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リタイアーのよもやま話

ディドロ効果

2011-03-05 21:30:21 | 社会


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〈共有〉からビジネスを生み出す新戦略

レイチェル・ボッツマン
ルー・ロジャース

小林引人=監修・解説
関美和=訳

NHK出版


にあった話で、思うものがあった。


以下、その抜粋。

 

ディドロ効果


1919年、デパートのシアーズは「電気を照明以外
にも使おう」と広告に謳った。

第一次世界大戦以前、平均的な家庭にはトースターも
ミキサーも皿洗い機も生ゴミ処理機もなかった。

多少は時間がかかっても、機械に頼らずパンをトース
トし、皿を洗っていたのだ。

消費革命は始まったばかりで、人々はやっと、そう
いった機器への必要性を感じ、これらの機械に頼る
ようになってゆくところだった。

今日、こうした製品が生活に役立ち、また多くの
人が毎日それを利用していることは認めよう。

だが、同時に不必要ながらくたも台所に増えてきた。

たとえば、スパイラル・スライサーや、つけ合わせ用の
ツール、なかにはメロンくり抜き器といった用途が
極端に限られたものまで。

野菜の飾り切り、たとえばキュウリの渦巻き状切り、
リボン形の飾り切りや薄切りをつくったことがある
なら、スパイラル・スライサーを一度は使ってみた
かも知れない。

広告マンは、スライサーを「賢く、使いやすく、進んだ
もの」として売り込み、肉料理のつけ合わせをつくったり、
みんなが嫌いなニンジンなどの野菜も[美味しそうに
見える」と謳ったりした。

その上、健康という切り札を出して、きれいに飾れば
子どもがもっと野菜を食べるようになると母親たちに
信じ込ませようとした。

このような製品は、生活必需品とは言えないし、大事な
一線を越えている。

その一線とは、たとえば衛生や安全といった合理的
な理由による新しい発明の必要性と、「いつ必要に
なるかわからないから」という広告主のこじつけの
違いだ。


台所の便利グッズがおよそ90年前に登場したことを
考えると今、アイスクリームメーカー、パン焼き器、
マッシュルームの汚れ落としブラシ、チョコレート
フォンデュ・ファウンテン、ポップコーンメーカー、
アイスティーポット、イチゴスライサーといった
品物が台所にあふれているのも無理はない。

こうした便利グツズは衝動買いがほとんどで、
たいていは使い方を覚えて一度便ったら、あとは
しまう場所を探すことになる。

そのうちに自家製のアイスクリームをつくることは
もうないと認め、どう処分するか考えるのにさらに
時問を使うハメになる。

2009年にイギリスの一般的な家庭には25種鎖
の家電製品があったー過去5年間だけでも6割の
増加だ。


なぜ私たちは本当に必要なものを見分けられなく
なってしまったのだろう。

 


18世紀のフランス人作家、ドニ・ディドロは「古い
ナイトガウンを手放す悲哀というエッセイの中で、
友人から贈られた美しい真紅のナイトガウンによって
家が変わったことを綴っている。

ディドロはこの贈り物がたいそう気に入って、いつから
使っているか億えていないほど長年愛用していた古い
ガウンを手放した。

だがその喜びもつかの間、自分の持ち物や家の中が
新しいガウンに比べてみすぼらしく見えはじめた。

彼は馴染んで使い古した書斎の家具を、ひとつ、また
ひとつと買い替えた。

たとえば、古い椅子を、モロッコ製の革張りのアーム
チェアに。

がたのきた古い机は? それも手放そう。

彼は高価なライティングテーブルを買い入れた。

長年壁に飾られていたお気に入りのタペストリーで
さえ、新しいガウンの優雅さにひけをとらない新品の
高価な壁掛けに変わった。

「私は古いナイトガウンの絶対的支配者だった」と
ディドロは記している。


「それなのに、新しいナイトガウンの奴隷になって
しまった」


 現在、消費アナリストはこうした高額品への買い
替えを「ディドロ効果」と呼ぶ。

新しい高級ガウンが「他のすべての持ち物をガウンの
高級感に釣り合うようにさせる」という思いがけない
効果を生んだように、私たちも1920年代以降、
所有のスタイルには統一感(持ち物の色、スタイル、
流行感など)が必要だと思い込まされてきた。

