲は射てなかったが、

山鳩やオウムは 比較的低い枝にとまるので目標にしやすかった。

飢えをしのぐために、ぼくはあえて殺生をはじめた。

ある日一羽の白いオウムを射ち落とした。

それをオトリに、つれあいのもう一羽を招き寄せようとした。

しかし寄りつかない のである。

「仲のよい鳥の中でも、やはり薄情なつれあい というのはいるんだな」

と思ったりした。 ところがその夜のことである。

激しい鳴き声と羽搏きで、たしかにつれあいを求めて 生き残った一羽が

宿舎のほとりを飛びまわった。 夜、眼のみえるはずはない。

あちらの木にぶっつかり、こちらの宿舎の屋根にあたり、

それはまさしく壮絶ということばでしか 形容のできない不気味な羽搏きと

鳴き声が夜っぴて続いた。 やりきれなかった。

ぼくはそれ以来、鳥は射たないことにした。


人を焼く

山の向うの谷に野戦病院があり、マラリアで病死した戦友の遺体受領に
来るようにと連絡を受けた。

大男だった戦友は、痩せ細って死んでいた。

軍医は戦友の右手首から先を、メスで切り取ると、パラフィン紙にくるみ、

飯盒の中に無造作に抛りこんで ぼくに渡してくれた。

遺体は毛布にくるみ バナナ林の中に穴を掘って埋葬するように、

右の手は焼いて遺骨を取るように という指示であった。

衛生兵の手を借りて埋葬を終え、

右の手は持ち帰って 湿った密林の奧で荼毘に付した。

銃の手入用のスピンドル油をふりかけ、消えそうになる火をかき立てながら、

半日近くかかって焼いた。

くすぶりつづける肉の臭いは、毛やラシャを焼く あの臭いである。

やっと残った小さな骨を拾い、携帯燃料の空き缶に入れて持ち帰ったが、

屍臭は 半裸のぼくの毛穴という毛穴にしみこんで、

何度水を浴びても、なかなか消えなかった。

バナナ畑には墓標を立てに行った。

なじみの薄い戦友で召集兵だったが、急に親しい想いでおもかげが浮んできた。

ぼくは瞑目して合掌しながら、死者の冥福を祈る経文の一つでも

習っておけばよかったものをと、なすすべを知らぬ自分がなさけなかった。

今にして思えば、それは同時に

みずからへの鎮魂歌を求めていたゆえとも思われる。


生き永らえて

さいわいぼくは生き永らえて 四年ぶりに故国の土を踏むことができた。

昭和二十一年六月、敗戦後十か月目である。

久びさに見る日本の野山と水の色は、さわやかな美しさで ぼくに迫った。

ぼくはそのときはっきり詩人を志した。

奪われた青春は奪回すべく、それは永遠の青春に

つながるものでなければならなかった。

死線を越えてたどり着いた処は、つねに出発点であり、

同時に帰着点でなくてはなるまい。

生死とともにあり、かつ生死を超えた一点が、ぼくにとっては詩であった。

「詩を 生きる」― ぼくはただ猛烈に生きたかった。

あらゆるまやかしを拒否し、絶望を乗り越え、

生涯青春につながる まっとうな生き方をしていこうと思った。

高校時代の友人たちは、出征したまま消息を絶ち、

敗戦後一年たっても音沙汰のないぼくを、てっきり戦死したものと思い、

寄り集まっては ぼくの死を無駄にすまいと誓い合っているということであった。

ぼくは心から感動した。


復員後は、年老いた引き揚げの両親を養いながら、さらには妻子を抱えながら、

激しく詩を人生を生きようとした。

しかし厳しい現実の前に 幾度か夢がみじんに砕かれたとき、

きまって還ってくるのは、死んだ戦友たちに対するうしろめたさであり、

ぶざまな生き方しかできないおのれのさがの拙なさであった。

しかしぼくは詩を、ドラマを、童話を、小説を書きまくった。

書いたものはすべて背後に捨てて、

いつもただ出発だけがあり、戦いだけがあった。


用意していた墓碑銘

戦友の誰彼たちは死んでいった。

ぼくは生き残ったからには、ぼくは彼等の分を含めて、

凋まない白い花を、日々咲かしつづけていかねば済まぬ気がした。

ぼくは死んだ戦友に語りかけるかのように、おのれの生きざまを問いつづけ、

生存のあかしを詩に刻み、まやかしには真向から対決せずにはおれなかった。


https://www.chosyu-journal.jp/wp-content/uploads/2018/08/
 db042039182f5e04ea533a7bfa1b1fca-347x600.jpg

アッツ島で「玉砕」した兵士の骨箱(遺骨は入っていなかった)
を抱えた学生たちの列 (1944年5月、札幌市中島公園)




