伊集院静の「大人の流儀」(3冊)を
読み終えた。
ネットでは、彼についてこう書かれている。
“最後の無頼派”と称される直木賞作家・
伊集院静が、無鉄砲とも思える半生の経験
から語る『大人の流儀』
と、紹介されている。
わたしは、文学は素人なので、こう紹介され
ても、その意味するところは、よくは分から
ない。
ところで、無頼について、ネットではこうある。
ぶらい【無頼】とは。意味や解説。[名・形動]
1 正業に就かず、無法な行いをすること。また、
そのさまや、そのような人。「―な(の)輩(やか
ら)」
このように説明があるが、この本を読むとまさに
彼の生活態度は、その説明のままである。
彼の本に、1950年山口県防府市生まれ。とある。
わたしの一つ年下になる。
この事実を知った時に、わたしは、愕然とした。
同世代の人間で、あの破滅的とも言える酒浸り、
博打浸りの生活をしている者がいたとは。
あの70年代に、わたしは、左翼にどっぷりかぶれ
たのだが。
あの70年代前後の騒然とした学生運動の世界に
まったく無縁の人がいたとは、それも、後日有名
になる人で。
よくも、あれだけ、酒と博打に溺れて、人格も
破綻せず、人生もドロップアウトせず、それも、
美人の「夏目雅子」を女房にしていたなんて。
とにかく、あの時代、多くの学生が左翼に感化
されたが、まったく、あの時代にはずれたとこ
ろで、生活していた若者がいたとは、驚きであ
る。
と、同時に、わたしに染みついたあの時代の刻
印というのは、もしかして、一部の学生の「若
気の至り」で、あの熱気は、単なる妄想でしか
なかったのか。そして、そのなんの根拠もない
思い込みに、とりつかれて、いたずらに人生を
消耗してきたのか。考えこんでしまう。
彼が、小説家で名を成さなければ、ただの自
堕落な酔っぱらいでしかない。才能というの
は、恐ろしいものだ。そのような破滅的性格
の人間でも、その他大勢を飛び抜けた人生を
保障する。
そのような自堕落な性格から、想像できない
辛口の物言いができるのは、不思議でしょう
がない。彼が著名な小説家でなければ、誰も
耳を傾けてくれるとは思えないほどの内容だ。
まるで、明治の人間ではないかと思うほどの
時代離れした。とても、同世代とは思えない
発言内容だ。
しかし、なんとなく説得力を感ずるのは不思議
なことである。
戦後のあまりの平等主義にへつらうことなく、
時代に迎合しない発言は、時折、説得力があり
無頼な人間でなければ、口にだせないと思う。
同世代の人間で、時代に迎合しない傲岸不遜と
も思える生き方をしてきた人間がいるとは、不
思議でならない。
彼の存在にため息がでるばかりだ。