今日は、チェンソー持って、生駒の山へ。
私の森に出た風倒木の処理を行う。コナラは、刻んでシイタケ原木にするつもりで積み上げた。カシは杭にできる。ついでというか、風倒木でない木もバサバサ伐る。倒れた瞬間、さっと光が差し込むのが快感。今日は曇りだけど(^^;)。伐った木の枝葉を落として、笹が繁ってしまったところに蒔く。これで少しは笹の生長を抑えてくれたらよいが。
久しぶりにチェンソーを振り回してストレス解消になった。
それとともに、台風などで倒れた木を観察すると、やはり枯れたものが多い。立ち枯れしていたマツとかが、周りの木を巻き込んで倒れるのだ。のしかかられた生きた木も折れている。
風倒木というと、人間からすると貴重な森林資源を失う元なので嫌われるが、自然の生態系では、風などで木が倒れることにどんな意味があるだろうか。
やはり立ち枯れしたか、しそうな弱い木を一掃する効果がある。そして地面に落ちた幹は腐り、枝葉も栄養になるに違いない。倒木更新という言葉があるが、落ち葉に埋もれて発芽できない種子も、倒木の上なら目を出せることもある。
また背の高い木が倒れたおかげで、光が林床に差し込むことによって、種の交代が起きる。埋没種子が芽吹くチャンスが与えられる。生物多様性を保てるだろう。
このように考えると、風倒木を一概に嫌わず自然の摂理として受け入れなくてはならない気になった。まったく倒木のない森は、異常なのだろう。倒れた木も森林資源である。
チェンソーの燃料が尽きたところで終了にして、車にもどり帰り支度。と、そこに携帯が鳴った。
これが新たな出来事の始まりなのだが…それは、また別の話。
日本の生態学の世界にパラダイム・シフトが起きたのは。それまで勉強してきた「極相」の概念がガラガラと崩れて、破壊・攪乱こそ進化の原動力かもしれない……なんて言われて。
ちなみに私が卒業した林学科は、今では森林資源科学科なんて、よくわからない名前になっています。でも、それで女子学生が半数を占めたと聞くから…うらやましい(笑)。私の頃は、ちゃんと「静かな生態学」を習いましたよ。
あがたしが院生のころ,ちょうど(日本の)生態学界で世代交代が起きていて,若手の威勢のいいのが,旧態依然たる「静かな生態学」の大御所にかみつき始めていましたっけ.現実のムーブメントはそれよりはるか前から起きていたはずなのですが,それが一気に噴出し始めたという感じで,生態学会に行ってきた同僚のレポートを,異分野ながらもわくわくしながら聞いていたものです.
いまうっかり「異分野」と書いてしまいましたが,これは当時はそんな自覚だったのですね.そののちに,「水」と「緑」はまったく異分野ではないということを思い知らされることがたくさんありまして,で,結局森林生態学にもかなり深く踏み込むようになってしまったものです.
なにしろ植生の変化が大気の状態を変えるのですからね.森林の(にかぎらず,草原も湿原もサバンナも)変化を重視しない気象の学問は,少なくともローカルな気象学においてはあり得なくなるかもしれません.
どんどん、木を伐ってくださいね(問題発言かなあ。)
大きく育った木から見るもやしっこみたいな間伐材も倒れる瞬間はすごい迫力でした!
木をそだてるのはやっぱり手間がかかるな~と言うのが素直な感想でした。
これを森林に適応すると「太古の昔から続いていた原生林」なんて存在しないことになる。
ボルネオの原生林も、その面積の1割から2割はギャップだそうです。こんな局地的自然破壊(攪乱)が、生物の進化を進めたのかもしれない。
また古代人の影響力も過小評価すべきではないでしょうね。日本の森林で手つかずのところなど無人島にしかないのではないか。
最近は、アマゾンでさえ先住民が手を入れ続けて作られた森だという研究結果が出ている(それどころか、古代に高度な農耕と土木技術を持ったアマゾン文明があったことまで指摘されている!)のだから。
ところでイマドキの生態学(森林生態学)は,いうなれば「動く生態学」でありまして,森はいかなる「変化」を積み重ねながら全体としてどんなシステムを形成しているかというダイナミックな視点を持つものになっています.
で,風倒などによって,それまで鬱閉されていた林床に急に光が差し込むと,それまでだんまりを決め込んでいた実生や埋土種子がソレっとばかり一斉に出世レースを開始する,その変化を追う分野(やその考え方など)が「ギャップ・ダイナミクス」と呼ばれるものです.