松本 零士、二枚目、



「ザ・コクピット」です。 (合成しました)



オレンジ色の模擬弾、

◆http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-fd91.html
植草一秀の『知られざる真実』
2018年8月12日 (日)
日航ジャンボ機墜落の鍵握る オレンジエア


より抜粋、

1985年8月12日の日航ジャンボ機123便墜落から

33年の時間が経過した。

私たちは、この事故=事件の「知られざる真実」に迫らなければならない。

一連のオウム真理教事件に伴う死者は29名、負傷者は6000名以上とされるが、

日航ジャンボ機墜落事件では 乗員乗客524名のうち520名が死亡した。

亡くなられた方々のご冥福を、改めて心からお祈りする。


(中略)


圧力隔壁が破損すれば、急減圧で 機内に濃い霧が発生する。

過去の機体破損の事故で 共通して起きている。

だが、123便では、その霧は「数秒」で消えており、

空気の流れも生じなかった可能性が高いのだ。

衝撃は18時24分に発生し、機体に異常が発生して、結局、

18時56分、123便は群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根
(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した。

捜索隊が墜落現場を確認したのは、

墜落から10時間が経過した13日午前8時半ころ。

救難活動が遅れて、乗員乗客524名のうち、520名が死亡したとされている。


しかし、墜落から20分後には 米軍機が墜落現場を確認しており、

午後9時頃まで 海兵隊ヘリと米軍機が救援活動を展開したが、

横田基地の司令部から 帰還を命じられた。

それでも米軍機は 午後9時20分頃に

日本の自衛隊機が現場に到着するのを確認して帰還したということなのだ。


しかし、翌朝8時半まで、救援活動は行われなかった

謎を解く最大のポイントは、衝撃音発生直後にコックピットから発せられた、

重要な言葉である。


その言葉とは

オレンジ エア」。

「フジテレビ『ザ・ノンフィクション』」

https://www.youtube.com/watch?v=7poQ8oyuBQM

の 22分35秒以降の部分で確認できる。


この言葉の意味を確認して、

私たちは日航ジャンボ機墜落事件の「知られざる真実」に

迫らなければならない。



◆https://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/37467767.html
新ベンチャー革命 2018年8月12日 No.2096
2018年8月10日、群馬県防災ヘリが墜落事故を起こす:
 33年前の日航機123便墜落事件の真相が
 いまだに明かされないことが 関係しているのか



1.今年もまた、悪夢の8月12日が巡ってきた

2018年8月12日の今日は、言わずと知れた日航機123便の御巣鷹山墜落事件

の33年目の命日です。

本ブログでは、これまで、毎年、この命日にはこの事件を取り上げてきました。

この事件は決して、単純な航空機事故ではなく、事件性が疑われてきていますが、

33年経っても、真相は解明されないままです。

日本でこの事件の真相を知っているのは中曽根・元首相と思われますが、

同氏が亡くなるまでに、真相を明かしてくれるかどうかは依然、不明です。


2.2018年8月10日、群馬県の防災ヘリが墜落したが、偶然か

上記、日航機墜落事故の33年目の命日の二日前、

群馬県の防災ヘリが墜落事故を起こしました。

筆者個人は、この事故が起きたとき、咄嗟に、

日航機墜落事故を連想しましたが、多くの国民も、同様だったでしょう。

オカルト的に言えば、日航機墜落の犠牲者500人超の怨念

想起せずにはおれませんでした。

今年も、多くの遺族が、御巣鷹山に登って、

犠牲者の御霊を慰霊されるのでしょうが、33年経っても、

国家はまったく、この事件の真相究明をしていません、

それどころか、真相を隠蔽し続けてきた のです。


500人超の犠牲者の御霊が、怒るのは当然です。



3.1985年8月12日、自衛隊護衛艦まつゆきの 無人標的機が、
  誤射か故意にて、日航機123便に命中したのが
  事件の発端である可能性が 非常に高い


事件から33年、筆者個人はずっと、この事件を追及してきましたが、

結論から言えば、自衛隊護衛艦『まつゆき』の試運転時、

無人標的機が日航機の尾翼に命中したのが、

墜落のキッカケをつくった第一原因 と観ています。

そして、123便を日航に納入した米国ボーイング社は、

この事件の真相隠蔽工作に協力して、そのご褒美に、

総額2兆円ものオスプレイ(オス鷹)の開発プロジェクトを受注した

と本ブログでは観ています。



4.群馬県出身の中曽根・元首相は、日航機墜落事件の真相を知っているはず、
  亡くなる前に、真相を告白して欲しい


1985年当時の首相であった中曽根氏は、日本国のトップとして、

日航機墜落事件の真相を知っている可能性が大です。

本人は、まだ存命ですが、亡くなるまでに、

事件の真相を告白して欲しいと願って止みません、

さもないと、群馬県では、これからも、災害が起きる危険が大です。

ちなみに、群馬県上空は、米軍厚木基地の戦闘機の低空飛行訓練場

となっていますし、横田基地に配備されるオスプレイも

群馬県上空で 飛行訓練しそうです。



松本 零士、三枚目、



「アクリルの棺・赤いしっぽ 近藤機」です。



「悪魔 企業」ですから、

◆http://www.afpbb.com/articles/-/3185756
AFP  2018年8月11日
除草剤で末期がんに、米裁判 陪審が
 モンサントに 約320億円の支払い命じる評決



