森林ジャーナリストの裏ブログ

表ブログに書けない、書く必要もないドーデモ話をつらつらと。

明日香村の案山子

2014-12-30 10:31:56 | 幻の写真・図

川上村へらの帰り、明日香村を抜けていくコースを選択。

そこで以前より気になっていた案山子コンテストを見てきた。玉石混淆? 力作揃い? 

なかなか楽しそうである。

せっかく現地を歩いて撮影したのに、公開することなく眠っていたので、2014年も押し迫った今、公開しておきます。

 

なお、もう一枚。

こちらは来年・未年の年賀状用のつもりだったが、ほとんど使わなかった(@_@)写真。

ラッキーガーデンのヒツジ。なぜか棚田の石垣に張りついている。

案山子のクマより、本物のヒツジの方がツクリモノぽいよ。



晩年の土倉翁

2007-08-02 21:38:40 | 幻の写真・図

大正5年に撮られた土倉庄三郎の写真が見つかった。

亡くなる1年前に家族たちと撮ったらしい集合写真である。おそらく生前の最後の写真だろう。
これまで公になったことはないはずだ。私は、好意で複写させていただいた。そのうち、ちゃんとした形で日の目を見るようにしたい。
その一部を引き延ばしてみたのが上記である。さすがに老いた印象はある。しかも、この頃は財産の大半を失っていたはずだから、決して悠々自適の晩年とは言えないだろう。家族も、大集合とはならなかった。それでも、一家の長の貫祿は感じる。


土倉邸跡

2007-07-08 22:00:13 | 幻の写真・図
久しぶりに「幻の写真・図」の紹介。

これは、川上村大滝の土倉邸跡に、わずかに残る土塀。かなり傷んでいるのが見てとれる。もちろん土倉邸自体も今はない。そこは一部が郵便局や駐在所になっているが、ほとんどは空き地で、そこに礎石が残るだけだ。


土倉庄三郎の全盛期は、ここに新島襄はもちろん、板垣退助や井上馨、山県有朋など明治の元勲が通ったと伝えられる。そのよすがを、崩れかけた土塀から感じられるだろうか。

土倉庄三郎還暦記念写真

2007-04-02 00:26:24 | 幻の写真・図

ちょっと貴重な写真を手に入れた。

吉野の山林王だった土倉庄三郎のものである。彼こそ、吉野を日本に並ぶもののない林業地とし、明治の元勲とも懇意で時代を動かしたとも言える人物である。

手に入ったものは、かなり大きな集合写真(100人くらい写っている)なので、そのままだと人物の顔がわからないため、トリミングして拡大した。真ん中当たりに位置するのが土倉とその妻だ。

注目してほしいのは、前列に座っている一群。わかるかなあ。ちょっと日本人離れした人々を見つけてほしい。7人くらい、和服でなくて、チャイナ服のような、ポンチョのような洋装である。女性もいるようだ。

彼らは、台湾の先住民。いわゆる高砂族だ。その通訳もいるらしい。
この写真は、明治33年、土倉の還暦祝のものである。その記念に高砂族の頭目を日本に招いた時のものだ。ちょうど、台湾で2万ヘクタールの植林を始めていたから、吉野で造林技術を教える意味もあったのかもしれない。吉野では、踊りなども披露したと伝えられる。

土倉家が、もっとも興隆していた時代だったのかもしれない。


東海道五十三次の絵

2007-03-19 16:30:21 | 幻の写真・図

最近、ちょっとよく使う写真というか、絵。

安藤広重の「東海道五十三次」の1枚、府中(静岡)の丸子宿である。現在でも、絵にあるようにとろろ汁で有名だ。私も大昔に食べたことがある。

が、私が講演で使うのは、とろろ汁の宣伝のためではなく、背景の山を見せるため。

木が生えていない。山は禿げているのだ。実は丸子だけでなく、五十三次の絵の山が描かれているものは、たいてい禿山か、せいぜい松林程度。松は、もっとも土地が痩せているところに生えることで知られている。

そう、江戸時代の山は、どこも禿山ばかりだった。
木を伐りすぎた証拠である。なんだか江戸時代はエコロジカルな世界と思われがちだが、事実は森林破壊がもっとも広まった時代だった。その結果として、エコロジカル?な(質素な)生活を余儀なくさせられたのだろう。

……と、まあ、これを導入部にして、日本の山がほとんど人によって作られたものだと説明しているんだけどね。

 


緑の造形

2006-12-12 00:04:27 | 幻の写真・図
ちょっと骨休め?