ラルフ・ローレンはデパートのブルーミングデールズの
ひとフロアを全部使って、統一感のある世界をつくり
だし「トータルな住環境」を売り込んでいる。

買い物客は、ラルフ・ローレンの壁紙やガラス食器、
シーツやマット、スリッパ、それからもちろんお揃い
のナイトガウンも手に入れられる。

『グッドハウスキーピング』や『レディース・ホーム・
ジャーナル』といった雑誌の広告には、たとえばスワン
社製の電気ポットが、お揃いのトースター、冷蔵庫、
皿洗い機などのスワン製品に囲まれた「理想のキッチン」
に立つ完ぺきな主婦の姿をバックに宣伝された。

ポット自体ではなく、広告のような完ぺきなライフ
スタイルヘの憧れを喚起したのだ。

1999年のアカデミー賞受賞作『アメリカン・ビュー
ティー』の中で、主人公のレスター(ケヴィン・スペイ
シーが演じた)が平凡な人生への反逆を始める場面に、
こんな台詞がある。

ナレーションの中で、主人公は妻の物質主義を批判する。

妻のキャロラインはバラ園を手入れしている。

そしてそれにぴったりの外見を装っている。

レスターは言う。「あれが僕の妻、キャロライン。枝切り
ばさみの柄がガーテニング用のサンダルと同じ色なのが
見えるだろう? 

あれはたまたまじゃない」人生はこうあるべきだという
物質的なイメージが、さまざまな形で表現されたー映画、
ラジオ、雑誌、政治家のスピーチ、広告-そのすべてが
アメリカンドリームという名でキレイに包まれて。

アメリカンドリームのコンセプトとそれにぴったりな
美しい郊外の住宅のイメージは、アメリカ文化と、
世界に誇る「アメリカ的な生き方」に欠かせない
ものになり、それに異を唱えるのは反アメリカ的と
さえ思われるようになった。

ダグラス・ラシュコフはその著書『ライフ・インク』
の中でこう語っている。

「アメリカ的な生き方とは、本当の高足感を得ること
ではなく、満足げにふるまう人たちをつくること
なんだ」その欲望が、より多くのものを手に入れる
ことへの絶え間ないプレッシャーを生んだ。

そこで企業が乗り越えなければならない壁は、簡単
な支払い方法を消費者に提供することだった。


以上となっている。


ところで、このような内容を読んでいるうちに、
思いだした本があった。


それは、「ルポ・貧困大陸アメリカ(堤未果著)」である。


この本に、このような内容があった。

以下抜粋。


新自由主義登場によって失われたアメリカの中流家庭

1950~60年代にかけて日本のテレビで流行ったアメリカ
の人気ホームドラマは、多くの日本人にとって憧れの家族像を
植えつけるものだった。

郊外の庭つき一戸建てに、ネクタイを締めた白人サラリーマン
の夫。

最新式の設備をそろえた広いキッチンで手作りのマフィンを焼く
専業主婦の妻の周りには可愛らしい三人の子どもたちが走り回り、
その足元には毛の長いふかふかの大型火が眠り込んでいる。

広い広間にはゆったりできる大型ソファが置かれ、窓の外に広
がる緑色の芝生にはスプリンクラーの水しぶきがきらきらと
光っている光景。

私たちにとってアメリカのイメージそのものであったこの幸せな
中流家庭の図は、一体どこで変わってしまったのだろう?

アメリカのホームドラマの舞台は50年代には都市部の労働者
階級の家庭がメインだったのが、60年代からはほとんどが
このようなファミリーものに変わり、その7割以上は郊外に
住む中流家庭を扱った内容になったという。

すべての階級の国民がこの生活を手に入れられること、第37代
大統領であるリチャード・ニクソンはこれをアメリカの理想とし、
また、冷戦時代において旧ソ連より優位にこつ象徴であると考え
た。


以上、である。


前記した「ルポ・貧困大陸アメリカ(堤未果著)」にある
アメリカの風景は、わたしたの子どもの頃の憧憬の風景で
あった。

今思い出しても、至福感がわき起こる。

ところがである。

 


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〈共有〉からビジネスを生み出す新戦略

レイチェル・ボッツマン
ルー・ロジャース

小林引人=監修・解説
関美和=訳

NHK出版

 

によれば、この情景が、とんでもない時代でもあったよう
である。

ハイパー消費主義が、1950年代半ばに爆発的に拡大した
としている。


前記のディドロ効果以降の内容については、だれしも思い
あたる内容である。

どこかで、わたしたちは、際限なくものを手に入れる衝動を
植え付けられた人生を、送らされたかも知れない。

 


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