【8月11日 AFP】 米カリフォルニア州在住で末期がんと診断されている男性が、

がんになったのは農薬大手モンサント(Monsanto)の除草剤

「ラウンドアップ(Roundup)」のせいだと

同社を提訴した裁判で10日、陪審は

モンサントに約2億9000万ドル(約320億円)の支払いを命じる評決を出した。

陪審は全員一致で、モンサントの行動には「悪意があり」、

除草剤「ラウンドアップ」とその業務用製品「レンジャープロ(RangerPro)」が、

原告のドウェイン・ジョンソン(Dewayne Johnson)さんの

末期がんの「実質的」な原因だったと結論付けた。

モンサントは上訴する意向を示した。

8週間の裁判で、サンフランシスコの裁判所の陪審は

懲罰的損害賠償金2億5000万ドル(約280億円)

補償的損害賠償金や その他の費用を合わせた 計約2億9000万ドルを支払うよう

モンサントに命じる評決を出した。

グラウンドキーパーとして働いていたジョンソンさんは

2014年に白血球が関与するがんの非ホジキンリンパ腫と診断された。

同州ベニシア(Benicia)にある学校の校庭の管理に

レンジャープロのジェネリック製品を使用していたという。

世界保健機関(WHO)の外部組織である「国際がん研究機関(IARC)」は

2015年にラウンドアップの主成分であるグリホサート

「おそらく発がん性がある可能性がある」物質と指定し、

カリフォルニア州が同じ措置を取った。

これに基づいてこの裁判は起こされた。

モンサントは声明で「ジョンソン氏と家族に 同情する」と述べた一方、

「過去40年、安全かつ効果的に使用され、農業経営者などにとって

重要な役割を担うこの製品を 引き続き精一杯擁護していく」

として上訴する意向を示した。



同様の訴訟 相次ぐ恐れ

今回の裁判はモンサント製品のせいでがんを発症したと提訴し

公判にこぎ着けた最初のケースだった。

モンサントが敗訴したことで

最近ドイツの製薬会社バイエル(Bayer)に買収されたばかりの同社を

相手取って数百件の訴訟が起こされる可能性が高まった

と専門家らは指摘している。

法廷で頭を垂れて座るジョンソンさんの後方に座っていた

ジョンソンさんの弁護団の一員で

故ロバート・ケネディ(Robert Kennedy)元司法長官の息子に当たる

ロバート・ケネディ・ジュニア(Robert F. Kennedy Jr)氏は、

「この評決をきっかけに 今後新たな裁判が次々に起こるだろう」と述べた。

(c)AFP/Glenn CHAPMAN



◆http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52030544.html
日本や世界や宇宙の動向  8月12日
除草剤で末期がんに、
 米裁判 陪審が モンサントに約320億円の支払い命じる評決



巨大企業のモンサントの除草剤の被害者が提訴した結果、

約320憶円の支払いを命じたようですが、

モンサントは上訴するつもりです。

と言うことは最終的にモンサントに有利な評決がでる
ような気がしてなりません。何しろ、

モンサントは自分たちに有利な結果となるよう

最高裁判事や陪審員まで買収するような企業
ですから。

ただ、実際に320憶円を払うことになったら、すごいことだと思います。

これにより次々と被害者がモンサントを訴えることになるでしょう。

そうなれば潰れるしかありません。

或いはイルミは 世界中から攻撃され立ち行かなくなったモンサントを潰して

新たな企業を立ち上げるのかもしれません。

しかし新たな企業は モンサントよりもさらに悪質であり、

有機野菜や有機農法を売りにした

巨大詐欺ビジネスを行うのかもしれませんが。。。

とりあえず、被害者がモンサントから320憶円をもらえれば

大きな変化が起きるかもしれません。

日本もこれからは より多くのモンサント製品が入ってくると思います。

日本人もモンサントの被害にあったら 訴えればよいのです。

☆http://www.afpbb.com/articles/-/3185756?cx_part=latest



ユダヤ企業=モンサント。

日本の提携企業は「住友化学」。
 


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