人気のないダムサイト脇の公園で見かけた緑の造形。
味気ないコンクリート煉瓦も、目地に苔が生えると意外なデザインとなる。

「緑色のダム」計画のように、ダムサイトも表面を工夫すると、こんな風に苔が生えてコンクリートを覆ってくれないだろうか。

林業写真帳番外編(修羅)

2006-09-06 14:22:28 | 幻の写真・図

そろそろネタが尽きたといいつつ、もう一つ。

 

これまでもコメントで修羅(しゅら)という言葉が出てきたが、これはようするに斜面に滑り台を作って、そこに伐りだした木材を滑らせて集材するもの。通常は、伐った丸太をそのまま利用して作り、ほかの木を滑り落とした後に、修羅にした丸太も落として全部搬出する。だから、作業終了後は跡形もなくなり、現存しない。

少し前まで岡山でまだ使われていたと聞くが、確認していない。

 

残念ながら、私はそんな修羅の写真を持っていないので、代わりにコレ。
合成樹脂製の現代版修羅だ。修羅は、作業道を敷くこともなく、エネルギーも使わないしコストもかからないという特長があるのだが、今や修羅を組んで運用できる人はほとんどいない。そこで、もっと簡単に、誰でも使える修羅として、FRP製の修羅が考え出された。これは実験用。

もちろん運び出される木材は小径木に限る。主に薪や木炭・シイタケ原木の搬出用だ。ただ、その場で組み立てるのと違って、山の中をかさばる修羅を担いでいかねばならないから、手間は結構かかる。こんなの設置する暇あったら、薪を担いで降りられる…という声もある(^^;)。

 

なかなか普及は難しそうだ。


林業写真帳番外編(木馬道)

2006-09-05 12:19:25 | 幻の写真・図

林業関係の古い写真は尽きたのだけど、先に触れた「木馬」の通る木馬道について。

 

写真は、和歌山県古座川町の森に伸びる木馬道。ちょっと見にくいが、小川を越えて線路のような路線が敷かれている。この上を、橇(木馬)に木材を積んで押して歩く。
そんなに古いものではない。せいぜい数年前まで使われていたものだ。と言っても運び出すのは、木炭の原木となるウバメガシなどである。

作ったのは、紀州備長炭を焼く阪本保喜さん。森の中を一キロ以上延びて、支線などもある木馬道をたった一人で建設した。材料はその場にある雑木や間伐木。それで川を越え、急な傾斜をトラバースさせて縦横無尽に延びる。しかし、その範囲の木を伐ったら放棄してしまう。

本人に言わせると、「そんなに大変じゃない。これを作った方が運び出しは楽になる」そうだ。たしかに林道・作業道を敷く手間とコストを考えると、炭焼きには木馬が合っているのかもしれない。

(これらのは話は、『だれが日本の「森」を殺すのか』に書いているのでご一読を。)


古き林業写真帳(貯木場)

2006-09-04 15:00:34 | 幻の写真・図

そろそろ終わりか、古き林業写真館。

 

というわけで、紹介するのが、吉野の貯木場。川上村など上流から流れされてきた丸太を浮かべて保管していた。丸太は、水に浮かした方が管理しやすいし、乾燥すると言われる。

水に漬けているのに乾燥するというのは、樹脂などが抜けて陸に上げた際に乾燥しやすくなるからだという。昔からの知恵である。

 


吉野に貯木場が完成したのは、昭和13年末と、わりと遅い。当時は五條、そして和歌山まで流していたからである。和歌山の河口には、巨大な貯木場を吉野の林業関係者が持っていた。
だが、明治も進み、大正、昭和になると、和歌山には土佐材や外材が入りだした。そのため吉野で木材を陸揚げすることが増えた。鉄道が整備されて陸送が可能になったこともあるだろう。そこで和歌山の貯木場を売り払って、吉野に作ったのである。

 

一方で、陸送が進むと、筏流しも減ってきて、山元から直接トラックで運び出すことも増えてきた。そのため吉野に行かず、桜井にも送られ始める。しかし、桜井は木材不足を外材にも頼るようになって、やがて吉野材から離れていく。

 

そのように考えると、吉野の貯木場は、いっときの栄華の夢かもしれない。


古き林業写真帳(木馬)

2006-09-03 00:58:36 | 幻の写真・図

また写真館の続き。

 

木馬である。きんま、と読む。馬というより橇の上に丸太を積み上げ、木の線路(木馬道)の上を人間が引っ張って運ぶ。道ではなく、梯子状に組まれた線路の上を歩きながら橇を引っ張るのだから、おそるべき木材搬出方法である。伐採現場から、木馬道まで丸太を落とし、土場までこれで運ぶ。川を流すのは、その後のことだ。
これが、江戸時代、明治、大正、そして昭和に入って戦後も結構長く続けられていたことに仰天する。

 

おそらく積む木材の重さは1トン近くになったのではないか。重要なのは、線路で、わずかに下りの傾斜を付けてあること。だから人力でも動くのだが、それでもたまには詰まる。すると油を垂らして滑らすのだそうだ。逆に滑りすぎると暴走して危険なのだが、ブレーキはない。かろうじて橇に用意した紐を巻き付けて摩擦で止める。全身を丸太の前にさらして足で踏ん張る。失敗したら人体は踏みつぶされるだろう。

 

危険で重労働ゆえに、木馬挽きの待遇はよかったらしいが、今ではできる者はいないし、やりたい人もいまい。しかし、写真でわかるとおり、数珠つなぎで木馬を挽く時代があったのだ。

 


古き林業写真帳(堰出し)

2006-09-01 18:07:27 | 幻の写真・図

まだまだ続くよ、懐かし林業写真館(^o^)。

 

これは、先にコメントでも触れられた木材を川に流すための堰。通常は筏を組んで課下流へ運ぶが、水量が少ないと無理である。そこで、上流部など川の状態によっては堰を築いて、水を溜めてから、一気に水とともに木材を流すこともする。水も丸太も勢いよく流れるから、「鉄砲」と呼ぶらしい。ただし、地方によっては別の名もあるだろう。この堰を形作っている丸太も流してしまうという。
話は聞くが、実際の堰の写真は、私も初めて見た。

 

この方法は、丸太も痛みやすいし、あまりお勧めではないが、機械を使わない時代には貴重なアイデアだったろう。

 

ちなみに、堰さえ作れず、また川幅が狭い、浅いなどの場合は、筏を組まず1本ずつ丸太を流す「管流し」の技術もあるそうだ。


古き林業写真帳(主伐)

2006-08-31 16:38:03 | 幻の写真・図

前回に続き、戦前の吉野林業の写真館。

 

これは主伐風景。皆伐ですが、見事に尾根側に倒して、それを谷に集めています。谷に見えるのは修羅(木の滑り台のような運搬施設)かな? また奥に木の堰のようなものも見えるけど、どのように使ったのかは不明。
これだけ多くの木をきれいに並べて倒すのは、やはり相当な技術がいると思います。少しでも伐倒方向が狂えば、重なってしまう。結構システマチックに運営していたのではないかと感じました。

 

それにしても、木材景気に湧いていた頃の風景でしょうね。多くの人が働き、山村がもっとも輝いていた時代かもしれません。

 


吉野の伐倒風景(戦前)

2006-08-30 15:16:03 | 幻の写真・図

伐倒技術について、予想外に話題になっているので、一つ貴重な写真を。

 

これは戦前撮られた、吉野の間伐風景です(奈良県林業写真帳より)。間伐と言っても、太さから80年~100年ものの木のようですね。
複写ですのでぼけていますが、ちゃんと山側に倒しています。切り株までは見えませんが、その上に切り口を乗せています。

 

そして樹皮を剥く。これも葉枯らしに必要なことなんですね。皮を剥くには、アオキの幹を使います。この木をへらのようにして、まだみずみずしい樹皮の下に入れると、面白いように剥けます。この際に手につく樹液は、手をすべすべする効果があります。もしかして、何かに使えるかも。

このまま半年くらいすると重量も半減します。


シラカバ材をかつらむき

2006-08-14 17:29:30 | 幻の写真・図

写真は、シラカバの丸太をかつらむきのように薄いベニヤ板(単板)を取る機械。かなり古いものだが、現在のロータリーレース機械と原理は同じだ。

 

シラカバ材を薄くして何を作るか?

 

普通なら、割り箸? と思うだろう。そう、大量生産されている割り箸は、シラカバやアスペンの材をかつらむきして、それを割り箸に加工している。が、この機械は……

つまようじ製造機なのである。実は、シラカバ材をうすく剥けば大量生産できることに気づいて機械を発明したのは、つまようじの方が先なのだそうだ。

割り箸は、つまようじ生産からヒントを受けて始めた。つまり、このつまようじ製造機こそ、今世界を席巻している割り箸製造の原点なのであった。

※久しぶりに「幻の写真・図」だ(^o^)


田舎の伝統?行事

2006-02-04 23:26:43 | 幻の写真・図

写真をアップしたくなった(^o^)。

この写真は、生駒の棚田地帯で行われた「とんど」、つまりしめ縄や門松など正月絡みの道具を燃やす行事である。実際は、竹なども加えて大きな焚き火にし、その火で餅を焼く…など地域によって、それぞれの流儀がある。

 ところで、この生駒のとんど。実は昔からの行事ではない。いや、何十年か前にはやっていたらしいが、ずっと途切れていた。やっていたときも、そんな大規模なものではなかったらしい。
それを現代に蘇らせたのは、NPOである。会員は地元に縁のない人が多いが、棚田復興を目的に現地に入り、地域に溶け込む中で「とんどを復活させよう」と言い出して実現したものだ。

もっとも正確に言えば、復活というより新しく作り上げた祭に近い。 すでにモウソウチクや雑木雑草に埋もれた棚田を何枚も“発掘”し、そこで切り出した竹木を用いて巨大なとんどを行った。餅つき、蕎麦うち、シシ鍋に加えて、今年は連凧も上げたそうだ。こうなると、まったく新しい行事である。

考えてみれば、伝統行事だって、最初の1回目があったわけである。このとんどが、西畑に根付けば、伝統行事になる。そしてNPOによる田舎づくりにもなるだろう。